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第四部

第二十四章 雫、大流となる 其の四

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◆◇◆

 水無月も半ばにかかろうというのに、痢病は収まる気配もなかった。ただ唯一の救いは、城下である江戸より外へ出ていないことである。 
 蒸し蒸しした空気の中、将軍の眉間の皺は深まり、溜め息が多くなっていた。己の無力にさいなまされながら、また一日が終わろうとしている。 

「お揉みいたしましょう。」 
 斜めに座った江の声に秀忠はグッと伸びをし、横になろうと手を着く。 
「いや、今日はよい。」 
 沈んだ声で手を戻し、将軍はまた溜め息をついた。 
 疲れた様子の夫を案じながら、扇子で風を送り、江は明るく語りかける。 
「あなたさま、勝が千や珠に文を書いておるので、国松も千から順に文を書くのじゃと、今日も手習いに励んでおりました。」
 少し誇らしそうに微笑み、可愛らしい文字が書かれた紙を江は秀忠に見せた。 
「ふふ、『二つ文字』じゃな。」 
 秀忠が、たどたどしい文字を長い指でなぞりながら、柔らかく笑った。 
「『二つ文字』?」 
「いかがした?」 
 江が夫の言葉の意味がわからず聞き返したが、秀忠は、扇子で頬を隠そうとする江を逆に不審そうに見る。 
「松も横で筆で遊んで……」 
 江は、恥ずかしそうに頬についた筆の跡を見せる。江の白い頬に、墨色のノの字が薄く残っていた。 
「ふふ、羽子板のあとのようじゃの。」 
 微笑んだ秀忠と江の脳裏に、姫達と遊んだ幸せな時間が思い出される。 
「して、竹千代は?」 
 まだ出てこない息子の名を秀忠は尋ねた。 
「は?」  
「竹千代は文は書かぬのか? 千に。」 
「福が書かせるとお思いですか?豊臣への文を。」 
 夫の繰り返しての問いに江は冷たく答える。そこには(看病にいけなかった)という後ろめたさが残っていた。 
「そうか。」 
 秀忠もそれ以上は言わなかった。苦い顔をした秀忠に江は慌てて報告する。 
「竹千代は学問に励んでいたと。」 
「うむ。」 
 秀忠がほんのり微笑む。 
 雨の多いこの夏は、夜にたまらぬ暑さがない。ただ、むしっとした空気を払うように、江は夫に向かって扇子を動かした。 

「…国松は優しき子です。人の上に立つにはあの優しさがないと……」 
 江が目を伏せ、独り言のように呟いた。 
「江!」 
 妻をたしなめるように、秀忠が大きな声を出した。しかし、江はひるまず先を続ける。 
「国松と奈阿なあ姫が結ばれるのなら、その方がよいではありませぬか。」 
 江は淡々と語った。姉を、茶々を納得させるには、それしか方法がないのではないかと思う。 
「竹千代はいかがいたす。そなたは竹千代に恨みの目をさせたいのか?」 
 秀忠も将軍らしく、重々しく江に尋ねる。江の想いが解りながら、ここは引き下がれなかった。 
「しかし、体の弱い竹千代には、将軍は重荷でございましょう。かわいそうでありまする。」 
 母親の本音である。夫の激務を目の当たりにし、繰り返して病にかかる子を考えると、その行く末が心配であった。 
 秀忠が江を強い目で見据えた。 
「竹千代は男子おのこぞ。守ってやるだけがよいのではない。導いてやらねば。」 
 きつい口調で父親が言う。 
「したが、私は竹千代と会えませぬ。」 
 江が寂しそうに目を伏せた。 
「会いに行けばよいではないか。そなたは御台所、いや、母じゃ。なんの遠慮がいる。」 
 秀忠は叱るように江を励ます。 
「よいか江、竹千代には竹千代の、国松には国松の役割がある。国松は竹千代をしかと支えるのが役目じゃ。」 
「したが……」 
「そのための泰平の世ではないのか?  勝を案ずるのは、忠直殿が兄上の…将軍の兄の子であるからではないのか?」 
 畳み掛けるような秀忠の言葉に、江は言葉を失う。それでもまだ納得できないのか江は目を伏せて黙っていた。 
 ゆっくりと江が扇子を畳む。 
「…竹千代の心にやいばを持たせてはならぬ。そのような瞳で見られるは、私一人で充分じゃ」 
 秀忠の声が少し揺れる。涼やかな目には、深い哀しみが満ち溢れていた。 
 無表情の江が、夫を動かない瞳で見つめる。 

 気を落ち着けるようにスッと息を吸い込むと秀忠は続けた。 
「国松は徳川と豊臣を結ぶ役目、竹千代と豊臣をうまく結ぶ役目をせねばならぬ。それが国松の役割じゃ。」 
 優しく、しかし、力強く諭す秀忠であったが、江は無表情なまま身じろぎもしなかった。 
 秀忠がきりっと奥歯を噛む。 
世子せいしは竹千代じゃ。解ってくれておったのではないのか?」 
「解ってはおりまする。」 
 溜め息をこらえての秀忠の問いに、江は冷たく返した。 
「ならばよいではないか。」 
 秀忠は話は終わりとばかりに、寝転ぼうとする。 
「けれど、竹千代はきっと私を嫌うておりまする。」 
 先程と同じところを見つめたまま動かない御台所の声は固い。 
らちもないことを申すな。」 
 苦い顔の秀忠が、再び起き上がって江に向き直った。 
此度こたびも看病をしてやれませなんだ。きっと恨んでおりまする。」 
 唇をかすかに震わせながら、江が恨めしそうに眉間に皺を寄せる。 
「そのようなことはない。」 
 秀忠がとうとう溜め息をついた。 
「竹千代がときどき自分の子ではないように思えるのです。」 
 江は秀忠など目に入らないように、ただ一点を向いたまま、独り言のように話し続ける。 
「江、そのように考えるな。」 
 妻の奇異な様子に、秀忠は江を抱き締めようと手を伸ばす。ところが妻の体は、その腕からスッと逃れた。 
「赤子の頃、よう抱いてやった秀頼殿の方が我が子のように感じまする。」 
 ようやく秀忠の方を向いた江の顔は、白く冷たい顔であった。 
「江……」 
 江のいつもと違う様子に、秀忠は妻の名を呼ぶのがやっとである。 

 ぬるい夏の夜の風が、二人の間を通っていく。 
 ふっと江が微笑んだ。 
「早う秀頼殿と千の子を見とうござりまするな。姉上も楽しみにしておられるでしょう。」 
 江は微笑んだまま「おやすみなさいませ」と一礼すると、自分のとこへ潜り込んだ。 
 しかし微笑みの時も、妻の目は冷たいままであった。 
 秀忠は、何度も頭をカリカリと掻く。 
 江が潜った夜具は、ピクリとも動かなかった。 
「ふぅ。」 
 小さく溜め息をつき、秀忠は立ち上がる。 
「江、」 
 秀忠は小さな声で優しく呼び掛けた。 
「世子は竹千代じゃ。」 
 やはり呟くように告げ、部屋をあとにした。 

◇◆

 竹千代を取られたと思うなら、取り返すまで向かって行けばよい。 
 それが江ではなかったか…。 
 何ゆえ、竹千代を諦めるのじゃ…。 
 ………。 
 豊臣嫌いの福の顔を見たくもないからか…。 
 江らしゅうもない…。いや、それほど豊臣への思いが強いということか……。 
 江にとって、淀の方様も秀頼殿も千も、皆、血のえにしを持つ者。しかし、血の縁だけであのような結び付きができるのか……? 

 秀忠は我が身を振り返ってみる。 

 血の縁というより、各々が「思い」を分けあっておるのだ。思いのえにしで繋がっておる。 
 大元にあるのは、江が淀の方様を母のように慕い、淀の方様が江を娘のように愛おしむ、その揺るぎない思いの縁……。 
 淀の方様に慈しまれて育ったからこそ、江は秀頼殿も自分の子のように思うのだろう。 
 ゆえに、江が豊臣に固執をするのはわかる。 
 ならばこそ、己もなんとか豊臣の名を残そうと腐心しているのだ。だが、徳川の総領として、徳川のことも考えねばならぬ。将軍として、天下のことも。 
 …………。

 解ってくれていたのではなかったのか ?
 共に歩んでくれるのではなかったのか ?
 私の思い・・はまだ伝わっておらぬのか? 

 …江… 

 秀忠は江が解らなくなっていた。 



*****
この年の水無月(6月)半ばは太陽暦の8月始め


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