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第四部

第二十三章 形代(かたしろ)、静かに流る 其の一

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 如月きさらぎも二十日を過ぎ、道端の草木が柔らかな萌黄もえぎ色を見せる頃、秀忠は江戸城へと戻った。帰る道々、あちらこちらを検分してきたことは言うまでもない。 

 秀忠が着替えを済ませかかったところに、民部卿みんぶきょうを従えて江が入ってきた。 
「お戻りなさいませ。」 
 秀忠の顔を一度しっかり見つめ、きっちりした美しい礼を江が見せる。 
「ああ。」 
 扇子せんすを腰に挟みながら、秀忠がぶっきらぼうに返事をした。 
義父上ちちうえさまは……」 
 秀忠は、端がわずかに弧をえがいただけの真っ直ぐな眉を寄せ、ひとつ溜め息をついた。 
「嘆いておった。……いや、それよりもおかじかたじゃ。」 
 江の前にどかりと座った秀忠が、口許を引き締め、また溜め息をつく。
 江がゆっくりと首を振った。 
「さにござりましょう。姉上もそうでございした。私は、さような思いをしたことはありませぬが…。ありがたいことです。」 
「うむ。親父が『子供達には十分に気を払って、すこやかに育つよう心配りせよ』と言うておった。ことに、松はまだ小さいゆえ、気をくばれ。」 
「はい。承知いたしました。」 
 頭に手をやり、どこかしら不安げな秀忠に、江はしっかりと返事をする。 
「それとな、江……」 
 妻の名を呼び掛けながら、秀忠は江から視線を外し、頭の後ろを掻いている。
「はい。」 
 江が、大きな瞳で秀忠をまっすぐ見た。 
「……いや、夕餉ゆうげのあとにしよう。そなたの話も聞きたいゆえな。」 
 秀忠は落ち着きなく、太ももをこすって、ひとつ叩く。 
「はい……」 
「先に中奥なかおくを見てまいる。用が溜まっておろう。あとでな。」 
 秀忠はパチリと自分の太ももを叩くと、立ち上がって部屋をあとにした。 

◇◆

 春が来ているはずなのに、今夜は急な寒さが襲っている。 
 江は、子供たちが暖かくしているか気にかけながら、紅鬱金べにうこん綿わた入れの襟を重ねた。 
 夕餉の後に聞いたお梶の方の様子に、江は思わず涙した。鶴松君つるまつぎみを亡くしたときの淀の方の姿も蘇る。 
 結局、市姫が死んだ理由がわからないというのも江を不安にさせていた。 
「流行り病でなければよいが……」 
 江は古びた這子ほうこでながら、子供たちの健康を願っていた。
 
 鳶色とびいろの綿入れを着た秀忠が、肩をすくめて入ってくる。久しぶりに夫婦揃った寝所であった。 
 秀忠が自分のとこに、どかりと腰を下ろす。 
 礼をしていた江が頭をあげると同時に、秀忠は口を開いた。 
「江、そなたは『戦のない世』を望んでおるか?」 
「はい。無論にございます。」 
「私を信じるか?」 
 江は美しい目で、いつになく生真面目な秀忠の顔を見る。
 端正な眉の下の瞳は、身じろぎもせず、射るようにじっと自分を見つめていた。 
「はい。信じまする。」 
 江もじっと夫を見つめ、強い意思のある瞳で返事をした。 
 秀忠の瞳の力が、安堵して少しゆるむ。 
「では、淀の方様にも私を信じてくれるよう、文を出してくれ。」 
 改めてきゅっと顔を引き締め、秀忠は江に命じた。 
「何かございましたか?」 
「秀頼殿に伏見城の親父を訪ねてもらう。」 
「秀頼殿に?」 
 急に江の目がうろうろと落ち着きなく動いた。 
「以前、そのように義父上ちちうえさまが仰られたら、姉上は『秀頼を殺して私も死ぬ』と言うたと……」 
「そうじゃな。」 
 秀忠は少し目を伏せ、江の言葉を認める。 
「それを……また……?」 
 どこか弱々しい夫の言葉に、江もおずおずと返す。 
「そうじゃ。」 
「それは……、是が非でもやらねばならぬのでございますか。」 
 遠慮がちであったが、はっきりと江は訊いた。 
「そうじゃ。」 
 秀忠も小さく、しかし、はっきりと答えた。 
義父上ちちうえさまが大坂城へ行くことは……」 
「ない。」 
 秀忠が小さく首を振った後、妻の言葉を継いだ。 
「『年寄りに長旅はつらい』のだそうじゃ。」 
 江から顔を逸らし、秀忠は告げる。 
「そんな。幾度も京までお出になられますのに……」 
 辛そうな夫の横顔に、江はつい本音を出した。 
 ホゥとひとつ溜め息をつくと、秀忠は妻を見て観念したように話し出した。 

「『もう位も持たない隠居ゆえ、かわいい千の婿殿むこどのと仲良うしたい』のだそうじゃ。」 
「ならば。」 
「『したが、年寄りに大坂まではきつい。婿殿が会いに来てほしい。孫婿まごむこじじいが会うのに不都合があるのか?』と言いよった。」 
「そのような……確かに、それはそうやも知れませんが……でも……」 
 秀頼が伏見城に行くことがどういう意味をなすか、江もよく分かっていた。 
 (それは、わがまま、口実ではないのか?)
 江はそう思ったが、口にはしなかった。 
「ただのわがまま。屁理屈じゃ。」 
 フンと秀忠が江の心を代弁する。 
「したがのう江……、もう今や大名衆のほとんどが徳川に臣従しておる。その中で豊臣の名を残すには、とりあえずなりとも、あの城から出ていただかねばならぬ。せめて、淀の方様か秀頼殿一方いっぽうだけでも。これは、そこへの一手じゃ。」 
「そんな……」 
 江はやはり目をうろうろさせ、口許を袖で押さえる。紅鬱金の袖が、江の白い肌に艶めいて浮き上がった。 
して悪いようにはせぬ。常高院様にも早いうちに一度江戸へ来ていただこうと思う。」 
 落ち着き払った秀忠が、静かに言う。 
「初姉上に?」 
「そうじゃ。我らの思いを直接届けていただくために。」 
「あなたさま…」 
 力強い秀忠の言葉に、江の目がうるむ。秀忠がゆっくりと妻に頷いてみせた。 
「私を信じてくれ。そして、淀の方様も、私を信じてほしいのじゃ。そうでなければ……」 
 秀忠は口許を引き締め、どこか苦しそうな顔で言葉を切る。 
「そうでなければ?」 
 江の大きな目が、すがるように秀忠を見た。 
「いや、やってのけねばならぬ。『天下泰平』のためにの。」 
 将軍は惑いを振りきるように力強く言ってのける。天下布武の先を秀忠は見つめようとしていた。 

「力を貸してくれ。江。そなたの力を。」 
 秀忠は不安げな江をしっかり見つめ、手を取ると大きな手で力強く握った。 
「私に。力を」 
 江の華奢きゃしゃな手を包んだ両手を持ち上げ、秀忠は口づける。 
「あなたさま……。私はあなたさまを信じておりまする。」 
 少しうち震えながらの声ではあったが、じっと己を見つめた江の瞳に、秀忠はまた力強く頷く。 
 自然と秀忠の手が江を引き寄せようとした。
 が、江の手はするりと秀忠の手からのがれる。 
 江が優しく微笑んだ。 

「お疲れでございましょう? お身体をお揉みいたしましょう。」 
「そなたも疲れておるじゃろう。」 
 江の手が離れたのは、疲れているからだと秀忠は思いやる。 
「お揉みしたいのです。」 
「そうか。では、頼む。」 
 微笑んで優しく繰り返される言葉に、秀忠は甘えた。綿入れを脱ぎ、横になる。 
「寒うはござりませぬか?」 
「大事ない。この程度。」 
「お風邪を召してはなりませぬ。」 
 秀忠が脱いだ綿入れを夫のからだにかけ、その下に手を入れて、江はゆっくりと夫の固い筋肉を揉みほぐした。 
 妻の柔らかな刺激と綿入れの暖かさに、秀忠は微睡まどろむ。 
「ああ、気持ちよい……」 

 秀頼を大御所に挨拶させる。それを、茶々姉上がお聞き届けくださるだろうか。 
 姉上が、あのお城から出てくださるだろうか… 
 江は、秀忠の筋肉質の躯を揉みながら、あれこれと思いふけっていた。 
 すやすやとした寝息が手の下から聞こえる。 
 江は秀忠の頬にそっと唇を当てると、夫に夜具をかけ、自分のとこへもぐった。 

 (秀忠様このかたを信じよう。初姉上によしなに取り計らっていただこう。初姉上……お寂しいときに、辛い思いをさせて申し訳ござりませぬ。) 
 江は心の中で手を合わせた。 

 『江が私に謝るなど、江も大人になったのぅ。』
 初の朗らかな笑顔が見える気がする。その隣には、笑顔の茶々がいる。 
 (姉上……) 
 江の瞳から、ついと涙が落ちる。 
 『江、いかがした?泣いてはならぬぞ、私がおるゆえな。』 
 茶々の声がする。 
 (茶々姉上……、姉上も初姉上には心を開いていただけましょうや。あの頃のように……) 
 江は、姉たちのことを考えながら、いつしか寝入ってしまった。 


 誰かに呼ばれたような気がして、秀忠の目が、ふと覚めた。 
 江の口許が小さく動き、何かを呟いている。 
 秀忠は、江にそっと近寄った。 
「姉上……」 
 江は眠ったまま、そう繰り返していた。 
 暗闇にぼんやり浮かび上がった抜けるように白い顔には、涙の跡があった。 
 (やはり、泣いたか……) 
 近頃、江は秀忠の前でホロホロと泣くことがめっきりなくなった。 
 それが、将軍として多忙を極めている自分への思いやりなのか、江の涙を見ると男として我慢できなくなる己を制するためなのか、秀忠にはわからない。 
 (すまぬ……江……) 
「姉上…」 
 江が再び呟いた。 
 秀忠は江の涙を長い指でそっと拭くと、口に含む。 
 (どうあっても、私は江を苦しませてしまうのやもしれぬ。) 
 江の柔らかな唇にそっと口づけを落とし、秀忠は部屋をあとにした。 



*****
形代かたしろ】 神社とかに奉納する紙を人の形に切ったもの。 または人の代わりになるもの。主に人形が多いが、愛用品の場合もある。 
【中奥】将軍が公務を行うところ。 
紅鬱金べにうこん】 いくらか黄色がかった鮮やかな赤。朱色より赤味が強い。 
這子ほうこ】 子供が丈夫に育つように、生まれたときから枕元に飾った身代わり人形。形代。 ここでは古びているので、江の這子 

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