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第五部(最終)

第二十六章 時代、胎動す 其の二

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「見届ける?何をでぃ。」 
 怪訝そうな籐五とうごに、静は柔らかな笑顔を返し、実の両親に向き直って手をついた。
「おとっつぁん、おっかさん。」 
 静の生真面目な顔に、賑やかだった部屋がシンと静まり返る。 
「私のお腹には、上様の赤子ややがおります。」 
 静が落ち着いた声で告げると、栄嘉と子供たち以外の一同の動きが止まった。 
 皆が一様に目を見開いている。 

「上様の…?」 
「やや……?」 
 ぼんやりした声の柾吉まさきちに続き、とみが声を出す。 
「ほんとけぇ?」 
 そう言った藤五の酔いは、一度に醒めていた。 

「はい。でも、もうお城には戻りません。」 
 静は、周りの驚きを見てないように淡々と続ける。 
「なんじゃと?」 
 その言葉には栄嘉さかよしも絶句した。
 子ができたのは知っていたが、城に戻らないというのは聞かされていなかったのである。 
「戻らない?」 
 呆然とした嘉衛門よしえもんの問いに、静はにっこりと頷いた。 
「はい。」 
「どうしてだい、追い出されちまったのか?」 
 心配そうに顔をしかめた藤五が皆を代表して問いかける。 
 静がゆっくりと首を振った。 

「いいえ。私が決めました。 上様は御台様とお子さまがたをとても大事にしておられます。私もこの子もかないませぬ。」 
 静は穏やかに柔らかに微笑んで、そう告げた。ほのかに寂しそうな影も感じられるが、充分に満ち足りた笑顔であった。 
「しかし……」 
 嘉衛門よしえもんの飲み込んだ言葉に、栄嘉さかよしも難しい顔をしている。柾吉も何やら考え込み、富も目を伏せていた。 

 静まり返った部屋の中に「まんまんまんま……」という糸の声が響く。 
 その声に、お腹の赤子がクルンと動いた。静は先程よりも柔らかにえくぼを浮かべる。 
「この子は、私の子。それでよいのです。おとっつぁん、おっかさん、お許しください。」 
 お腹をかばいながら、静は美しく礼をする。 
 柾吉が腕組みをして目をつぶった。 

 いつもと違う周りの様子に栄太郎がもぞもぞするのを、藤五がグッと目で押さえている。 
 富はハラハラするように、目を閉じて動かない夫の様子を見つめていた。 
 柾吉の目がゆっくりと開く。そして、いつもの柾吉とはうって変わって、ゆっくりと尋ねた。 
「静、おめぇは、それで幸せかい?」 
「はい。」 
 父の問いに、静は迷わずに頷き、今まで以上に美しく優しい笑みを返した。 
「なら、なんにも言うこたぁねぇ。」 
 太ももをパンと叩き、いつもの柾吉らしく早口でニカッと笑った。 
「おとっつぁん……」 
 静の目にじんわりと涙が浮かぶ。クニグニッとまたお腹の中が動いた。 
 静がそっとお腹に手を置く。 
「どうかしたかい?」 
「ううん。ややも喜んでます。」 
 心配そうに尋ねる富に、静が涙声で返した。静かだった部屋に、また微笑みが戻る。 

「しばらくは見性院様と大姥局おつぼね様がお世話くださるとのこと。そのあとじゃな。」 
 (お二方ともお年じゃ…)
 その心配が栄嘉さかよしにあった。だから、生んだ後は城に戻ると思っていた。 
 静も考えまいとはしていたが、(旦那様がいらっしゃらなくなったら…)の不安を抱えている。 
「そんときゃぁ帰ってくりゃぁいい。静の子なら、俺の孫だ。」 
「そうだね。」 
 柾吉がいとも簡単に言い、富も笑顔で相槌を打った。 
「ご迷惑をかけます。」 
 心強い両親の言葉に、静が頭を下げる。 
「なぁに、親ってのはな、子に迷惑かけられるために生きてんだよ。」 
「そうだよ。それが嬉しいんだよ。」 
 相変わらず、父と母の夫婦の息はぴったりあっていた。そこに美津が、口を曲げて割って入る。 
「え~、アタシは嬉しくない。」 
「お美津、そりゃぁおめぇが、まだ親としてひよっこだからよ。」 
 「へへん」とばかりに笑って、柾吉が美津に返した。 
「そうなのかな。お前様は?」 
 かわいい唇を尖らせた美津が、大きな目をぱちぱちさせて、夫へ尋ねる。 
「えっ、わ、私は……」 
 急に問いかけられた嘉衛門よしえもんが言葉を濁した。 
「もうっ、ずるいんだから。」 
 はっきりしない夫に頬を膨らませた美津に、大人たちの笑い声が響いた。 
 藤五が豪快に笑って、口を開く。 
「わははっ、今におめぇたちもわからぁな。なぁ」 
 藤五の言葉に柾吉も栄嘉も富も、笑いながら大きく頷いた。ケタケタと笑っていた柾吉が笑いを止め、娘を見る。 
「静、おてんと様が西から上ってもおとっつぁんとおっかさんはおめぇの味方だ。それだけは忘れんじゃねぇぞ。」 
 柾吉のきりっとした言葉に、富が大きく頷いた。 
「ありがとうございまする。おとっつぁん、おっかさん。」 
 静が両親に向かい、丁寧に礼をした。その美しい所作に、柾吉と富が顔を見合わせて照れるように笑った。 
「おまえさんもいいこと言うね。惚れ直しちゃったよ。」 
 富が照れ隠しに、場を少し茶化す。 
「てやんでい。俺はいつだって、いい男じゃねえか。」 
 富の言葉に、柾吉は手のひらで鼻を擦った。 
 皆がまた大笑いして、いつもの家族に戻る。 
 その中で栄嘉さかよしが、ふと、憂い顔を見せた。

「したが、上様の子と知れたら、色々と厄介事に巻き込まれるやも知れぬのぅ。」 
 栄嘉は髭を撫でながら、城につかえていた武士さむらいらしく、様々なことを危惧し始める。 
「はい。それもあって、大姥局だんな様が下がられるまで見性院さまのご料地へいくようにと。」 
 静も義父ちちを見つめ、見性院の指示を伝えた。 
「そうじゃな。人が多いと噂話も病も立ち広がりやすい。しばらくはそちらで過ごすがよかろう。」 
「はい。」 
 穏やかな栄嘉の語り口に、静も武家の娘らしくキリリと返事をした。 

「ご料地はどこなのですか。」 
 今まで黙って周りを見つめていた才兵衛さいべえが、父に訊く。 
大牧村おおまきむらであったの。」 
「はい。」 
 栄嘉が静に確認した。 
氷川ひかわ神社のところだね。」 
 赤い着物でよちよちと近づいてきた糸を抱きながら、富がいう。 
「お参りにいくか。富。」 
「そうだね。」 
 顔を見合わせ楽しそうに笑った柾吉と富の言葉は、(いつでも助けに行くぞ)と静に教えていた。 
 表向きは静は神尾の娘である。自分達のをわきまえながら、それでも変わらぬ愛情を注いでくれる父母に、静は胸が熱くなった。 
 (私はなんと幸福者しあわせものじゃ。) 
 静がにじんだ涙にそっと袖をやる。 
 赤子ややがポコンとお腹を蹴った。 

 姉の涙をぬぐう姿に、まだなにか案じていると思った松吉おとうとが声をあげる。 
「ねぇちゃん、いざとなったら、俺の子にすればいい。」 
「松吉。」 
 ニカッと父譲りの笑顔を見せた松吉に、静は目を見開いた。 
「いや、義姉上あねうえは神尾の者。私が嫁にもらって、父者ててじゃとなりましょう。」 
 すかさず才兵衛が、真顔で静へ二度目の求婚をする。 
「才兵衛どの。」 
 静は思わず袖で口を覆い、さらに目を見開いた。 
 柾吉も富も松吉もすっとんきょうな顔で目を見開く。 
「うっ、わはははっ。才兵衛、男気おとこぎあんじゃねぇか。」 
 藤五が、才兵衛や松吉の心意気に(やられた)というような笑い声をあげた。 
「静、心配しんぺぇすんな。誰の子であっても、静の子なら俺たちの組が守ってやっからよ。行き場所がなかったら、安心して戻ってこい。」 
「親方。」 
 ありがたさに、静は思わず頭を下げる。 
 (父親がおらずとも、十分育てていける。) 
 涙がにじんだ瞳を細め、静は袖を目に当てた。 

「いやぁ、目出てぇじゃねぇか。美津、酒だ。祝い酒だ。こいつぁあ春から縁起がいいぜ。」 
 パンと両手を合わせると、藤五が孫娘に酒宴を命じた。 
「はい。」 
 美津が嬉しそうにお勝手に立つ。 
「松吉、八重と槙坊も連れてこい。」 
「へい。」 
 藤五に言われ、松吉も嬉しそうに立ち上がった。 
 富が娘のそばに来て、お腹に手を当てる。 
「気を付けるんだよ。」 
「はい。おっかさん。」 
 神妙に返事をした静のお腹がグニュリと動いた。 
「あっ、ややも返事してるよ。賢い子だね。」 
 母娘ははこが、涙目で「ふふふ」と笑う。 
「おい、俺にも触らせろい。」 
「はいはい。」 
 柾吉が飛んできて、富をどかせた。 
 微笑みながら、涙を浮かべている娘に、柾吉が声をかける。 
「静、笑ってろい。女は愛嬌ぞ。」 
「はい。おとっつぁん。」 
 静がえくぼを深めてにっこりと笑った。 
 お腹が楽しそうにポコポコッと動く。 
「見ねぇ、ややも笑ってるおっかさんが好きって言ってらぁ。」 
「はい。」 
 静の新しい年は優しく始まった。 
 冬のキリリとした寒さを吹き飛ばすように、賑やかな笑い声が星空に響いていた。 


 松の内を穏やかに神尾で過ごした静は、そのまま見性院の知行地である大牧村へ向かった。 
「叔母上、また来てください。」 
 そっと抱きついてきた寂しそうな栄太郎と、思わず指切りをした。 
「栄太郎、叔母上の赤子ややが女の子なら、栄太郎のお嫁さんにしてもらおうね。」 
 美津が微笑むと、栄太郎はやっと笑って「はい!」と大きく返事をした。 
 静もつられて笑う。 
「お静ちゃん、大事にね。」 
「ありがとう。お美っちゃん。」 
 なにかあっても、帰ってこられる場所がある。静は安堵感に包まれて、駕籠に揺られていた。 

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