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第四部

第二十五章 楪、照り輝く 其の五

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◆◇◆

 仲秋の名月も過ぎると、めっきり涼しくなってきた。 
 あちらこちらを燃えるように彩っていた曼珠沙華まんじゅしゃげの花も、篝火かがりびが消えるように少しずつ色褪せ、しぼんでいる。 
 しかし、すっきりとした秋空はなく、今日も綿わたを薄く広げたように曇っていた。 

「静、朝餉あさげじゃぞ。」 
 ふきが布団の上から静を揺り起こした。 
「はっ? はい!」 
 ハッと目を開けた静が、ぼんやりした顔で飛び起きる。
 静の目が焦点の合わないまま、蕗の顔をとらえた。 
「ふふ、ひどい顔じゃな。先にゆっくり食べておるゆえ、支度をして来い。」 
「はい。」 
 微笑みながら優しく言う蕗に、静は自分が寝坊したとやっと分かった。 
 なんとなく重い体を動かすと、軽い吐き気が襲う。 
 それをクッとこらえ、慌てて身支度を整える。豊かな髪をすすっと櫛梳くしけずり、後ろでまとめると、静はホッと息を吐いた。 


「おはようござりまする。遅うなりました。」 
 静が身を縮めて、朝餉の席に加わる。 
「いかがした?昨日も上様は遅かったのか?」 
「いえ。夕べは早うお戻りになられました。」 
 心配した声で尋ねる藤に、静は茶碗にわずかなご飯をよそいながら答えた。 
「ほう、それでそなたが寝坊するとは珍しいの。」 
「申し訳ござりませぬ。」
 香の物に手を伸ばしながら愛しげに笑う浅茅に、静が恐縮して頭を下げる。 
「食べておらぬゆえ、疲れが出たのであろう。医師様も言うておったではないか。『食べて営気えいきを養え』と。 また、そのようにわずかばかりよそって。」 
 茶碗を覗き込んだ蕗が、静の身を案じてとがめる。 
「いただきましたら、おかわりをいたしまする。」 
 静が、また申し訳なさそうに小さく頭を下げた。 
「湯漬けでもよいから、食べよ。」 
 蕗はなにかと静の世話を焼く。周りの部屋子達も、蕗の言葉にうんうんと頷いた。 
「まぁ、こう鬱陶うっとうしい天気ばかりでは、なにやら気分もふさぎまするな。」 
 浅茅がゲンナリした顔を作り、茶碗にご飯をこんもりとよそう。 
「そう言うて、今日もしっかり盛っておるではないか? 浅茅。」 
「まだ、二杯目にございますれば。」 
 おかしそうに尋ねる蕗と、しれっとして答える浅茅のいつものやり取りに、女たちの笑いの花が咲いた。 


 近づく寒さに向かって、針仕事に精を出さねばならない静であったが、眠気に襲われて針目が乱れ、いつものように進められなかった。 
「静、旦那様がおよびじゃ。」 
 針を持ったまま溜め息をついていた静に、藤の声がかかる。 
「はい。」 
 針山に針を刺した静が、縫い物をたたむ。 
「寝過ごしたことはお知らせしておらぬゆえ。」 
 静の傍にまで来た藤が、小さな声でそっと伝えた。 
「は…はい。」 
 静は縫い物を畳み終えると、ドキドキしながら大姥局の前に進んだ。 

「なにかご用でございましょうか?」 
 主人の前に座し、手をついてにっこりと微笑む。 
 大姥局は皺を深め、何やら恐い顔をしていた。 
「静、そなた、どこぞ悪いのではないか?」 
「いえ。」 
 真顔になった静が、短く答える。 
「今朝は起きられなかったのではないのか? 蕗の声が聞こえたぞ。」 
「あ…は、はい。申し訳ございませぬ。」 
 主人の言葉に、静が身を小さくして頭を下げた。 
「いや、咎めておるわけではないのじゃ。そなたは宿直とのいゆえ、皆よりゆっくり寝ておってよいと言うのに、変わらず起きるゆえ、前々から案じておった。」 
「申し訳ありませぬ。皆様と朝餉をご一緒しとうござりますれば。大事のうございます。」 
 大姥局しゅじんの優しい言葉に、静は微笑んで返した。 
「そうか?それならばよいが…」 
 大姥局は、針を動かしながら、近頃、眠そうにあくびを噛み殺す静も気になっていた。 

 静は気分が悪いのを悟られまいと、少しうつむき加減にいる。 
 静の首が、ゴクリと唾を飲み、なにかをこらえた。 
「静…」 
「はい。」 
 優しく名を呼ばれた静は、微笑みを作り、返事をする。ジッと自分を見ている主人の目と自分の目があった。
「そなた、はらんでおるのではないか?」 
「あっ…」 
 声を低めた大姥局に、静はうろたえる。 
「正直に言うてくれぬか。」 
 身を乗りだし、ジッと自分を見る主人に、静は白状する術しか知らなかった。 
「はい。そうかと存じまする。」 
「そうか。」 
 大姥局が体を起こし、「ふーーっ」と長い溜め息をついた。控える由良に目をやる。 
 顔をうつむけていた静が、きりっと唇を噛み、まっすぐに主人を見つめた。

「旦那様。」 
「なんじゃ。」 
「どうぞ、おいとまをくださいませ。この子と生きていきとうござりまする。」 
 静は心からの願いを口にすると、低く頭を下げた。 
 大姥局の皺が深まる。 
「城から出ると申すか。」 
「はい。」 
 顔を上げ、しっかりと静は主人を見つめた。決心を崩さない強い意思がその顔に満ちている。 
 大姥局が目を閉じ、「ふ~む」とうなった。 
 考え込む主人に、静は手をついて乞い願う。 

「この子は私の子にございます。他にはなにもりませぬ。お側にはべりとうもございませぬ。この子だけが欲しいのです。……お願いでございまするっ。 私だけの子として育てさせてくださいませっ。」 
 咳き込むような早さ、震える声、いつものおっとりとした静と正反対の様子が、気持ちのたかぶりを伝える。 
「静、落ち着け。赤子ややが驚くぞ。」 
 由良が静の背を撫でた。 
「この子と、ただ二人で生きていきとうござりまする。」 
 お腹に手を当てた静の細い目から、はらはらと涙が落ちる。 
「お願いにございまする。旦那様っ。」 
 静はまた、深く頭を下げた。 

「静。」 
 ゆったりと優しく大姥局が声をかける。 
「そなたの気持ちはようわかった。確かに城の中では生めぬ。お側には侍れぬと言うたは私じゃ。」 
 静かに大姥局は話し、一息ついた。静の顔が希望に少し明るくなっている。 
「したがのう、静。」老乳母が侍女にピタと視線を止める。「上様のお子はお子じゃ。」 
 小さいが威厳のある声に、静は何度も首を振った。 
「上様のお子ではございませぬ。私の子にございます。」 
 こぼれ落ちる涙をぬぐおうともせず、静は首を振り、はじめて主人の言葉に逆らった。 
「静。」 
 大姥局がきりっと声をかける。 
「上様のおたねであろう?」 
 静の首の振りが止まった。 
「ならば、そなたの勝手にはできぬ。」 
 大姥局はやはり威厳ある声で諭した。 
「旦那様!」 
 静が涙で潤んだすがるような目を、大姥局へと向ける。 
 悲しみに満ちたその目が、大姥局の心に突き刺さった。 
 ホゥと小さな溜め息が大姥局の口から出る。 
「しばし考えさせてくれ。そなたに悪いようにはせぬゆえ案ずるな。赤子ややに障るぞ。」 
 静をしばらく見つめていた大姥局が、部屋子を安心させるように微笑んだ。 
「旦那さま…」 
 静はまだ涙を流している。 
「静、案ずるな。きっと旦那さまがよいようにしてくださる。」 
 背中をさすりながら、由良が静に言い聞かせた。 
「はい。」 
 手巾しゅきんで涙を吹き、静は大姥局に頭を下げた。 


 静が下がったあと、大姥局は額に手を当て考え込んでいた。皺だった右手に持った扇子が、パチン、パチンと音ををたてている。 
「そろそろ火鉢が恋しいの。」 
 大姥局がポツリと呟く。 
「さようでござりまするね。」 
 由良が静かに同意した。 
「いかがいたそうかの。」 
 独りちた主人の言葉が、火鉢ではなく、静を指しているのを由良は察する。 
「もうお心は定められておるのでございましょう?」 
 由良が優しげに微笑む。 
「ふふ、まぁ、の。」 
 大姥局も口許を緩めた。 
「御懸念は上様でございまするか?」 
「そうじゃ。」 
 由良の言葉に、大姥局の眉に再び皺が寄る。口をきゅっと引き締めると、老乳母はホゥとまた溜め息をついた。 


******* 
【仲秋の名月】 
8月15日。太陽暦では10月1日 
【曼珠沙華】彼岸花 
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