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第四部

第二十三章 形代、静かに流る 其の五

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◇◇

「大姥が臥せっているというはまことか。」 
 静が部屋に入ってくるのを待っていたように、挑むような声で秀忠が訊く。 
「はい。」 
 茶の用意をしながら、静は穏やかに返事をした。 
「悪いのか。」 
 すでに文机ふづくえからは目を離し、秀忠はイライラと体を揺すっている。 
「お疲れが出たようにございまする。案ずるには及びませんが、お風邪かぜゆえ、ご挨拶はしばらくご遠慮くださいますよう、とのことにございます。」 
 静は畳み掛けるような秀忠の問いにも動じず、ゆったりと柔らかに将軍に伝える。 
「悪いのではないのだな。」 
 静の穏やかな所作しょさと言葉に、秀忠は少し気持ちを落ち着けた。 
「大事のうござります。」 
 静は落ち着いた声でゆったりと繰り返す。まるで江に言われているような言葉が、秀忠を落ち着かせる。 
 それでも、秀忠はもう一度確かめられずにはいられなかった。 
「真か。」 
 駄々っ子のように同じ言葉を繰り返す秀忠を静はしっかり見つめ、ゆっくりと口を開いた。 
「上様、旦那さまが一番案じられておられるは、他ならぬ上様にございます。 お見舞いで上様にお風邪がうつりますと、旦那さまはきっとご自分を責められまする。」 
 自分が大層心配しているのを気取けどらせないように、ゆったりと静は秀忠に言い聞かせる。 
「うむ。」 
 秀忠も、頭では分かっていたが、改めて納得する。 
「私たちも旦那さまのお世話をいたしますゆえ、しばらくはなるべく御台様の元でお過ごしいただきますように。」 
 静は秀忠にお茶を差し出すと、美しい礼をして将軍に願った。 
「わかった。そうしよう。」 
 静がホッとしたように微笑んだ。 
「ただし、ようなったらすぐに知らせよ。」 
「はい。必ず。」 
 静はにっこりと頷き、秀忠はやっと心から安堵した。 
「しばらくは私がこちらに来ても世話はせずともよいぞ。」 
「そうは参りませぬ。御台様のところでお過ごしくださいませ。」 
 (解っていただけたのではないのか?)と静が慌てた。 
「そうもまいらぬことが多いゆえな。よい。何かあれば呼ぶゆえ、大姥についててやってくれ。」 
 秀忠はホゥと溜め息をつくと、一口茶を飲み、改めて書状を拡げた。 
「……はい…」 
 静が、困った声で返事をする。 
「大姥に叱られるか?」 
「……はい…」 
 大姥局が臥せっていても、忠実に言いつけを守ろうとする静に、秀忠の口許が緩んだ。 
「ならば、今宵のように茶を一杯用意してくれればよい。大姥を頼むぞ。」 
「はい。」 
 静が明るい笑顔で返事をした。 
 その明るさが、静の大姥局への思いを秀忠に伝える。 
 大姥局を心から慕う静の思いが、秀忠には嬉しかった。そして、その静の声に、江も大姥局を案じていたと思い出した。 

「書状を書くゆえ、一人にせよ。大姥についていてやってくれ。」 
「はい。」 
 静は下がろうとして秀忠に向き直った。 
「上様、ありがとうござりまする。」 
「うむ。頼んだぞ。」 
「はい。」 
 秀忠は書状から目を離すことなく声をかけた。しかし、秀忠の大姥局を思う気持ちに静は心が温かかった。 

 静は落ち着いた様子で部屋を辞し、大きく息を吸った。少し湿ったような春の香りである。 
 ゆっくりと落ち着いて静は歩き始める。一刻も早く、大姥局の元に戻りたかったが、
(慌てて帰っては上様が御案じなさる)。
 そう心の中で繰り返し、ゆっくりと歩いた。 

 つぼねに戻り、駆け込むように静は大姥局の元へと行った。 
 夜の闇に大姥局の荒い息が響いている。 
 由良と小夜の辛そうな顔が、わずかな灯りにぼんやりと浮かんでいた。 
「お由良さま。」 
 静がささやかな声をかける。 
「静、上様は。」 
 由良が、やはりささやかに返した。 
「旦那様についておくようにと仰せになりました。」 
「さようか。して。」 
「ご挨拶などはしばらく控えていただくよう申し上げてございます。」 
「そうか。」 
「『ようなったらすぐに知らせるように』とのことでございました。」 
「わかった。」 
「旦那様は…」 
「また先程からお辛そうでの。」 
「旦那様…」 
 荒い息をする大姥局の吹き出す汗を、静がぬぐう。 
 由良と小声でやり取りする間も、大姥の荒い息は止まらず、二人とも目の片隅で主人の様子をうかがっていた。 
「お由良様、お小夜様、私が見ておりますゆえ、お休みになってくださりませ。」 
「うむ。もう少し旦那様が落ち着かれたらな。」 

 大姥局の状態はかんばしくなかった。咳と共に何度か吐くほどであった。局には緊迫感が走り、眠れぬ部屋子達は皆、大姥局の回りにいる。 
 (吐いてしもうたらお元気になるやも知れぬ。) 
 母が流行り病にかかった時のことを思いだして、静は皆と必死に看病を続けた。 
 何度か飲ませた薬も効いてきたのか、夜明けを迎える頃には、再び大姥局の息も少し落ち着きを取り戻していた。 
 部屋子達は安心したように次々と眠りに戻り、静は額の手拭いを替えながら、ホッと胸を撫で下ろした。 

◆◇

 その夜から三日過ぎたが、大姥局の病状は一進一退である。落ち着いてはいるが、微熱も続き、なかなか回復の兆しは見えなかった。 
「食べておられませぬゆえ、水穀すいこくの気が無くなり、営気えいきが落ちておられまする。かと言うて、通常のものは胃のが受け付けませぬでしょう。甘酒など召し上がって営気を養うてくださいませ。」 
 医師にそう言われたのに、吐き気のためか、大姥局は甘酒も飲もうとしなかった。 
「旦那様のお好きな水飴も駄目じゃ。」 
 由良が額に手をつき、悔しそうな溜め息をつく。静が控えめに申し出た。 
「お由良さま。御膳部のお方に、竹の節の中に温めた甘酒を入れていただけるようお願いできませんでしょうか。」 
「竹か?」 
「はい。」 
 いぶかしげに目を向けた由良に、静はしっかりと返事をした。 
「ふむ。なにか考えがあるのじゃな。」 
「うまくいくかどうか判りませぬが。」 
「よい。できることは試そう。」 
 由良が固い顔で頷き、「浅茅あさじ」と呼んだ。 
「はい。」 
 呼ばれた浅茅がふぁさふぁさと進み来て、静の横に座る。 
「そなた、御膳部に行き、温めた甘酒を竹の節に入れてもらえるよう頼んできてくれぬか。」 
「竹の節?長いままのでございますか?」 
 由良の言葉に、浅茅は問いを繰り返した。 
「さようにございます。できるだけ、新しい竹の。」 
 静が浅茅の方を向き、由良の代わりに答える。
 浅茅はなにかを食べるように口許を動かし、考え込んでいた。 
「…水筒のようにすればよいのか?」 
「さようにございまする。」 
 小首をかしげる浅茅に、静が「さすが」とばかりに、にっこりした。 
「わかった。」 
 微笑み返した浅茅が胸をポンと叩いて立ち上がる。半刻ほど後には、ほの温かい竹筒入りの甘酒が届いた。 
 静はそれを冷たい水の中に入れる。静は小夜と頻繁に水を汲みに行き、甘酒を冷やした。 

「旦那様、お体を起こしまするぞ。」 
 藤が大姥局を支え起こす。 
「御薬湯にございます。」 
 大姥局は顔をしかめ、黙って薬を飲んだ。 
 薬湯をなんとか飲み終わり、ホッと一息をつくと、決まったように咳き込む。 
 蕗がサッと水を差し出した。 
 ゆっくりと大姥局は水を飲む。 
「旦那様、甘酒も一口なりと。」 
「いらぬ。」 
 由良の願いに、主人は苦い顔をしながら、小さな声で首を振った。 
つめとう冷やしましたゆえ。」 
 竹筒からコポコポと甘酒が注がれる。 
「せめて一口。」 
 藤に助けられながら、渋い顔をしたままの大姥局は茶碗を口に運ぶ。
 甘酒の冷たさが熱っぽい体へと染み渡り、ほんのりと竹の涼やかな香りが口の中に拡がった。 
「あぁ、うまい。」 
 ホッとした顔で、思わずあげた大姥局の小さな声に、部屋子達がわっと湧いた。
 コクコクと大姥局は甘酒を飲み干す。 
 侍女たちが、それは嬉しそうにジッと見つめている。 
「もう一杯御飲みになってくださいませ。あとはまた冷やしておきまする。」 
 大姥局は差し出された冷やし甘酒をまた美味しそうに飲み、再び身を横たえた。 
 侍女たちは(よかった)と満面の笑顔で、お互いに頷きあっていた。 
「静、お手柄じゃ。浅茅、明日からも同じようにして持ってくるよう伝えよ。」 
「はい。早速。」 
 由良の声に、喜びににじんだ涙をふきながら浅茅がパタパタと出ていった。 

 甘酒を口にするようになった大姥局は、薄紙を剥ぐように少しずつよくなっていった。 
 それでも年老いた体には、よほどこたえたのであろう。一度落ちた体力はなかなか取り戻せないようで、床から離れるまでにはいかなかった。 


*****
水穀すいこくの気】 水穀の精微。食べ物が消化されて得られる気。 
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