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第三部
第二十章 月、清かに冴える 其の五
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自身の想いに気づいた静だが、その想いはどこへもやれなかった。口に出すのも憚られた。
そして、どうしたらよいか、やはり想いは袋小路を巡っている。
比丘尼屋敷で過ごしているのが、心を少しずつ安らかにしているのに静は気づかずにいた。
見性院は静に百人一首集を読むのを止めさせ、写経をさせた。
「赤子への供養じゃと思うてな。」
そう言って朝の御勤めも一緒に経を唱えさせた。
規則正しい淡々とした生活が、静の心の大波を鎮める。
「精進ゆえ、たんと食べねば力が出ぬぞ。」
食べる前に忠告された食事は、残すのを厳しく戒められた。
「命をいただくのじゃ。時間がかかってもよい。心して食べなされ。」
それは武田の教えでもあった。
野分以来、食が細くなっていた静だが、食べることで体は回復していった。
しかし以前のように微笑むことはできず、つい、鬱いだ顔になってしまう。
「静、写経をしなされ。」
見性院は、静に繰り返し写経をさせた。
◆◇◆
その頃、江戸城の奥では、大姥局が臥せっていた。
野分近づく大雨の最中に届けられた文には「水也。暫し預かり候」と慌てた字が躍っていた。由良と顔を見合わせ、溜め息をついたのは言うまでもない。
ずっと気がかりで、「戻ってこい」と言ってやりたいが、静のことを考えると、それでいいのか、大姥局も思案していた。
『生ませよ』という、家康の命も頭に浮かぶ。
どうしたものかと考えあぐんでいるところに、見性院からの「こちらで預かる」という文が届いた。
ホッとした瞬間に、グラリと目眩がした。体が疲れていたのか、そのまま少し熱を出してしまったのである。
「いかがじゃ。」
秀忠が少し屈むようにして部屋に入ってくると、大股で床の側までやってきた。
「これは、上様。」
大姥局が藤の介添えでゆっくりと起き上がる。
「よい。寝ておれ。」
秀忠が脇にどっかりと腰を下ろし、フッと息を吐いた。
「いえ、もう随分よいのです。暑気あてでございますれば。」
大姥局に打掛をかけた藤は、主人の合図を見て下がった。
「無理をするな。急に冷え始めたゆえな。野分もこたえたのであろう。」
「大きな野分でございました。」
「うむ。まだ子細がまとまっておらぬ。が、すでに利勝が走り回っておる。」
「さようにござりまするか。上様のお見廻りは?」
「うむ。京のこともあってなかなかじゃが、許す限りな。」
禁中の風紀を乱したものに主上がご立腹になり、大御所に仕置きを頼んだという話は大姥局の耳にも入っていた。
(大御所様から、またなにやら難題がきておろう。松姫様入内のために禁中をも整えるはず。)
そのように忙しい中でも、自分で下々の様子を確認しようとする秀忠に、大姥局は目を細めて頷いた。
「京と言えば九条様にまた若君がお生まれとか。」
「ああ。十三日にお生まれのようじゃ。野分に怖れて出てきたのではないかと言うておる。」
秀忠が「フフ」と笑った。
「御台様にお祝いを申し上げねばと思うておるのでございますが。」
「よい。私が伝えておこう。」
随分ゆっくりとなった乳母の語り口に、秀忠は微笑みを浮かべ労う。
「申し訳ありませぬ。お祝いの品を調えさせまするゆえ、よろしゅうお伝えくださいませ。」
「わかった。」
秀忠の答えに、大姥局がにっこりと笑い、視線を外して小さく息を吐いた。
「もう、よいやもしれませぬな。」
「なにがじゃ。」
ゆっくりと秀忠の方へ顔を向けた大姥局は、その眼をしっかり見つめ、優しく語りかけた。
「表では大炊頭殿、奥では御台様がしっかり上様を支えられるようになっておられます。そろそろ下がってもようございましょう。」
「ならぬ。」
秀忠は不機嫌な顔で即答する。将軍はパチンと太ももを叩き、そっぽをむいた。
「このような有り様では、足手まといになるだけ。」
「よいではないか。前に言うたはずじゃ。『居てくれるだけでよい』と。」
秀忠は目をウロウロさせながら、頭をカリカリと掻く。
「それは、もう、御台様に言うて差し上げられませ。」
顔の皺を深め、老女は「ふふふ」と優しく笑った。
「江は江、そちはそちじゃ。」
怒ったように憮然とした声で秀忠は言い放つ。
「ほほ、上様はいつからそのように強欲になられましたか。」
その声が寂しさから来る悲しみなのを老乳母は解っていたが、あえて知らぬふりをする。
「御台様は、勝姫様のお輿入れ準備も、それは見事に差配をなさっておられます。」
「そうか。したが、まだ下がることは許さぬ。」
秀忠は頑として大姥局の願いを退けた。大姥局はそれでももう一言添える。
「年寄りの願い、お気に止めておいていただければと存じます。」
「止めぬ。忘れた。」
秀忠は、またそっぽを向いて、そらとぼけた。
「まぁ、大御所さまに、似てまいられましたな。」
大姥局はわざとらしく眼を丸くする。
「なんじゃと?」
秀忠がチロリ睨むが、乳母は意に介さず、また「ほほほ」と柔らかな笑い声をあげた。秀忠もつられて「フフ」と笑う。
「まぁよい。差配は江に、用は侍女に任せておけばよいのじゃ。」
「それは、そうやもしれませぬが。」
なにもせずともよいというのをありがたいと思いながら、そうもいかぬと、大姥局は眉間に皺を寄せる。
「静はいかがした。このところ見らぬが。静がおると助かると申しておったではないか。」
秀忠が少し思い出すようにぐるりを見回した。
(やれやれ、今ごろお気づきか。)
大姥局は、静をいくらか憐れに思う。
「少し具合が悪そうでしたゆえ、宿下がりさせておりまする。」
「そうか。ではようなり次第、呼び戻せ。よいな。」
それで話は終わりとばかりに秀忠は立ち上がる。
「はい。あの……」
「なんじゃ。」
「いえ。なんでもありませぬ。御台様によろしゅうお伝えくださいませ。」
「ああ。わかった。大事にな。また来る。」
自分を不安げに見上げる乳母の顔に、最上の笑みを返して元気づけ、秀忠はまた大股で出ていった。
ふうーーっ。
大姥局の大きな溜め息に藤と由良が飛んでくる。
「ああ、大事ない。」
主人は、穏やかな笑顔を見せた。藤が打掛を取り、大姥局を寝かせる。
「早うようならねばの。」
「さようでございますとも。」
藤が主人を元気づけるように同意した。
(早うようなって、見性院さまのところへ参らねば……)
大姥局は白く細くなった睫毛を閉じた。
[第二十章 月、清かに冴える 了]
<第三部 終>
そして、どうしたらよいか、やはり想いは袋小路を巡っている。
比丘尼屋敷で過ごしているのが、心を少しずつ安らかにしているのに静は気づかずにいた。
見性院は静に百人一首集を読むのを止めさせ、写経をさせた。
「赤子への供養じゃと思うてな。」
そう言って朝の御勤めも一緒に経を唱えさせた。
規則正しい淡々とした生活が、静の心の大波を鎮める。
「精進ゆえ、たんと食べねば力が出ぬぞ。」
食べる前に忠告された食事は、残すのを厳しく戒められた。
「命をいただくのじゃ。時間がかかってもよい。心して食べなされ。」
それは武田の教えでもあった。
野分以来、食が細くなっていた静だが、食べることで体は回復していった。
しかし以前のように微笑むことはできず、つい、鬱いだ顔になってしまう。
「静、写経をしなされ。」
見性院は、静に繰り返し写経をさせた。
◆◇◆
その頃、江戸城の奥では、大姥局が臥せっていた。
野分近づく大雨の最中に届けられた文には「水也。暫し預かり候」と慌てた字が躍っていた。由良と顔を見合わせ、溜め息をついたのは言うまでもない。
ずっと気がかりで、「戻ってこい」と言ってやりたいが、静のことを考えると、それでいいのか、大姥局も思案していた。
『生ませよ』という、家康の命も頭に浮かぶ。
どうしたものかと考えあぐんでいるところに、見性院からの「こちらで預かる」という文が届いた。
ホッとした瞬間に、グラリと目眩がした。体が疲れていたのか、そのまま少し熱を出してしまったのである。
「いかがじゃ。」
秀忠が少し屈むようにして部屋に入ってくると、大股で床の側までやってきた。
「これは、上様。」
大姥局が藤の介添えでゆっくりと起き上がる。
「よい。寝ておれ。」
秀忠が脇にどっかりと腰を下ろし、フッと息を吐いた。
「いえ、もう随分よいのです。暑気あてでございますれば。」
大姥局に打掛をかけた藤は、主人の合図を見て下がった。
「無理をするな。急に冷え始めたゆえな。野分もこたえたのであろう。」
「大きな野分でございました。」
「うむ。まだ子細がまとまっておらぬ。が、すでに利勝が走り回っておる。」
「さようにござりまするか。上様のお見廻りは?」
「うむ。京のこともあってなかなかじゃが、許す限りな。」
禁中の風紀を乱したものに主上がご立腹になり、大御所に仕置きを頼んだという話は大姥局の耳にも入っていた。
(大御所様から、またなにやら難題がきておろう。松姫様入内のために禁中をも整えるはず。)
そのように忙しい中でも、自分で下々の様子を確認しようとする秀忠に、大姥局は目を細めて頷いた。
「京と言えば九条様にまた若君がお生まれとか。」
「ああ。十三日にお生まれのようじゃ。野分に怖れて出てきたのではないかと言うておる。」
秀忠が「フフ」と笑った。
「御台様にお祝いを申し上げねばと思うておるのでございますが。」
「よい。私が伝えておこう。」
随分ゆっくりとなった乳母の語り口に、秀忠は微笑みを浮かべ労う。
「申し訳ありませぬ。お祝いの品を調えさせまするゆえ、よろしゅうお伝えくださいませ。」
「わかった。」
秀忠の答えに、大姥局がにっこりと笑い、視線を外して小さく息を吐いた。
「もう、よいやもしれませぬな。」
「なにがじゃ。」
ゆっくりと秀忠の方へ顔を向けた大姥局は、その眼をしっかり見つめ、優しく語りかけた。
「表では大炊頭殿、奥では御台様がしっかり上様を支えられるようになっておられます。そろそろ下がってもようございましょう。」
「ならぬ。」
秀忠は不機嫌な顔で即答する。将軍はパチンと太ももを叩き、そっぽをむいた。
「このような有り様では、足手まといになるだけ。」
「よいではないか。前に言うたはずじゃ。『居てくれるだけでよい』と。」
秀忠は目をウロウロさせながら、頭をカリカリと掻く。
「それは、もう、御台様に言うて差し上げられませ。」
顔の皺を深め、老女は「ふふふ」と優しく笑った。
「江は江、そちはそちじゃ。」
怒ったように憮然とした声で秀忠は言い放つ。
「ほほ、上様はいつからそのように強欲になられましたか。」
その声が寂しさから来る悲しみなのを老乳母は解っていたが、あえて知らぬふりをする。
「御台様は、勝姫様のお輿入れ準備も、それは見事に差配をなさっておられます。」
「そうか。したが、まだ下がることは許さぬ。」
秀忠は頑として大姥局の願いを退けた。大姥局はそれでももう一言添える。
「年寄りの願い、お気に止めておいていただければと存じます。」
「止めぬ。忘れた。」
秀忠は、またそっぽを向いて、そらとぼけた。
「まぁ、大御所さまに、似てまいられましたな。」
大姥局はわざとらしく眼を丸くする。
「なんじゃと?」
秀忠がチロリ睨むが、乳母は意に介さず、また「ほほほ」と柔らかな笑い声をあげた。秀忠もつられて「フフ」と笑う。
「まぁよい。差配は江に、用は侍女に任せておけばよいのじゃ。」
「それは、そうやもしれませぬが。」
なにもせずともよいというのをありがたいと思いながら、そうもいかぬと、大姥局は眉間に皺を寄せる。
「静はいかがした。このところ見らぬが。静がおると助かると申しておったではないか。」
秀忠が少し思い出すようにぐるりを見回した。
(やれやれ、今ごろお気づきか。)
大姥局は、静をいくらか憐れに思う。
「少し具合が悪そうでしたゆえ、宿下がりさせておりまする。」
「そうか。ではようなり次第、呼び戻せ。よいな。」
それで話は終わりとばかりに秀忠は立ち上がる。
「はい。あの……」
「なんじゃ。」
「いえ。なんでもありませぬ。御台様によろしゅうお伝えくださいませ。」
「ああ。わかった。大事にな。また来る。」
自分を不安げに見上げる乳母の顔に、最上の笑みを返して元気づけ、秀忠はまた大股で出ていった。
ふうーーっ。
大姥局の大きな溜め息に藤と由良が飛んでくる。
「ああ、大事ない。」
主人は、穏やかな笑顔を見せた。藤が打掛を取り、大姥局を寝かせる。
「早うようならねばの。」
「さようでございますとも。」
藤が主人を元気づけるように同意した。
(早うようなって、見性院さまのところへ参らねば……)
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