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第五部(最終)

第二十七章 九星、光り輝く 其の三

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 竹村助兵衛からの文を見た翌朝、秀忠が入ってくるのを待ち構えて、利勝が平伏した。 
「いかがした。改まって。」 
「おめでとうござりまする。男子おのこが、生まれたようにございます。」 
「そうか。…幸松こうまつと名付けよ。」 
 立ち止まったまま、それだけ告げると、将軍はすたすたと文机に向かった。 

「それだけでございますか。」 
「そうじゃ。」 
 机の前に腰を下ろしながら、あまり関心もなさそうに秀忠は「うん」と頷いた。 
 (静にはそれで通じるであろう)。
 そう秀忠は思っている。 
 ふと、なにか思い出したように秀忠は文机の横の行李こうりに手を伸ばした。 
「ああ、これを渡せ。」 
 秀忠がその中から、葵の紋の入った小袖を取り出し、利勝に渡す。 
「用意されておったのですか?」 
「大姥がな。」 
 驚く利勝に、秀忠はぶっきらぼうに答える。 
「お婆様が?」 
「下がる前にわざわざここに来て置いていった。『自分の子と認めるなら、名とこの小袖をくれ。認めぬなら、それもよし』とな。」 
 あくびを噛み殺すような淡々とした口調であった。 
「では子に?」 
「せぬ。」 
 改まって自分に向き直った利勝に、秀忠はただ一言を即答した。 

 (自分の子と認めて、子にせぬのか?) 
 利勝の手が膝の上で拳を握り、力を込める。 
「御台様のためですか。」 
 どこか恨みがましいような低い声で、利勝が尋ねた。 
「それもある。」 
 秀忠が墨を擂りながら、軽やかに答える。 
「『も』?」 
 (他に理由があるのか?) 
 利勝が、将軍の顔を凝視した。 
「徳川と豊臣のためじゃ。」 
「徳川と豊臣?」 
 怪訝けげんな声の老中に、将軍は墨を擂りつつ答える。 
「江が生んだ男子二人で家来どもが揺れるなかに、これ以上の火種はいらぬ。 いや、所詮、御台所の子供たちとは張り合えまい。大姥もおらぬ。後ろ楯がなければ、味方もなかろう。幸松が辛い思いをするだけじゃ。」 
 手を止めることもなく、さらりと深いところを突く秀忠の言葉に、利勝は、自分のことを言われているようでドキリとする。 

 (子を思うゆえに、子にせぬというのか?) 

「して、豊臣のためとは。」 
 自分の心の揺れを押し隠し、老中は重々しく将軍に尋ねた。 
 将軍が墨を置き、腕組みをして天をあおぐ。 
「国松殿をの、なんとか手放しては貰えぬかと思うのじゃ。それを大坂方に、淀の方様にわかっていただく。そのために、」 
 (国松殿を人質としてこちらに得ることができれば……) 
 将軍がそう思って言葉を切った後を老中が継いだ。 
「お子を手放すのですか。豊臣に国松殿を手放させて、千姫大姫さまのお子を待って、事情が変わりましょうや。」 
 秀忠が『子のことを思って子にしない』というのが解っていても、どこか、利勝は秀忠を責めずにはいられなかった。 
「分からぬ。分からぬが、国松殿を外へ出してもらえれば、取り込んで生かすこともできる。秀頼殿に大坂城から出ていただくことも叶うやもしれぬ。」 
 利勝の言葉に潜む思いを受け止めながら、惑うように秀忠が言い、言葉を止めた。小さな溜め息をついて、老中に向かって姿勢をただす。 
「夢なのかもしれぬ。 ……したが、幸松にしろ、将軍家という中で生きるばかりが幸せなのではない。光君ひかるきみのようにな。 臣下であるからこそ、実力ちからが発揮できることがあろう。のう。利勝。」 
 ゆっくりと威厳に満ちた言葉は、まるで家康が乗り移ったようであった。 

 利勝は己の役割を改めて感じとる。 
 まっすぐに自分を見つめている将軍に、老中もまっすぐの視線を返した。 
 深く鋭い秀忠の視線に利勝がニヤリと笑う。 
「では、すぐにでも名と、この小袖をお届けいたしまする。」 
「うむ。」 
 将軍は短い返事をすると、黙って筆に墨を含ませた。 

◇◆◇

 雅やかな拝領屋敷の庭に、不釣り合いなおむつが翻っている。 
 大姥局も見性院も若君の側から離れず、今日も産室で赤子を見つめていた。 

「旦那さま、大炊頭おおいのかみさまが…」 
 藤が大姥局に声をかける。 
「そうか。こちらへお通しせよ。」 
「こちらでよろしいのですか?」 
「ああ。赤子ややを見てもらおう。」 

 ほどなく、利勝が現れた。 
「ご無沙汰しておりまする。これは、見性院さまも。」 
「朝のお勤めが済むと、すぐに飛んでこられる。」 
 大姥局が「ほほ」と笑った。老女は、利勝が小袖を持参しているのを目ざとく見つけている。 
 (お名はつけてくださったようじゃ。) 
 大姥局の皺がにっこりと深まった。 
「静、ご苦労であったな。」 
 赤子の顔を覗き込んだ利勝が、まだ積んだ布団にもたれさせられている静に声をかけた。 
 静がふんわりとえくぼを浮かべる。 
「上様によう似ておられる。」 
 生まれたばかりの長丸ながまるの、うにょうにょとした様子に、どうしてよいか途方に暮れていた幼い自分を思い出した。利勝の口許が緩む。 

「して、今日のご用は。」 
 大姥局が待ちきれないように催促をした。 
「上様からの預かりものにございます。」 
 老中が姿勢をただして風呂敷包みを解き、中の紙包みを開いた。常磐色ときわいろに三葉葵が銀刺繍された、立派な小袖があった。 
「これを、こんな立派なものを、この子にいただけるのですか?」 
 秀忠が子供を認めてくれるなどとは思ってみなかった静が、震える声で尋ねる。 
「そうじゃ。」 
 利勝が、チラリと大姥局を見た。 
「そして、『幸松と名付けよ』と仰せでした。」 
 おごそかに秀忠が書いた名を懐から取り出す。 

 白い紙に黒々と「幸松」とだけ書かれていた。 

「それだけにございますか?」 
 見性院が思わず声をあげる。 
「それだけにございます。」 
 利勝は平然と言い、ちらりと静を見た。 
 秀忠が、興味のないそぶりを見せていたのだから、自分はその通り伝えねばならぬ。静に希望を持たせてはならぬのだ。 
 それが自分の役割であると利勝は思う。 
 静はただ黙って名の書かれた紙を見つめていたが、老女二人はどこかオロオロとしていた。 
「しかし、名だけとは……上様らしいと言えば上様らしいが……」 
 やはり、静の様子が気になりながら、大姥局は口ごもる。 
「大姥様にお任せするということなのでしょう。」 
 利勝が顔を引き締め、主人の思いを伝えた。 
「そうじゃろうの。『一切を任せる』と仰せでしたゆえ。静、すまぬな。」 
 秀忠らしい一途な頑固さと静への申し訳なさに、大姥局は溜め息をつく。 
「いいえ、旦那様。上様から名をいただけるとは思うてもおりませんでした。よき名をいただきました。」 
 じっと名を見つめていた静が、えくぼを深めて、胸の前で手を合わせた。 
「そうじゃな。さきくましい名じゃ。」 
 大姥局も秀忠のたった一つの父としての仕事に、『幸せになってほしい』と願いを込めたのに微笑む。 

 静は静で、実直に書かれた「幸松」という字を見つめ、考えていた。 

 …幸松……幸せを祈ってくださってるだけではない。これは、きっと上様からの謎かけ。 
 ……「こうまつ」「さきまつ」「ゆきまつ」……。 
 静は、和歌うたを読むように次々と頭の中で色々な読み方をする。 
 …たしか、御台様の名は「ごう」とおっしゃられた。 
 閨で何度か聞いた名を静は思い出す。 
 …ならば、「先を待つ」「行く末を待つ」…「ごうと待つ」ということなのかもしれぬ。 
 この子を若様方の役に立つように育てられるかどうか。 
 立派に育て上げれば、この子は御台様にお許しいただけるのでしょうか…。 
 いや、なによりそれが上様のお望みであれば、上様の思いに応えてみせよう。それが私にできるただ一つのこと。 
 『しず』と自分の名を呼ぶ秀忠の微笑みが胸に浮かんだ。 

 静が、もぞもぞと動く幸松を見て、えくぼも深く優しく微笑んだ。 
「幸松さま…、よき名をいただきましたな。」 
 静が、利勝に顔を向ける。 
「大炊頭様、上様にお伝え願えますか? よき名をいただいたお礼と、『確かにうけたまわった』と。」 
「承った?」 
 まっすぐ自分を見つめる静に、利勝は怪訝な顔をした。
 大姥局と見性院も顔を見合わせている。
 しかし、静は動じることもなく、にっこりと笑い、 
「はい。そうお伝えくださいませ。」 
 と、念を押した。 
「ふむ。では伝えよう。」 
 腑に落ちない顔をしながらも、そういった利勝が、一息茶を飲んで、外へ出る。 

「松吉、そっちの瓦の歪んでるとこはねえか。」 
大丈夫でぇじょうぶだよ。」 
「ヒビが入ってんのがねぇか、もっぺん見ながら揃えとけ。」 
「あいよ。」 
 屋根の上から、息のあった声が聞こえていた。 
 南天が白い花を揺らしている。五月晴れの空を見上げ、老中はホッと息を吐いた。


 城に戻った利勝は、秀忠に静の言葉を伝えた。 
「そうか。」 
 利勝からの報告に、秀忠はただそう答えただけであった。 


[第二十七章 九星、光り輝く 了]
*****
【常磐色】松や杉の常緑樹の深緑色。静が仕立てた上様ご愛用「千歳緑の羽織」より、ほんのわずかに明るいがよく似た色。
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