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第四部

第二十五章 楪、照り輝く 其の四

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「知らぬか。『二つ文字 牛のつの文字 ぐな文字 ゆがみ文字とぞ 君はおぼゆる』じゃ。」 
 秀忠がさらりと和歌うたを口ずさむ。 
「謎解きでございまするか?」 
「難しゅうはない。二の字を書いてみよ。」 
 夫の言葉に、怪訝けげんな顔の江は、宙に「二」と指で文字を書く。 
「牛の角は?」 
 少し考えた江が、宙に〈 〉と書いた。秀忠がフッと微笑む。 
「そなたはよう見ておるの。まぁ、よい。そして、真っ直ぐ。」 
 江が宙に置いた指を、すっと下げた。 
「そうじゃ。で、それをすこうし、歪めてみよ。」 
 江の手が宙で止まったまま思案する。 
 妻の華奢な手に、夫は自分の端整な手を添えた。 
「こうじゃ。」 
 秀忠にいざなわれ、江の手が宙に「く」を書く。 
「そうじゃ。続けて書いてみよ。」 
「二の字、牛の角、直ぐ、歪み…」 
 江が呟きながら、空中に『二〈 〉|く』と書いた。何度も書き、書いては首をひねる。江の艶やかな髪が、ゆらゆらと揺れた。 
 秀忠はおかしそうに笑いをこらえて、それを見ている。 
「そなたは……」 
 何度目かにたまらず「クククッ」と秀忠が笑い、秀忠が後ろから妻を柔らかに包むと、再び江の手をとった。 
 唇を尖らせた江の手を宙に伸ばす。 

「書いてみよ。」 
 怒ったように「二」を書こうとする江の手を、秀忠はそっと少し動かす。
 二人の手が、宙に「こ」と書いた。 
 続いて「い」、そして、伸びやかな「し」。 
 最後の文字は、江もためらわなかった。 
 二人の手が「く」を描く。 
 秀忠が、ゆっくりと和歌をみながら、もう一度重ねた手を動かし、江もたどたどしく唱和した。

「「二つ文字 牛の角文字 直ぐな文字 ゆがみ文字とぞ 君はおぼゆる。」 」
 二人の重なった手が、空中に「こいしく」と描く。 

「あなたさま……」 
 江が呟いた。 
「江…」 
 秀忠が大きな手で江を後ろから抱き締めた。 
「そなたが恋しい。」 
「あなたさま…」 
 自分を抱き締める手に、今度は江が手を重ねた。 
「傍にいてくれ。」 
 こらえるような短い言葉は、秀忠の魂の叫びであった。 
「はい。」 
 江が柔らかに微笑む。 
「竹千代もそなたが恋しいのじゃ。」 
「そうでございましょうか」 
 不思議そうな声で江が訊く。 
「そうじゃ。男子おのこは母が恋しい。」 
「あなたさまもでございますか?」 
「ああ。母上が恋しい。」 
「まぁ。ヌケヌケと。」 
 秀忠の温かさを感じながら、江が「ふふ」と柔らかに笑う。 
「じゃが一番恋しいのはそなたじゃ。」 
 頬を擦り寄せ、そう口にしたとき、秀忠は父の言葉を思い出した。 
 『淀の方様にとって、殿下が一番じゃ。』 
 (淀の方様に私の思いは届かぬのか……。江の思いは……) 
 秀忠は江の体を横抱きにし、そっと口づけた。 
「あなたさま…」 
 江の瞳が、喜びと不安にゆらゆらと動く。 
「案ずるな。これ以上は触れぬ。そなたを失いとうはない。」 
 秀忠はほのかに微笑んで宣言し、妻を安心させた。 
 (そうじゃ。これ以上は触れぬ。そのようにしておれば、静を悲しませることはなかった。) 
 皮肉なもので、静を傷つけた自覚が、秀忠の中で江への溢れる思いへの防波堤を作り上げている。 
 秀忠は再び優しく口づけを落とし、江も秀忠に想いを返した。 

 (そなたを感じたい。誰よりも…。ただ感じていたい。) 
 (私も…あなた様…) 

 木菟みみずくの声が夜の静寂しじまに響いた。 
 柔らかに触れ合った唇を名残惜しそうに離し、秀忠は呟く。 
「そなたが居てくれればよいのじゃ。」 
「私も…あなたさまが居てくだされば……」 
 愛しい夫の頬に手をやり、そっと撫でる。 
「戦などしとうはない。」 
「はい。千も幸せになってほしゅうございます。秀頼殿と。」 
「そうじゃな。」 
 将軍の苦しみに思いを至らせながら、江は、母として娘を案じる。自分が得ている幸せを娘も味わって欲しいと。 
「優しゅうしてもろうておるでしょうか、秀頼さまに。姉上が国松殿ばかり可愛がると寂しそうに文に書いてきておりましたが……」 
「そうか……淀の方様が……」 
 秀忠は、その淀の方の思いやりに、どこかやりきれない思いを抱く。 
 (戦を見据えておられるのか…) 
 黙っている夫は千姫を案じているのだと、江が言葉を継いだ。 
「……まだ夫婦めおとになれておらぬと…」 
 うつ向いて、心配そうに、恥ずかしそうに呟く。 
 まつりごとの道具にされるのが嫌とはいえ、縁を結ぶために嫁がせた娘の役割を江もよくわかっている。
 そして、何よりも名ばかりの夫婦としての居心地の悪さは、小さな頃に体験した自分が一番よくわかっていた。 
「千は私たちの子じゃ。そなたの子じゃ。大事ない。案ずるな。」 
 泣き出しそうに不安げな顔をする江を秀忠は抱き締める。 
「あなたさまを信じておりまする。」 
 江の言葉に、秀忠の腕の力が強まった。 
 江はその力に、なぜか秀忠の不安を感じる。 
「おやすみなされませ、あなたさま。私が傍におりますゆえ。」 
 秀忠を抱き締め、優しく穏やかに江が言う。 
 同じしとねに二人は身を横たえる。秀忠も江も互いがそこにいるのを確かめるように、ときどき頬を擦り寄せ、眠りへとついた。 

◆◇◆

 翌日はまたシトシトと雨が落ちていた。 
 秀忠は自室で難しい顔をしながら、書状を眺めている。 
「上様、一息おつきなされませ。」 
 大姥局が一声かけ、浅茅あさじがわらび餅と冷たい甘酒を差し出した。 
「あとは、私がお茶を入れる。」 
 大姥局の言葉に、小さな火鉢を整えた浅茅が一礼して下がる。 
 ぐーっと伸びをした将軍が文机から離れ、乳母めのとの近くに寄った。 
 湯が湧くのを待ちながら、大姥局はゆっくりと茶の用意をする。
 
「竹千代さまは、上様によう似ておられまするな。」 
「さようか?」 
 わらび餅を飲み込んだ秀忠が、短い言葉を発し、またわらび餅を頬張る。甘く柔らかな菓子に、秀忠の眉間の皺が消えていた。 
「ふふふ、お小さい頃、甚三郎じんざぶろうに打たれたと言って泣き、手加減されたといっては泣いておられたは、どなたでござりましょう。竹千代さまの方が泣かぬだけお強うござりまするな。」 
 わらび餅を頬張りすぎ、口がきけない秀忠に、大姥局はニンマリと笑う。 
 秀忠がゴクリと喉を動かし、ほぅと息をした。 
「見ておったのか。私の時は、そなたが利勝を叱ったのであったな。『手加減をするな』と。」 
「はて? さようでございましたか?」 
 老乳母は、可愛らしく首をかしげる。 
「お陰で今でも手加減してこぬわ。」 
 乳母の様子に秀忠もフフフと笑い、明るく愚痴をこぼした。 
「ほほ。利勝殿にしては、私の言うことを素直に聞いておりまするな。」 
 先程からの大姥局らしい応答に、秀忠は安堵して心から微笑む。 
「泣き虫だった幼子おさなごが将軍様。時の経つのは早うござりまする。」 
 安心したように甘酒を飲んでいる将軍に、乳母はしみじみと言った。 
 急須に湯をし、大姥局は庭を見つめた。 

「雨が、…止みませぬな。」 
「そうじゃな。」 
 湯飲みにゆっくりとお茶が注がれる。お茶の香りがふわりと立ち上がった。 
 お茶を差し出された秀忠が、口に含み、なんとも幸せな笑顔を見せる。 
 大姥局が少し目を伏せて、口を開いた。 

「上様、仕えているものもそれなりの年になりましたゆえ、のんびり暮らさせてやりとうございまする。」 
 秀忠は、乳母が「下がらせてくれ」と言っているとすぐ気づいた。しかし、気づかなかったふりをしてシレッと答える。 
「新しい侍女をつければよい。」 
「もうしつけをする力もございませぬ。」 
「由良に任せればよい。」 
「由良は足が悪うござりまする。」 
 大姥局も引き下がらない。 
「ではそなただけ居てくれ。そなただけ居てくれればよいのじゃ。うまい茶が飲めぬゆえな。」 
 秀忠は微笑んで開き直った。 
「上様。」 
 さすがの大姥局も弱った顔をする。 
「江と福の間もまだ今一つしっくりいかぬ。そなたが必要じゃ。わかったな。」 
 将軍はお茶を飲み干し、また文机へと戻っていった。 


*****
【二つ文字牛の角文字直ぐな文字ゆがみ文字とぞ君はおぼゆる】 『徒然草』(六二段)にある謎かけ歌。 
 後嵯峨天皇の皇女が、幼いときに御所に参る人に言伝てして、父に奉ったもの。 
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