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第四部
第二十三章 形代、静かに流る 其の七
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◆◇◆
その後もおかしな雲がしょっちゅう現れていた。春だというのに、野分のように激しい風も吹いた。
大姥局の容態も安定し、静は見性院の元へと向かっている。
静はこの月くらいは…と思ったが、見性院が心配を深めてはいけないからと、報告を兼ねて出掛けるように、大姥局に命じられたのだった。
見性院のところに行く前に、静は海岸へ足を向ける。波が光をキラキラと弾き、心地よい風の元、鴎が空を舞っていた。
静は小さな紙の人形をそっと波に乗せた。大姥局の体を撫でてきたものである。ユラユラと波にたゆたいながら、白い人形は少しずつ沖へと進む。
(旦那様が早うようなりますように。)
静は目を閉じて手を合わせ、しっかりと念じていた。
目を開けると、すっかり強くなってきた日の光が眩しい。手をかざし、静は空を見上げた。
(おかしな雲が続くような……。親方はどのようにご覧になっているだろう。)
静はふと藤五のことを思い出した。
◇◆
静が見性院を訪れた日、江が大姥局を見舞いにきた。
「いかがじゃ? 大姥。」
藤紫の打ち掛けを翻し、シャラシャラと江が近づく。桜鼠の小袖が市姫の喪中を示していた。
落ち着いた色の装いが、逆に江の艶やかさを引き立てる。
(相変わらず、お美しい。)
周りの空気がパッと華やぐのを大姥局は感じた。侍女たちに目配せをして下がらせる。
「これは御台様。申し訳ありませぬ。このような姿で。」
床の上で少し髪の乱れた大姥局が頭を下げる。
「よいよい。寝ておらぬでよいのか?」
「随分とようなりましたゆえ。」
明るくはきはきした江の声に、ゆっくりと大姥局は返した。
「そうか。しかし、まだまだじゃな。」
どこか残念そうな御台所の声である。
「は?」
「優しい声をしておる。」
目を見開いて聞き返した大姥局に、江は悪戯っぽく言った。
「まぁ。おほほほほ。」
大姥局が思わず高笑いをあげ、その大姥局らしさに、江も軽やかに「ふふふ」と笑った。
「なにやらよいものを飲んでおると民部から聞いたぞ。」
「はい。」
チリリン
枕元の小さな鐘を大姥局が振ると、藤がスッと部屋に入ってきた。
「御台様に。」
「はい。」
藤が水桶から竹筒を取り出し、丁寧に清めた後、茶碗に甘酒を注いだ。カポカポという音が部屋に響く。
「美味しそうな音じゃ。」
江の呟きに、大姥局が微笑む。
差し出された茶碗を口に運び、江はコクリと喉を動かした。
「ん!うまい!」
美しい目を見開き、思わず声が出る。
「さようでございましょう?」
自慢げに微笑んだ大姥局に、頷きながら江はコクコクと飲み干した。
「これはよいな。竹筒にいれて冷やしただけか?」
「はい。温めた甘酒を入れるようにございまする。」
「今度、初姉上にも飲ませてしんぜよう。」
嬉しそうな江が、民部卿に用意するよう目配せをする。
「常高院さまがいらっしゃるのですか?」
大姥局が真顔になった。
「そうじゃ。秀忠様がお話したいと」
江は、この冷たく香りよい甘酒を飲んだときの姉を思い、にこにことしている。
しかし大姥局は何故、初がわざわざ秀忠に呼び出されるか察した。
「さようでございまするか。」
皺を深め、少し低い声で、呟くように遅い相槌を打つ。
「それは、待ち遠しゅうございまするな。」
一呼吸おいて、大姥局は御台所に微笑んだ。
「ああ。楽しみじゃ。」
瞳をクリクリさせて、江は満面の笑みを作る。
(ふふっ、変わらぬお方じゃ。)
自分の思いを素直に顔に出す江に、大姥局も穏やかに微笑んだ。
「また、御台所らしからぬと思うておるな?」
江が微笑みながら、拗ねるように大姥局をにらむ。
「さようなこと。」
大姥局も、おかしそうな笑顔で返す。
御台所と将軍の乳母は、そのままわずかな間、にらめっこのように顔を合わせた。
「うふふふ、バレましたか。」
悪びれない大姥局の言葉に、民部卿が吹き出し、女三人の笑い声が重なった。
「それでこそ大姥じゃ。」
江が、安堵したように笑った。
(御台様、大きゅうなられました。)
そう思った大姥局は、江の美しい微笑みに心からの笑みを返した。
「大姥。」
「はい。」
「よき部屋子を持ったな。」
「はい。」
御台所の言葉に、大姥局は微笑んで自慢げに頷く。
「養生して、また達者な声を聞かせてくれ。」
「はい。遠慮のう、そういたしまする。お覚悟なさいませ。ほほほ。」
当然とばかりに、にっこりとした大姥局の皺が、またぐっと深まる。
「楽しみにしておる。」
江も「フフフ」と笑った。
民部卿もクスクスと笑ったまま頷き、そっと涙をぬぐった。
[第二十三章 形代、静かに流る 了]
*******
【小さな紙の人形】 形代。人形に名前と生年月日を書き、水に流して穢れを祓う禊ぎとした。
【藤紫】 藤色。藤の花のように、やや淡い青みのある紫。
【桜鼠】 淡い紅色に灰色がかった色。くすんだ薄い桜色。
その後もおかしな雲がしょっちゅう現れていた。春だというのに、野分のように激しい風も吹いた。
大姥局の容態も安定し、静は見性院の元へと向かっている。
静はこの月くらいは…と思ったが、見性院が心配を深めてはいけないからと、報告を兼ねて出掛けるように、大姥局に命じられたのだった。
見性院のところに行く前に、静は海岸へ足を向ける。波が光をキラキラと弾き、心地よい風の元、鴎が空を舞っていた。
静は小さな紙の人形をそっと波に乗せた。大姥局の体を撫でてきたものである。ユラユラと波にたゆたいながら、白い人形は少しずつ沖へと進む。
(旦那様が早うようなりますように。)
静は目を閉じて手を合わせ、しっかりと念じていた。
目を開けると、すっかり強くなってきた日の光が眩しい。手をかざし、静は空を見上げた。
(おかしな雲が続くような……。親方はどのようにご覧になっているだろう。)
静はふと藤五のことを思い出した。
◇◆
静が見性院を訪れた日、江が大姥局を見舞いにきた。
「いかがじゃ? 大姥。」
藤紫の打ち掛けを翻し、シャラシャラと江が近づく。桜鼠の小袖が市姫の喪中を示していた。
落ち着いた色の装いが、逆に江の艶やかさを引き立てる。
(相変わらず、お美しい。)
周りの空気がパッと華やぐのを大姥局は感じた。侍女たちに目配せをして下がらせる。
「これは御台様。申し訳ありませぬ。このような姿で。」
床の上で少し髪の乱れた大姥局が頭を下げる。
「よいよい。寝ておらぬでよいのか?」
「随分とようなりましたゆえ。」
明るくはきはきした江の声に、ゆっくりと大姥局は返した。
「そうか。しかし、まだまだじゃな。」
どこか残念そうな御台所の声である。
「は?」
「優しい声をしておる。」
目を見開いて聞き返した大姥局に、江は悪戯っぽく言った。
「まぁ。おほほほほ。」
大姥局が思わず高笑いをあげ、その大姥局らしさに、江も軽やかに「ふふふ」と笑った。
「なにやらよいものを飲んでおると民部から聞いたぞ。」
「はい。」
チリリン
枕元の小さな鐘を大姥局が振ると、藤がスッと部屋に入ってきた。
「御台様に。」
「はい。」
藤が水桶から竹筒を取り出し、丁寧に清めた後、茶碗に甘酒を注いだ。カポカポという音が部屋に響く。
「美味しそうな音じゃ。」
江の呟きに、大姥局が微笑む。
差し出された茶碗を口に運び、江はコクリと喉を動かした。
「ん!うまい!」
美しい目を見開き、思わず声が出る。
「さようでございましょう?」
自慢げに微笑んだ大姥局に、頷きながら江はコクコクと飲み干した。
「これはよいな。竹筒にいれて冷やしただけか?」
「はい。温めた甘酒を入れるようにございまする。」
「今度、初姉上にも飲ませてしんぜよう。」
嬉しそうな江が、民部卿に用意するよう目配せをする。
「常高院さまがいらっしゃるのですか?」
大姥局が真顔になった。
「そうじゃ。秀忠様がお話したいと」
江は、この冷たく香りよい甘酒を飲んだときの姉を思い、にこにことしている。
しかし大姥局は何故、初がわざわざ秀忠に呼び出されるか察した。
「さようでございまするか。」
皺を深め、少し低い声で、呟くように遅い相槌を打つ。
「それは、待ち遠しゅうございまするな。」
一呼吸おいて、大姥局は御台所に微笑んだ。
「ああ。楽しみじゃ。」
瞳をクリクリさせて、江は満面の笑みを作る。
(ふふっ、変わらぬお方じゃ。)
自分の思いを素直に顔に出す江に、大姥局も穏やかに微笑んだ。
「また、御台所らしからぬと思うておるな?」
江が微笑みながら、拗ねるように大姥局をにらむ。
「さようなこと。」
大姥局も、おかしそうな笑顔で返す。
御台所と将軍の乳母は、そのままわずかな間、にらめっこのように顔を合わせた。
「うふふふ、バレましたか。」
悪びれない大姥局の言葉に、民部卿が吹き出し、女三人の笑い声が重なった。
「それでこそ大姥じゃ。」
江が、安堵したように笑った。
(御台様、大きゅうなられました。)
そう思った大姥局は、江の美しい微笑みに心からの笑みを返した。
「大姥。」
「はい。」
「よき部屋子を持ったな。」
「はい。」
御台所の言葉に、大姥局は微笑んで自慢げに頷く。
「養生して、また達者な声を聞かせてくれ。」
「はい。遠慮のう、そういたしまする。お覚悟なさいませ。ほほほ。」
当然とばかりに、にっこりとした大姥局の皺が、またぐっと深まる。
「楽しみにしておる。」
江も「フフフ」と笑った。
民部卿もクスクスと笑ったまま頷き、そっと涙をぬぐった。
[第二十三章 形代、静かに流る 了]
*******
【小さな紙の人形】 形代。人形に名前と生年月日を書き、水に流して穢れを祓う禊ぎとした。
【藤紫】 藤色。藤の花のように、やや淡い青みのある紫。
【桜鼠】 淡い紅色に灰色がかった色。くすんだ薄い桜色。
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