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第四部
第二十五章 楪、照り輝く 其の二
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「竹千代、最後はよい気合いであった。やればできるのじゃ。精進せよ。」
拾いあげた木刀を息子の前に差し出し、低く穏やかに秀忠は声をかけた。
「…は…は、はい。」
竹千代が両手で剣を取りながら、威厳ある父を見上げてやっと返事をした。
福が竹千代の土ぼこりを払いながら、怪我がないかあちこち確かめている。
「福。」
「はい。」
福が手を止め、将軍の前に頭を下げた。
「竹千代は将軍の子である前に武家の嫡男じゃ。しかと鍛練させよっ! よいなっ!」
「はっ、はい。」
穏やかな将軍だと思い込んでいた福は、秀忠のキッとした叱りに身を小さくする。
「三十郎。」
「はっ。」
「そなたもじゃ。竹千代に手加減などせず、相手せよ。」
「ははっ。」
低い声で、秀忠は大人びてきた小姓に声をかけた。
「この程度で息が上がっておるとは、普段十二分に鍛練しておらぬ証じゃ。甘やかしてはならぬっ。」
「わっ、私が…なっ怠けておったのです。」
竹千代が福の前に立ち、秀忠をまっすぐ見た。
険しかった秀忠の顔が、ふっと緩む。
秀忠は屈んで竹千代に話しかけた。
「そうじゃ、竹千代。そなたが怠けたゆえ、福や三十郎が叱られるのじゃ。分かっておればよい。」
秀忠はわずかに微笑んで、息子の頭をポンポンと撫でた。
(父上は、誉めてくれておるのか…? 『怠けていた』と言うたのに?)
何故、父が誉めてくれるのか、竹千代にはわからなかった。
(父上?)
竹千代は秀忠を見た。しかし、すでに父の目は自分を向いていない。自分の後ろにいる三十郎に向いている。
竹千代の顔が静かにうつ向いた。
「三十郎、木刀を持ってきておるな。稽古をつけてやろう。」
「はっ。ありがたき幸せ。」
変声期を迎えた三十郎がかすれ声で礼をする。
「竹千代、いかに手加減されてきたか、しかと見ておくがよい。」
自分に聞こえるだけの小さく厳かな父の声に竹千代は顔をあげた。福が竹千代を守るように、少し後ろに下がらせる。
先程、竹千代が立っていたところに、三十郎が立ち、素早くたすきをかけた。
秀忠が片腕で木刀をピタリと構えると、三十郎も深々と礼をし、己の体の前でピタッと木刀を構えた。
「いざ。」
深く静かに秀忠が声をかける。
「いざっ!」
一声、空気を震わせて声をあげると、ジリッと三十郎が間合いを詰める。
「いやぁぁぁー!」
気合いのこもった三十郎の掛け声とともに、カンカンという緊迫した音が続く。
片腕の秀忠が、やや押されながらもなんとか三十郎の太刀筋に合わせる。
どちらも譲らぬ鋭いカンカンという音だけが辺りに響いていた。
カゥン。
上から振り下ろされる三十郎の太刀を、秀忠が払い、二人が大きく離れた。
秀忠がニヤリと笑う。
「強うなったな、三十郎。」
秀忠が、ふぅと一息つき、両手で剣を構えた。
「遠慮のうかかってくるがよい。」
三十郎が将軍を見据え、ゆっくりと構え直す。再び将軍が掛け声をかけた。
「いざ。」
「いざっ。ぃやぁぁーっ!」
一声あげると間断なく掛け声をあげ、大上段に振りかぶった三十郎が、秀忠に素早く突進する。
秀忠はその太刀を楽しむように、最小限に体を動かして、三十郎の太刀筋に合わせていった。
秀忠の脱いだ片袖が風をはらんで動く。
刀の触れあうカンカンという音の中、竹千代には父の力強い躯が、優雅な舞を舞っているように見えた。
(三十郎はこんなに強かったのか……)
竹千代は、歯を食い縛りながらも、父に臆せず何度も向かっていく三十郎を見、己を情けなく思った。
見物人が息を飲む中、木刀の音と三十郎の掛け声が響く。
カン、パシン
勢いよい秀忠の切っ先が三十郎の肩の上、首元でピタリと止まった。
「まいりました。」
三十郎が、秀忠の前に膝まづく。
「うむ。よい腕じゃ。三十郎、手加減せず、竹千代をしっかり鍛練してやってくれ。」
「はっ。」
「多少の怪我をさせてもよいからの。」
福が『とんでもない』というように目を丸くして、体をそわそわうろうろとさせている。
秀忠がひとつ溜め息をついた。
「怪我をせずに武術は修められぬ。戦場では、いかな傷を負うかもわからぬ。痛みを覚え、こらえるのも鍛練じゃ。わかったな、竹千代。」
「は…はい。」
「三十郎がいかに手加減をしてきたか、よう解ったであろう?」
静かな父の声に、竹千代が赤い顔をして黙りこむ。
「そなたが怪我をしないようにしてきたのじゃ。三十郎にそう言い含めたのであろう? 福。」
「はっはい。」
竹千代の後ろで福が身を小さくした。
「敵は手加減などしてくれぬぞ。いや、手加減されるは、恥じゃ。」
父に言われずとも、手加減されているのが母に知られたのが恥ずかしかった。
赤い顔で黙りこんでいる息子を見て、秀忠はフッと口許を緩める。
「わかっておるようじゃがな。」
竹千代は赤い顔でうつむき、黙りこんだままである。
「竹千代、いかな世になろうとも、女子一人守れないようでは男ではないぞ。」
秀忠は自嘲するように、「ふふふ」と笑った。
先程のピリピリとした空気もなく、庭は美しい夕焼けの赤い光に染められている。
秋津がツイツイと飛び交い、競うように庭のあちらこちらで虫の音の合奏が始まった。
竹千代は回廊にたたずみ、ぼんやりと庭を見ている。
(母上のお着物のようじゃ。)
目に入る夕焼けの美しさに竹千代は江を思う。
しかし、その母の前で、なんと無様な姿をさらしたか……。
竹千代はうつ向いて、きりっと唇を噛み締めた。
土ぼこりを福に払われ、回廊に上がったとき、国松を連れた母上は悲しそうな顔をしておいでだった。きっと、私のことを弱い男子だと思われたのに違いない。
竹千代の目に、涙が滲んだ。
そのときの江は、実は竹千代が心配でたまらなかった。
心配で「大事ないか?」と声をかけてやりたかったのに、自分にしがみつく国松と、竹千代をせかす福に、「竹千代…」と声をかけるのが精一杯であった。
眉間に皺を寄せ、小さな声で自分を呼んだ母に、竹千代は返事をしなかった。恥ずかしすぎて返事ができなかった。福に呼ばれるまま、ふいとその場を立ち去ったのである。
『いかに手加減されていたか、しかと見るがよい。』
父の声が響く。奥歯をきりっと噛み締めた竹千代の瞳から、涙がポロリと落ちた。
一人佇む竹千代の姿を見つけ、しばらくそのまま見ていた大姥局が、そっと近寄る。
「若さま。」
竹千代はギクリとして、慌てて袖でゴシゴシと涙を拭いた。
「上様…父上様とて最初からお強かったわけではありませぬぞ。婆はよう存じておりまする。」
優しく柔らかい大姥局の声であった。
それでも竹千代は、婆様にも見られていたと思うと恥ずかしかった。
竹千代はくるりと振り向き、微笑む大姥局の顔を一度見あげると、逃げるように去っていった。
夕焼けは少しずつ宵の藍色に溶け込んでいく。
一番星が西の空に輝いていた。
******
【秋津】とんぼ
拾いあげた木刀を息子の前に差し出し、低く穏やかに秀忠は声をかけた。
「…は…は、はい。」
竹千代が両手で剣を取りながら、威厳ある父を見上げてやっと返事をした。
福が竹千代の土ぼこりを払いながら、怪我がないかあちこち確かめている。
「福。」
「はい。」
福が手を止め、将軍の前に頭を下げた。
「竹千代は将軍の子である前に武家の嫡男じゃ。しかと鍛練させよっ! よいなっ!」
「はっ、はい。」
穏やかな将軍だと思い込んでいた福は、秀忠のキッとした叱りに身を小さくする。
「三十郎。」
「はっ。」
「そなたもじゃ。竹千代に手加減などせず、相手せよ。」
「ははっ。」
低い声で、秀忠は大人びてきた小姓に声をかけた。
「この程度で息が上がっておるとは、普段十二分に鍛練しておらぬ証じゃ。甘やかしてはならぬっ。」
「わっ、私が…なっ怠けておったのです。」
竹千代が福の前に立ち、秀忠をまっすぐ見た。
険しかった秀忠の顔が、ふっと緩む。
秀忠は屈んで竹千代に話しかけた。
「そうじゃ、竹千代。そなたが怠けたゆえ、福や三十郎が叱られるのじゃ。分かっておればよい。」
秀忠はわずかに微笑んで、息子の頭をポンポンと撫でた。
(父上は、誉めてくれておるのか…? 『怠けていた』と言うたのに?)
何故、父が誉めてくれるのか、竹千代にはわからなかった。
(父上?)
竹千代は秀忠を見た。しかし、すでに父の目は自分を向いていない。自分の後ろにいる三十郎に向いている。
竹千代の顔が静かにうつ向いた。
「三十郎、木刀を持ってきておるな。稽古をつけてやろう。」
「はっ。ありがたき幸せ。」
変声期を迎えた三十郎がかすれ声で礼をする。
「竹千代、いかに手加減されてきたか、しかと見ておくがよい。」
自分に聞こえるだけの小さく厳かな父の声に竹千代は顔をあげた。福が竹千代を守るように、少し後ろに下がらせる。
先程、竹千代が立っていたところに、三十郎が立ち、素早くたすきをかけた。
秀忠が片腕で木刀をピタリと構えると、三十郎も深々と礼をし、己の体の前でピタッと木刀を構えた。
「いざ。」
深く静かに秀忠が声をかける。
「いざっ!」
一声、空気を震わせて声をあげると、ジリッと三十郎が間合いを詰める。
「いやぁぁぁー!」
気合いのこもった三十郎の掛け声とともに、カンカンという緊迫した音が続く。
片腕の秀忠が、やや押されながらもなんとか三十郎の太刀筋に合わせる。
どちらも譲らぬ鋭いカンカンという音だけが辺りに響いていた。
カゥン。
上から振り下ろされる三十郎の太刀を、秀忠が払い、二人が大きく離れた。
秀忠がニヤリと笑う。
「強うなったな、三十郎。」
秀忠が、ふぅと一息つき、両手で剣を構えた。
「遠慮のうかかってくるがよい。」
三十郎が将軍を見据え、ゆっくりと構え直す。再び将軍が掛け声をかけた。
「いざ。」
「いざっ。ぃやぁぁーっ!」
一声あげると間断なく掛け声をあげ、大上段に振りかぶった三十郎が、秀忠に素早く突進する。
秀忠はその太刀を楽しむように、最小限に体を動かして、三十郎の太刀筋に合わせていった。
秀忠の脱いだ片袖が風をはらんで動く。
刀の触れあうカンカンという音の中、竹千代には父の力強い躯が、優雅な舞を舞っているように見えた。
(三十郎はこんなに強かったのか……)
竹千代は、歯を食い縛りながらも、父に臆せず何度も向かっていく三十郎を見、己を情けなく思った。
見物人が息を飲む中、木刀の音と三十郎の掛け声が響く。
カン、パシン
勢いよい秀忠の切っ先が三十郎の肩の上、首元でピタリと止まった。
「まいりました。」
三十郎が、秀忠の前に膝まづく。
「うむ。よい腕じゃ。三十郎、手加減せず、竹千代をしっかり鍛練してやってくれ。」
「はっ。」
「多少の怪我をさせてもよいからの。」
福が『とんでもない』というように目を丸くして、体をそわそわうろうろとさせている。
秀忠がひとつ溜め息をついた。
「怪我をせずに武術は修められぬ。戦場では、いかな傷を負うかもわからぬ。痛みを覚え、こらえるのも鍛練じゃ。わかったな、竹千代。」
「は…はい。」
「三十郎がいかに手加減をしてきたか、よう解ったであろう?」
静かな父の声に、竹千代が赤い顔をして黙りこむ。
「そなたが怪我をしないようにしてきたのじゃ。三十郎にそう言い含めたのであろう? 福。」
「はっはい。」
竹千代の後ろで福が身を小さくした。
「敵は手加減などしてくれぬぞ。いや、手加減されるは、恥じゃ。」
父に言われずとも、手加減されているのが母に知られたのが恥ずかしかった。
赤い顔で黙りこんでいる息子を見て、秀忠はフッと口許を緩める。
「わかっておるようじゃがな。」
竹千代は赤い顔でうつむき、黙りこんだままである。
「竹千代、いかな世になろうとも、女子一人守れないようでは男ではないぞ。」
秀忠は自嘲するように、「ふふふ」と笑った。
先程のピリピリとした空気もなく、庭は美しい夕焼けの赤い光に染められている。
秋津がツイツイと飛び交い、競うように庭のあちらこちらで虫の音の合奏が始まった。
竹千代は回廊にたたずみ、ぼんやりと庭を見ている。
(母上のお着物のようじゃ。)
目に入る夕焼けの美しさに竹千代は江を思う。
しかし、その母の前で、なんと無様な姿をさらしたか……。
竹千代はうつ向いて、きりっと唇を噛み締めた。
土ぼこりを福に払われ、回廊に上がったとき、国松を連れた母上は悲しそうな顔をしておいでだった。きっと、私のことを弱い男子だと思われたのに違いない。
竹千代の目に、涙が滲んだ。
そのときの江は、実は竹千代が心配でたまらなかった。
心配で「大事ないか?」と声をかけてやりたかったのに、自分にしがみつく国松と、竹千代をせかす福に、「竹千代…」と声をかけるのが精一杯であった。
眉間に皺を寄せ、小さな声で自分を呼んだ母に、竹千代は返事をしなかった。恥ずかしすぎて返事ができなかった。福に呼ばれるまま、ふいとその場を立ち去ったのである。
『いかに手加減されていたか、しかと見るがよい。』
父の声が響く。奥歯をきりっと噛み締めた竹千代の瞳から、涙がポロリと落ちた。
一人佇む竹千代の姿を見つけ、しばらくそのまま見ていた大姥局が、そっと近寄る。
「若さま。」
竹千代はギクリとして、慌てて袖でゴシゴシと涙を拭いた。
「上様…父上様とて最初からお強かったわけではありませぬぞ。婆はよう存じておりまする。」
優しく柔らかい大姥局の声であった。
それでも竹千代は、婆様にも見られていたと思うと恥ずかしかった。
竹千代はくるりと振り向き、微笑む大姥局の顔を一度見あげると、逃げるように去っていった。
夕焼けは少しずつ宵の藍色に溶け込んでいく。
一番星が西の空に輝いていた。
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