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第四部

第二十五章 楪、照り輝く 其の十一

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◆◇◆

 冬の夕焼けは静かに柔らかく、しゅの色を空ににじませている。 
 政務に励んでいる秀忠を満足そうに見ながら、大姥局が火鉢の火を整えた。 

「近頃、加減はいかがじゃ。」 
 秀忠が文机の前で伸びをした。 
「大事のうございまする。寒さはこたえまするが。」 
 優しい苦笑いを浮かべ、大姥局は茶を差し出す。 
 秀忠が火鉢の近くへ寄り、お茶を飲んで、ホッとひと息ついた。 

 大姥局がさりげなく口を開く。 
「静が宿下がりを申し出ましたので、下がらせました。」 
「用をするものは足りておるのか。」 
「はい。」 
「そうか。」 
 茶を飲みながら、秀忠はただ老いた乳母めのとを案じる。 
 顔色一つ変えず、静を案じる様子もない秀忠に、大姥局は静を哀れに申し訳なく思った。 
 秀忠のためにもう一杯、茶をいれる。 
 茶を差し出しながら、大姥局がさらりと言った。 
「腹に子がおりまする。」 
「なに?」 
 秀忠がクッと茶を慌てて飲み込み、咳き込んだ。 
はらんでおりまする。」 
 大姥局が挑むように、目をうろうろさせる秀忠に告げる。 
 (あの夜の…) 
 秀忠が静との逢瀬を思い出す。
「おぼえがございますな。」
「うむ。」
 素直に認めた将軍に乳母も頷いた。 
 (したが、そののちの宿直の時もずっと変わらなかったが……) 
 秀忠は静の様子を思いだし、どこかで信じられずにいる。 

 大姥局が姿勢をただし、秀忠に静かに語りかけた。 
「この子は私だけの子だと泣きました。母子ははこ二人で暮らさせてほしいと。」 
「……さようか。」 
 静かな乳母の言葉に、秀忠も神妙に返した。
 (やはり静は悟っていたか…。誰も江の代わりはできぬと…) 
 秀忠は、静が「手枕」の意味を読み取っていたと気づく。「夢だ」という謎かけを解いていたことに。 
 (…賢い女子おなごじゃ…) 

「しかし、上様のお子はお子。」 
 大姥局がひと息つき、じっと秀忠を見つめた。考え込むような秀忠の瞳に、大姥局はどこか安堵しながら、やはり静かに続けた。 
「野に置くとあやういこともありまする。 したが、側室おへやにはせぬのでございましょう?」 
 乳母が秀忠をチロリと見る。 頬に手を当てた秀忠は、目だけで頷いた。
「では、後は私にお任せ願えませんか。」 
 ゆっくりと静かに、しかし、はっきりと大姥局は将軍の瞳を見据える。 

 秀忠がパチパチとまばたきをし、湯飲みをとった。 
「わかった。私は一切関わらぬ。」 
 ちらりと乳母に目配せすると、将軍はゆったりと茶をすする。 
「ありがとうございまする。」 
 秀忠の一言に、大姥局は軽く頭を下げ、改めて将軍を見つめて微笑んだ。 
「では、下がることをお許しくださいませ。」 
「何故じゃ。」 
 秀忠が途端に不機嫌になる。 
「無論、静に、子を生ませるためにございます。」 
 何を言うのかといわんばかりに大仰に、大姥局らしくきっちりとものを言う。 
「そなたがおらずとも。」 
 秀忠が眉間に皺を寄せ、困ったように大姥局を引き留める。 
「上様のお子ですゆえ、せめて拝領屋敷で生ませてやりとうございます。」 
 老乳母も負けてはいない。言葉に詰まった秀忠に、大姥局が『よろしいですね』と念押しするように、にっこり微笑んだ。 
「ならぬと言うたら。」 
 秀忠が額に手をつき、溜め息をついて、乳母をそっと見上げる。 
 大姥局がふっと微笑んだ後、すました顔を作った。 
「大御所様にお願いするだけにございまする。なんなら」老女が満面の笑みを作る。「御台様にも。」 
 大姥局が最後に「うふふ」と笑った。 

 秀忠はカリカリと頭を掻き、うつ向いて大きな溜め息をつく。もう一度、溜め息をついて、上目使いに乳母を見た。 
「そなたは……ずるいのう……。どう言えば私が首を縦に振るかよう知っておる。」 
「ほほほほほ、生まれた時から見ておりますれば。」 
 拗ねるような養い子に、大姥局は軽やかに笑って見せた。 
「じゃから、傍におってほしいのじゃ。」 
 秀忠がまだ溜め息をつく。 
「もう御台様がおられましょう? 私がおらずとも大事のうございまする。」 
「江は江。そなたは、母上のようなものじゃ。」 
「もったいのうございます。」 
「じゃゆえ、下がるな。」 
 秀忠は拗ねるでもなく、真摯ににお願いをした。
 大姥局の心が揺れる。 
 しかし、乳母は秀忠を見つめ、また微笑んだ。 
「いえ、では、人質に取られたと思うてくださりませ。」 
「人質?」 
「はい。上様の、お子に。」 
 嬉しそうに「うふふ」と笑う大姥局に、秀忠は、また大きな溜め息をつく。
 
 このように笑顔で話を進めるときには、大姥は腹をくくっておるとき…。
 私の言い分を決して聞いてくれないとき……。 

 秀忠の肩が、溜め息と共に下がる。 
 ゴクリと唾を飲み込み、秀忠の喉仏がささやかに動いた。 
「…どう言うても駄目か…」 
「見性院さまと茶飲み話をする約束も果たしとうございますれば。」 
 膝をパチパチと叩く秀忠に、やはり大姥局はにっこりとした。 
「将軍の願いより、茶飲み話が大事か。」 
 無駄だと思いながらも、秀忠は権力をかさに着てみる。 
「はい。」 
 秀忠の想いはお見通しなのだろう。また「ほほほほほ」と乳母が笑った。 
 (…無理か…) 
 唇を引き締め、顔を歪めた秀忠は、大姥局の決心が固いと悟った。
 気を落ち着けるため、一度目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。 
 秀忠のりりしい目が開き、ぽそりと呟いた。 

「あと一年少しで米寿の祝いをしてやれると思うておったのに…」 
「もったいのうございます。」 
 慈しむような微笑みの大姥局が、ゆっくりと小さく首を降る。 
「一年足らぬが、年が明けに長寿の祝いをさせてくれ。それから下がってくれぬか。」 
 仕方がなさそうに、秀忠が最後の願いをする。 
「これはもったいないお言葉。ありがとうございまする。」 
 乳母がやっと生真面目な顔を作り、将軍に美しい礼をした。 
 どこかで区切りをつけたいという秀忠の想いが、大姥局には解った。それは大姥局も同じように思っていたからであった。 
 大姥局は秀忠の心遣いに、そっと目尻に手をやった。

「大姥。」 
 秀忠が静かに呼び掛ける。 
「はい。」 
「死んではならぬ。」 
 わずかに目を伏せ、養い子は無茶な注文をつける。 
「上様、人は死ぬるものにございます。」 
 穏やかな顔で、今度は乳母が静かに告げた。 
「死んではならぬ。」 
 しっかりと乳母の顔を見つめ、きつい声で秀忠が繰り返す。 
 大姥局ははは、すがるような目を受け止め、優しく微笑んだ。 
「わかりました。いつまでも上様を見守りましょうぞ。」 
「うむ。」 
 秀忠の顔に、ようやっと微笑みが戻った。 
 大姥局も頷いて微笑む。 

「上様、お茶は民部殿にしかと教えてござりまする。じきに御台様も美味しくいれられましょう。」 
「大姥。」 
 にっこりと皺を深めた乳母を、秀忠は(やられた)とばかりに優しく睨み付ける。 
 (茶のことを持ち出したときの策も打っておったか…やはり、かなわぬ…) 
 秀忠が微笑んで溜め息をついた。 
「ホッホホホホホ……」 
 笑い声をあげた大姥局は、やはり大姥局であった。 

◇◆

 その夜、秀忠は江に、大姥局が下がることと、年明けに長寿の祝いをすることを伝えた。 
 充分な祝いとなるよう差配を江に命じる。 
 江も寂しそうな顔で、「必ずよいうたげといたしまする」と秀忠に約束した。 

 そして翌朝、秀忠はいつものように政務の場へと向かった。 
 青空がひろがっているが、空気はピンと凍てついている。 
 部屋に入る前に空を眩しそうに見上げ、秀忠がぐっと伸びをした。 
 利勝がすでに来て、首をすくめながら書状を順に並べている。 
 秀忠は利勝にも、年明けに長寿の祝いをし、大姥局を下がらせると伝えた。 
「さようでございまするか。」 
 利勝は、とうとうその時が来たかと思った。 
「驚かぬのじゃな。」 
「お婆様もお年でございまするゆえ、いつかは…と思うおりました。」 
 大姥局に聞いていたなどは、おくびにも出さず、利勝がしみじみと語る。 
「さようか。」 
 将軍が文机の前に座ると、利勝が書状の束を持ってきた。 
「お目通しの分と、お返事が必要な分でござりまする。」 
「うむ。」 
 文机の上に積まれた書状に秀忠は目をやる。 
「秀頼殿からは。」 
「ありませぬ。」 
 そのように訊くのが日課のようになっていた。
 毎日の小さな儀式に答え、利勝が下がろうとする。 

「静が子を宿した。」 
 一つ目の書状を開きながら、秀忠が小さな声で報告した。 
「そのようでございまするな。」 
 利勝はさらりと流した。大姥局が下がるのを許されたならば、その話もしたはずである。 
「存じておったか。」 
「私を誰だとお思いですか。」 
 なんとなく打ち沈み、静かにいう将軍に、利勝はニンマリと自信満々に切り返した。 
「ふん。女子おなごであればよいな」 
 秀忠が、変わらぬ傅役もりやくにいつものようにフッと笑って反発した。 

 ピチッと火鉢の炭がはねる。 
 秀忠は部屋に入る前に見た風景を思い出していた。 
 冬の光を受けて、椿やゆずりはの葉が柔らかに照り輝いていた。 
 (秀頼殿…) 
 秀忠は婿を思った。 
 (私も直に会わねばならぬ。) 
 それが義父ちちである己の役割なのだと、秀忠は考えていた。 


[第二十五章 ゆずりは、照り輝く 了]
<第四部 終>
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