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第三部

第十九章 野分、吹き荒ぶ 其の五

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 雨風は相変わらず暴れ、ドバゥンドウンと雨戸をたわませている。 
 嘉衛門よしえもんは灯りを持って縁側へ行き、雨戸に向いて黙って座った。 
 栄嘉さかよしは暗闇の中にぼんやり浮かび上がる息子の背を見ていた。 

 美津が静の体をきちんと伸ばし、布団をかけて整えている。 
「美津、すまぬのぉ。嘉衛門を許してやってくれ。」 
「御義父上ちちうえが謝ることではありません。」 
 とげだった声で美津は手を動かす。 
「いや、嘉衛門はのぉ、わしの本音を口にしたのじゃ。」 
「本音?」 
 ばつの悪そうなしゅうとの声に、美津はきょんと顔をあげた。 
「そうじゃ。武士として世のためにたてる家柄となるの。将軍の御胤おたねと縁続きであれば、それも叶うやも知れぬ。」 
 栄嘉はゆっくりと、嫁に語りかけた。 

 嘉衛門が小さな頃、『武士は世の人々のために尽くさねばならぬ』と教えていたのを栄嘉は思い出していた。 
 栄嘉に優しく言われても、美津は唇を噛み、納得できない不満げな顔をしている。 
「しかしのぉ……、城に戻しても上様のご寵愛ちょうあいがなければ、それは叶わぬ。」 
「どういうことでしょう?」 
 続けた栄嘉の言葉に、美津の顔がすっと緩んだ。 
 栄嘉が静に目を落とす。 
「お静が何故なにゆえお手付きになったかじゃ。」 
「何故、とは?」 
「ただの気まぐれであったなら、お静が憐れじゃろう。」 
「気まぐれ?」 
「御台様はのう、絶世の美女と言われたお市ご寮人の姫じゃ。 北条との戦の時には、豊臣の陣中に秀吉の妻となった姉姫が来ておった。そのお美しさは豊臣方のみならず、敵方の我ら北条方へも流れてきた。 こちらが浮き足だつくらいのぅ。妹姫もたがわずにお美しいという噂であった。」 
「噂なのでございましょ?」 
「いや、そのあとも太閤がなかなか嫁にやらなんだのを見ると、さぞお美しいのであろうて。」 
「でも、それとお静ちゃんがどう関係するんです?」 
 美津は何故ここで舅が昔話をするのか、御台様の話になるのか、一向に解らなかった。 
 (お静ならば、途中で先まで読むがのう。) 
 栄嘉は、横たわっている静にまた目をやる。 
 しかし、美津のまっすぐ尋ねてくるたちも栄嘉にはかわいい。 
「そのようにお美しい御台様がおられるのに、何故、お静に手を出すかじゃ。」 
「あ……」 
「そなたが何よりわかっておろう?」 
 美津は栄嘉の言葉に息をつめた。 
 ーーそうだ。静と一緒にいても、若い男の人が親切にしてくれるのは、いつも自分だけだった。 
 『お静ちゃんも』というと、なんだか渋い顔をされた。嫌な顔をしないのは、嘉衛門くらいだったのだ。 

「そう考えるとのぅ、ご寵愛ではなく、ただの気まぐれではないかと思えての。またお情けをいただくことはないやもしれぬ。それならもう下がらせた方が、静にはよいのかもしれぬと思うのじゃ。」 
「それで、才兵衛殿の嫁に?」 
「別に才兵衛でのうてもよいのじゃが、昨夜、才兵衛がそう言うたでの。」 
 皺を深めていた栄嘉の顔が、すこし面白そうに微笑んだ。 
「才兵衛殿が?」 
「そうじゃ。お静を嫁取りしたいとな。」 
「そうなのですか?けれど今日はお静ちゃんに近づきもしなかったですよ。」 
 静を運んでほしいと言ってからの才兵衛を思い出し、美津の大きな瞳がまたつり上がった。 
「そうじゃのう……」 
 栄嘉が息子たちと静のことを考え、再びうなだれてしまった。 
「ふぅ。頭を冷やすか。美津、そなたも少し休め。」 

 栄嘉も美津も横になるのか、離れる気配がする。 
 静は栄嘉の話の途中で気がついていた。「何故なにゆえお手付きになったか」。それを考えたことをなかった。
 (そういえば…) 
 静は再び大姥局おおばのつぼねの言葉を思い出した。 
 『そなたは、また上様のお情けをいただくことがあるやもしれぬ。』 
 (『また』…。確かにそう言われた。旦那さまは、何故そう思われたのであろう…。私よりお美しい方は何人もいらっしゃるのに。) 
 静の頭に華奢な小夜さよの姿が浮かぶ。 
 (年かさといえ、お小夜さまのほうがずっとお美しいのに……) 
 『嫌なら宿直とのいを止めてもよい』。そう言いきられるのだから、私に上様のお情けがかかると、旦那さまはお分かりになっていたのだ。 

 ……なにゆえ?…… 
 遠目にさえお美しいとわかる御台様に、似ても似つかぬ私なのに、お手がつくと解っていたのは? 
 ……なにゆえ?…… 
 あんなにも御台様を想うておられる上様が、私なんかにお情けをかけられたのは? 
 ……なにゆえ?…… 

 静の想いは出口も見えず、ただ同じところをぐるぐる回っている。その合間合間に現れるのは、秀忠の笑顔とクククッという笑い声であった。 
 『おもしろい女子じゃのう。』 
 そう言って柔らかな笑顔をした秀忠が静の頭に浮かぶ。 
 (上様……) 
 静の目から知らずと、また涙が溢れた。 
 その涙が何を表すのか、静自身にも判らなかった。 

 (私を女子としてくださったのは上様。嫌わずに女子として見てくださったのは上様。) 
 『上様が私にお情けをかけてくださったことは、私の中からもう消えませぬ。』 
 以前自分がそう言ったか? 
 『思い出して生きて行けばよい。』と? 
 私は上様のことをお慕いしていたのだろうか。 
 いや、私がお慕いしているのは、嘉衛門様のはず。 
 静の心に嵐が吹き荒れつつあった。 

 「上様のお側にあがって欲しい」と言った嘉衛門の射すような眼差し、そして、柔らかな秀忠の笑顔と声が、静の胸に拡がる。 
 (上様……) 
 涙はまた溢れている。 
 (……申し訳ありませぬ……) 
 静は、初めて子を亡くしたことに涙した。 


 風は少し力を弱めたように雨戸を震わせている。 
 美津も栄嘉も着物のまま横になっていた。 
 栄太郎がムクリと起き上がる。 
 目を擦りながら静の布団までやって来ると、「かかさま…」 と寝ぼけた様子で呟いて布団に潜り込み、静に体をすり寄せてまた寝入ってしまった。 
 柔らかい温かさに、静が何か思い出しそうになる。 
 気付いて起きた美津がそっと近づいて、 
「栄太郎、かかさまはここですよ。」 
 と、優しく言い、息子を「よいしょっ」と抱き上げた。 
 寝転んだ美津が「よしよし」と言いながら、栄太郎を寝かしつけている。 

 グブワッ 
 再び大きな風がおこり、ミシッパキッとなにかが割ける音がした。 
 (あっ!) 
 静の頭の中でも雷が光った。 

 まだお城に上がって間もない春、急に雷が鳴り響いた。またたく間に曇って、大きな雷が次々と鳴り響き、皆が悲鳴をあげていた。 
 その時、国松にのわか様が「ははうえ~」と泣きべそをかきながら、私たちのところにまっすぐ駆けてこられた。 
 「ははうえ~」と言いながら、声をあげる私の傍に擦り寄り、身を小さくしておられた。が、その後、国松にのわか様は涙目で不思議そうにマジマジ私を見られた。 
 そう、たしかあのとき、二の若様は目に一杯涙を溜め、小首をかしげて私から周りを見つめ、呟やかれたのだった。不安げに。 
「…ははうえ?…」と。 
 そのあとは…… 
 たしか…… 
 すぐ旦那さまが飛んでこられて、国松にのわか様の相手をされた。 
 遅れてきた乳母さまが「近くの庭で遊んでおられたもので。」と旦那さまに謝っておられた。 
 「回廊へ上がると一目散にこちらに駆けてしまって。」と困ったような顔をされていたかしら。 

 なぜ、あのとき二の若様は、私にしがみついて「ははうえ」と言われたのだろう……。 
 他にも人はいらっしゃったのに。 

 (……あ……) 

 『声を出してみよ。』 
 閨で上様はそういつもそう望まれたか?……。 
 (そうだ) 
 『声を出せ。』 
 上様は暗闇の中、執拗にそう望まれたのでなかったか……。 

 そうだ。きっと。 
 私の声が御台様の声と似ているんだ。 
 それで国松にのわか様は飛んでこられたんだ。私の悲鳴を聞いて。 
 そうだ。 
 肌を合わせているとき、上様は一度も「静」と読んでくださったことがない。 
 そうだ。 
 きっと。 

 そうだ。 

 静は、何故秀忠が自分に情けをかけたか理解した。そして、秀忠が気紛れで自分を抱いたのでもないのも理解した。それは同時に、江の身代わりであると静に理解させたのであった。 

 グワォーッ 
 風が巻きうなりながら通りすぎていった。 


[第十九章 野分、吹き荒ぶ 了]
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