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第三夜
壱 秀吉の語らい
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「殿下、茶々殿をお側に召されたのでございますね?」
西の丸こと、竜子は、秀吉の着物の袖を取り、拗ねて見せた。
「私もたぶんもう、お役には立てませぬものね。」
潤んだ目で、寂しそうに竜子は秀吉を見上げる。
「竜子、そのようなことはないぞ。」
そう言う秀吉の心の奥を感じとり、竜子はそっと目を伏せた。
「竜子の元が安心するのじゃ。」
女の温かながら寂しげな手を取り、秀吉が頬擦りする。
「おねさまにもそうおっしゃるのでございましょう?」
男の調子のよさに、竜子は仕方なさそうに柔らかな笑みを作った。
「おねはおね。竜子は竜子じゃぁ。そなたの温さは格別じゃ。」
秀吉が、ガバと竜子を抱き締めた。そっと当てられた頬の皺が竜子の心を溶かす。
「嬉しゅうございます。殿下。」
無邪気な笑顔に、秀吉も満足そうに頷く。
「したが、赤子を望むのなら、やはり茶々殿の方がよろしいですわね。」
指をもじもじと動かしながらも、精一杯にっこりと笑う女が、秀吉には愛しくてたまらなかった。
「…竜子…」
「私とて、武家の女子ですもの。」
柔らかに、凛として竜子は微笑む。
秀吉がただ女好きなのではなく、子を切望しているのも、位が高まるほどにその思いが強くなっているのも、京極家ーー武家の名門の姫である竜子は、十分に承知していた。
「殿下の赤子が見てみとうございます。」
秀吉は何も言えずに、ただ竜子を抱き締める。年を経て柔らかになった肌の温かさが、着物を通しても伝わってきた。
胸の中でじっとしている竜子の心の寂しさを、秀吉は感じていた。
竜子の口を借りて、おねが言葉を発したようにも感じている。
(儂は、果報者じゃ。)
秀吉は、一筋だけ白髪のある竜子の髪をそっと撫でた。
「殿下…、私のことも忘れないでくださいませね。」
「忘れぬぞ。そなたは、儂の大事な女子じゃ。茶々にとっても縁続きではないか。」
「さようではございますが。」
「悋気か?」
「そのような…」
「よいよい、かわいい奴じゃ。」
竜子の正直な言葉に、秀吉は微笑む。
「今宵までは茶々の元に参らねばならぬ。また改めて来ようぞ。」
「まことに?」
「なんとも知れぬ。側女が増えてもそなたへの思いは変わらぬ。今までもそうであったろう?」
「…はい…」
「茶々がいても同じじゃ。おねはおね。竜子は竜子。茶々は茶々じゃ。」
「まぁ、調子のよい。」
竜子が目を見開き、大袈裟にプイとふくれて見せた。秀吉も負けずに目を見開いて、竜子を見返す。
どちらからともなく吹き出し、朗らかな男女の笑い声が部屋に響いた。
「そうじゃ。そのように儂の気持ちを明るうしてくれるのが竜子ではないか。そなたがおらねば、儂は困るぞ。」
「嬉しゅうございます。」
「竜子らしゅう、笑っておれ。その顔を見に来るでの。」
「はい。早う来てくださいませね。殿下。」
「うむ。約束する。」
「それならば、今日のところは、許して差し上げます。」
茶目っ気のある、大輪の花のような笑顔を竜子が秀吉に向けた。
「これはこれは、ありがたき幸せ。かたじけのうござる。」
秀吉が大仰に改まって頭を下げた。
チラリと見上げる秀吉の目に、竜子は笑いだす。
「それでこそ、竜子じゃ。」
「ふふ。茶々殿によろしく。」
「うむ。では行ってまいる。」
竜子の部屋から離れ、茶々の待つ部屋へ歩を進めていた秀吉がふと立ち止まった。
日が沈んだ後の残り香のような光も今はなく、星が瞬き始めている。
わずかに空を見上げた秀吉が、踵を返し、自室へと戻った。
侍女によって開けられた襖を通る前から、秀吉は羽織の紐に手をかけていた。
「おまえさま?」
「着替える。」
秀吉は真面目くさった顔で、それだけ伝える。
「はいはい。」
動じることもなく、秀吉の脱ぎ捨てる着物を慣れた様子でおねは拾っていった。
(竜子殿のところにでも寄られたか。まめな方じゃ。)
おねは苦笑をしていた。
(お側に侍る者たちには、このように気を配られるのに……)
秀吉は大勢の側室を侍らせていたが、一人の側室と床を共にしたあと、そのまま続けて別の側室の元には足を運ばない。
別の愛姫に渡る時は、必ず自室に戻り、着替えるのである。
裏を返せば、必ずおねの元から側室の元に通うのであった。若い頃のおねは、やりきれない思いも抱えたが、今では、それが秀吉の愛情だと解っている。
しかし今は着物の乱れもない。
(竜子殿とただ話されただけであろうに、今一度身支度を改められるとは…。やはり茶々殿は別格であるようじゃ。)
おねは夫に黄金色の羽織を着せかけ、扇子を捧げた。
秀吉は黙って扇子を掴み、帯の間に挟む。
「お急ぎなされませ。茶々殿がお待ちでしょう。」
おねはにっこりと微笑んだ。
「うむ。行ってまいる。」
真面目くさったままの顔で、秀吉はまた部屋を出ていった。
部屋から出て行く夫の背を見ながら、
(さて、茶々殿に贈る着物を仕上げましょうか)
おねはついと立ち上がり、グッと腰を伸ばした。
西の丸こと、竜子は、秀吉の着物の袖を取り、拗ねて見せた。
「私もたぶんもう、お役には立てませぬものね。」
潤んだ目で、寂しそうに竜子は秀吉を見上げる。
「竜子、そのようなことはないぞ。」
そう言う秀吉の心の奥を感じとり、竜子はそっと目を伏せた。
「竜子の元が安心するのじゃ。」
女の温かながら寂しげな手を取り、秀吉が頬擦りする。
「おねさまにもそうおっしゃるのでございましょう?」
男の調子のよさに、竜子は仕方なさそうに柔らかな笑みを作った。
「おねはおね。竜子は竜子じゃぁ。そなたの温さは格別じゃ。」
秀吉が、ガバと竜子を抱き締めた。そっと当てられた頬の皺が竜子の心を溶かす。
「嬉しゅうございます。殿下。」
無邪気な笑顔に、秀吉も満足そうに頷く。
「したが、赤子を望むのなら、やはり茶々殿の方がよろしいですわね。」
指をもじもじと動かしながらも、精一杯にっこりと笑う女が、秀吉には愛しくてたまらなかった。
「…竜子…」
「私とて、武家の女子ですもの。」
柔らかに、凛として竜子は微笑む。
秀吉がただ女好きなのではなく、子を切望しているのも、位が高まるほどにその思いが強くなっているのも、京極家ーー武家の名門の姫である竜子は、十分に承知していた。
「殿下の赤子が見てみとうございます。」
秀吉は何も言えずに、ただ竜子を抱き締める。年を経て柔らかになった肌の温かさが、着物を通しても伝わってきた。
胸の中でじっとしている竜子の心の寂しさを、秀吉は感じていた。
竜子の口を借りて、おねが言葉を発したようにも感じている。
(儂は、果報者じゃ。)
秀吉は、一筋だけ白髪のある竜子の髪をそっと撫でた。
「殿下…、私のことも忘れないでくださいませね。」
「忘れぬぞ。そなたは、儂の大事な女子じゃ。茶々にとっても縁続きではないか。」
「さようではございますが。」
「悋気か?」
「そのような…」
「よいよい、かわいい奴じゃ。」
竜子の正直な言葉に、秀吉は微笑む。
「今宵までは茶々の元に参らねばならぬ。また改めて来ようぞ。」
「まことに?」
「なんとも知れぬ。側女が増えてもそなたへの思いは変わらぬ。今までもそうであったろう?」
「…はい…」
「茶々がいても同じじゃ。おねはおね。竜子は竜子。茶々は茶々じゃ。」
「まぁ、調子のよい。」
竜子が目を見開き、大袈裟にプイとふくれて見せた。秀吉も負けずに目を見開いて、竜子を見返す。
どちらからともなく吹き出し、朗らかな男女の笑い声が部屋に響いた。
「そうじゃ。そのように儂の気持ちを明るうしてくれるのが竜子ではないか。そなたがおらねば、儂は困るぞ。」
「嬉しゅうございます。」
「竜子らしゅう、笑っておれ。その顔を見に来るでの。」
「はい。早う来てくださいませね。殿下。」
「うむ。約束する。」
「それならば、今日のところは、許して差し上げます。」
茶目っ気のある、大輪の花のような笑顔を竜子が秀吉に向けた。
「これはこれは、ありがたき幸せ。かたじけのうござる。」
秀吉が大仰に改まって頭を下げた。
チラリと見上げる秀吉の目に、竜子は笑いだす。
「それでこそ、竜子じゃ。」
「ふふ。茶々殿によろしく。」
「うむ。では行ってまいる。」
竜子の部屋から離れ、茶々の待つ部屋へ歩を進めていた秀吉がふと立ち止まった。
日が沈んだ後の残り香のような光も今はなく、星が瞬き始めている。
わずかに空を見上げた秀吉が、踵を返し、自室へと戻った。
侍女によって開けられた襖を通る前から、秀吉は羽織の紐に手をかけていた。
「おまえさま?」
「着替える。」
秀吉は真面目くさった顔で、それだけ伝える。
「はいはい。」
動じることもなく、秀吉の脱ぎ捨てる着物を慣れた様子でおねは拾っていった。
(竜子殿のところにでも寄られたか。まめな方じゃ。)
おねは苦笑をしていた。
(お側に侍る者たちには、このように気を配られるのに……)
秀吉は大勢の側室を侍らせていたが、一人の側室と床を共にしたあと、そのまま続けて別の側室の元には足を運ばない。
別の愛姫に渡る時は、必ず自室に戻り、着替えるのである。
裏を返せば、必ずおねの元から側室の元に通うのであった。若い頃のおねは、やりきれない思いも抱えたが、今では、それが秀吉の愛情だと解っている。
しかし今は着物の乱れもない。
(竜子殿とただ話されただけであろうに、今一度身支度を改められるとは…。やはり茶々殿は別格であるようじゃ。)
おねは夫に黄金色の羽織を着せかけ、扇子を捧げた。
秀吉は黙って扇子を掴み、帯の間に挟む。
「お急ぎなされませ。茶々殿がお待ちでしょう。」
おねはにっこりと微笑んだ。
「うむ。行ってまいる。」
真面目くさったままの顔で、秀吉はまた部屋を出ていった。
部屋から出て行く夫の背を見ながら、
(さて、茶々殿に贈る着物を仕上げましょうか)
おねはついと立ち上がり、グッと腰を伸ばした。
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