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第四部

第二十三章 形代、静かに流る 其の六

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◆◇◆

 十日ほど過ぎた宵、夕餉を終えた秀忠が、自室で書状書きに精を出していた。
 静が茶の準備を始める。 
「大姥はまだ臥せっておるのか。」 
 秀忠の声は、強いが、どこか不安そうである。 
「はい。」 
 一瞬、顔をこわばらせた静が、手を止め、おっとりと返事をした。 
「長いではないか。」 
 今度は、やはりイライラした秀忠の声である。 
「落ち着いておられるのですが、まだお辛そうでござりまするゆえ、大事をとってもろうておりまする。」 
 ほんのりと微笑みながら、静は将軍に報告した。 
「さようか。」 
「はい。」 
 微笑んで、静は茶の用意に戻ろうとする。 
「落ち着いておるのじゃな?」 
「はい。」 
「では、見舞いに行く。」 
 急須に茶葉を入れようとしていた静の手が止まった。急な将軍の言葉に、静の小さな目が一瞬泳ぐ。 
「落ち着いておるのじゃろう?」 
 りりしい目で、秀忠は静をジッと見た。 
「落ち着いてはおられまするが、まだ臥せっておいでです。」 
 静は慌てた。慌てながらソッと息を吸い、ゆっくりと急須に茶葉をいれる。
 (まだお許しが出ておらぬ。したが、上様の御命ごめい。どうすれば……) 
「案ずるな。顔を見るだけじゃ。」 
 静に一声かけると、我慢できないように秀忠は立ち上がった。 

「承知いたしました。先に知らせて参りまする。」 
 静が慌てて立ち上がり、一礼するとパタパタと出ていった。 
 静が局に戻ってまもなく、秀忠が心配そうな顔で黙って入口をくぐる。皆が一斉に平伏した。 
 その真ん中で静かに眠っている大姥局を見て、秀忠はドキリとする。が、安らかな寝息に近くへ進み、安心したようにそっと座した。 
「眠っておるな。」 
 乳母めのとの顔を覗き込み、小声で秀忠が言う。 
「はい。先程から。」 
 由良が小さな声で返した。由良は、秀忠にも大姥局にも叱られるのを覚悟で、やっと眠った主人を起こさなかった。 
「うむ。」 
 秀忠はなにも言わず、大姥局をじっと見つめる。 
 少しやつれたのか、また一段と皺が深まったように見える。 
 その皺の一つ一つに、己を慈しんでくれた思いが刻まれているように感じた。 
「早うようなってくれ。」 
 秀忠はポツリと呟いた。息を確認するように、じっと大姥局を見つめている。 
 その肩が震えているように静は感じた。 
「よう見てやってくれ。」 
 ひととき、乳母を見つめていた秀忠が、小声で頼み、立ち上がった。立ち上がったまま、もう一度乳母の様子をじっと覗き込むと、職務に戻るためにくるりと身をひるがした。 

◇◇

「そうか、上様が……」 
「はい。大層御案じの御様子でした。」 
 翌日、由良の報告に、身を起こしていた大姥局は弱々しく返した。 
「お起こしいたしませず、お許しくださいませ。」 
 由良が深く頭を下げる。立てた片足を下げれるだけ下げているのが痛々しかった。 
「よい。」 
 大姥局は、由良が自分のためを思っての判断なのを充分にわかっている。力なく微笑んで、部屋子を思いやった。 
「上様は咎められたか?」 
 大姥局が、唯一気がかりだったことを訊く。 
「いいえ。」 
「そうか。」 
 わずかに首を横に降った由良に、大姥局はひとつ頷き、満足そうな吐息を吐いた。 

 随分と明るさを増した春の光が、障子越しにも間もない夏の訪れを伝えている。 
「静、今宵、上様がいらしたら、ここへお呼びいたせ。」 
 大姥局が小さく静かに命じる。 
「よろしいのでございまするか。」 
「あぁ。」 
 静は驚くように主人の言葉を確認した。 
 (近頃やっとお一人で身を起こされるようになられたばかりなのに……) 
 静が心配するとおり、いくらか回復している大姥局だが、まだ顔色も今一つ悪く、なにより生来せいらいの声の張りもない。声の張りどころか、話をするのも辛そうであった。 
 (よいのかしら……) 
「大事ない。お伝えせよ。」 
 静の心を見抜いたように、大姥局は再び小さく命じると、浅い息のまま、またゆっくりと身を横たえた。 

◇◇

「いかがじゃ。」 
 屈んで入ってきた将軍は、いつもに増して大股で床へ近づく。 
「もう、年にございますれば。」 
 回廊をバタバタと近づく気配に身を起こしていた乳母が、ほんのりと微笑んで穏やかに返した。 
「案じたぞ。」 
 ほっとした顔の秀忠が、微笑みながら大姥局をとがめた。 
「申し訳ござりませぬ。」 
 秀忠の優しい言葉に、老乳母は頭を下げる。 
「早うようなってくれ。寝ておらずともよいのか? なにか、食したいものはないか?」 
 矢継ぎ早やに秀忠は声をかける。 
「ありがとう存じまする。皆が、よいものを作ってくれますゆえ。」 
 大姥局が微笑みながら、ゆっくりと答えた。 
「よいもの?」 
「差し上げよ。」 
 大姥局のめいに、秀忠に冷やした甘酒が差し出される。 
 瀬戸の小振りの茶碗を秀忠は口に運んだ。 
「ふむ。うまいではないか。」 
「はい。」 
 大姥局がにっこりと微笑む。 
「うむ。うまい。」 
 再び茶碗を口に運んだ秀忠の笑顔に、大姥局は幼い頃の長丸を見た。 

「上様。」 
 満足げな顔で茶碗を置いた養い子に、大姥局は改まった声で呼び掛ける。 
「なんじゃ?」 
 にこやかに秀忠は乳母を見た。 
 大姥局はしっかり秀忠の目を見つめ、口を開いた。 
「下がることを、お許しくださいませ。」 
 大姥局は目を閉じて頭を下げる。 
「ならぬ。」 
 秀忠が即座にキッと却下した。 
「もう先も長うござりませぬ。」 
 弱々しい声ではあるが、はっきりと大姥局は言う。 
「ならぬというたらならぬ。何度言えばわかるのじゃ。」 
 将軍はねるように乳母から目をそらした。 
「上様、私は立派になったこの城にけがれを運びとうはございませぬ。」 
 どこにそのような力があったのか、大姥局がきりっとたしなめる。 
 秀忠は駿府での市姫を思い出し、背筋がゾクリとした。 
「そちは死なぬ。ようなるのじゃ。」 
 眉頭に皺を浮かべ、秀忠が哀しそうな瞳で乳母を見る。秀忠の膝の上の手がグッと握りこぶしを作った。 
「人は皆、いつかは死にまする。上様より私が先に逝くが順序というものにござります。」 
 老乳母は静かに養い子ひでたださとした。 
「そのような話をするな。ようなることだけ考えよ。下がることは許さぬ。」 
 うつむき、怒りをこらえるように微かに震える声から、秀忠の寂しさが伝わる。 
「上様。」 
 大姥局がそっと秀忠の握りこぶしに手を置いた。秀忠が口許を引き締め、幼い頃のように乳母の顔を見る。 
「病で気が弱うなっておるだけじゃ。早うようなって、そなたの茶を飲ませてくれ。わかったな。そなたの茶がないと調子が出ぬ。」 
 秀忠は優しく大姥局の希望をつっぱねた。 
「皆、大姥を頼むぞ。」 
 息を飲んで二人のやり取りを聞いていた侍女たちが、将軍の言葉に一斉に平伏した。 
 大股で出ていった将軍を見て、大姥局は小さく溜め息をつく。 
 誰もなにも言えずにいた。 
 大姥局は、秀忠の去っていった方向を見つめたままである。 
「静…」 
「はい。」 
「いつもより丁寧にお茶を入れて差し上げてくれ。」 
 秀忠の背中を探すように前を向いたまま、弱い声で、大姥局は命を下した。 
「承知いたしました。」 
 静は微笑んで立ち上がり、宿直のために秀忠の部屋へと向かった。 
 生ぬるい風が、あちらこちらと向きを変える夜であった。 

 
*****
【立派になったこの城】 松姫が生まれた頃、家康時代からの天下普請がやっと終わり、江戸城は立派な城に生まれ変わっている。


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