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第三部

第十九章 野分、吹き荒ぶ 其の一

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 翌朝、朝焼けの中を静は井戸へ向かった。東風が吹き、木々が揺れる。空を見上げると、鰯雲いわしぐもがゆっくりと泳いでいた。 

 (天気は悪くなりそうだけど……) 
 のどかな空を見ながら、静が井戸へ着くと、美津がもう体を拭き終わっていた。 
「お美っちゃん、早いのね。」 
「おはよう。うん、才兵衛さいべえ殿が水汲みに来るから。」 
「やっぱり野分のわきが?」 
「たぶんね。親方おじいさまが言うなら用心に越したことはないって、寝る前にお義父上ちちうえが。で、うちの人も怪我してるし、才兵衛殿に願いしたの。」 
 野分がくるのなら、それに備えて水甕みずがめをいっぱいにしておかねばならない。嵐が去っても井戸が濁る場合があるから、たっぷりの備えが必要なのであった。 
「そうよね、親方が備えてるんですもんね。」 
 美津は、静が持っている何枚かの手拭いに気づいた。 
「あ、行水するんだった?」 
「うん。明日お城へ戻るし。でも、あとで離れの裏でやるわ。」 
「そっか……。もう戻るのね……。水、才兵衛殿に運んでもらえば?」 
「いいのよ。自分で運べるから。」 
 寂しそうな声の美津の提案に、静は元気に答える。 
「甘えてください、義姉上あねうえ。」 
 才兵衛が、いつの間にか背後に立っていた。 
「キャッ、あっ、おはようございます。」 
 ビクッと身体中で驚いた静が、振り返って挨拶をする。 
「糸が泣いてますよ。」 
「あらやだ。起きた? お静ちゃん、あとでね。」 
 才兵衛の報告に美津は慌てて駆け出していった。 

 釣瓶つるべを落とし、才兵衛はグイグイと力強く水を汲む。 
 静は昨夜のこともあり、なんとなく気恥ずかしかったが、慌てて戻るのも義弟おとうとを傷つけるような気がして、パチャパチャと手を洗っていた。 
義姉上あねうえ、それくらいは甘えてください。」 
 汲み上げる水を見ながらの才兵衛の声は、固く、かすかな怒気を感じさせる。 
「かたじけのうございます。」 
 きつい声が照れ隠しだとわからない静は、身を小さく縮めて頭を下げた。 
 その後に、ふっと静の顔が緩む。 
「なにか?」 
「いえ、ご兄弟だと思って。」 
 静が幸せそうな笑い顔をしている。 
「え?」 
「小さな頃に義兄上あにうえ様が水運びを手伝ってくれたのです。」 
 静をこのように柔らかな笑顔にする思い出に、才兵衛は少し妬いた。 
「そうですか。では、兄上には負けられませぬ。」 
「まぁ。」 
 水を手桶ておけに移して、おどけたように宣戦布告する義弟に、静は思わず「ウフフ」と笑う。 
 その美しい笑い声に才兵衛も満足そうに微笑んだ。 
「離れの裏にたらいを出しておいてくださいね。」 
「はい。お願い致します。」 
 静は素直に才兵衛おとうとに甘えた。 

 親方の藤五が野分への備えを指示したのであれば、きっと天気は大きく崩れるのだろうと皆思っている。 
 藤五が、というより大工たちは、元々空模様に敏感である。が、山での仕事の者たちはさらに敏感で、雲の様子はもちろん、動物たちの行動から先の天気を推しはかり、よく当てた。 
 今回も藤五にどこかからか進言があったのだろう。 
 (早くお城へ戻った方がいいかもしれない。) 
 静は盥を出して空を見上げ、今日の段取りを考えていた。 


 みな早々に朝餉あさげを済ませ、大人達はいつもより慌ただしく動いた。
 兄弟は家の回りを雨戸を立てながら点検し、勝手仕事を終えた美津は慌てておむつを洗っている。栄嘉さかよしは栄太郎と庭の畑の野菜株を支柱に縛り直した。 

 静は離れの竹垣の中に行水の準備をする。盥にはたっぷり水が張られていた。その水は、まだ空にある日の光をキラキラと映している。 
 思わず静から笑みがこぼれ、自然に両手が合わさった。 
 (かたじけのうございまする。才兵衛殿。) 
 浴衣と手拭いを竹垣にかけ、静は左手で襦袢じゅばんの前を合わせ持ち、右手で腰紐をシュルリと解いた。 
 その紐も竹垣にかけ、前を広げながらそっとしゃがみこむ。 
 たわわに大きな白い胸が、ゆらゆらと揺れた。 
 背に襦袢をかけたまま、左片袖から腕を外して、手桶で水をかけていく。 
 (ふふっ、冷たい。) 
 蒸し暑い夜を過ごした身に、汲み上げたばかりの冷たい水が心地よい。手拭いでそっと擦り、再び水をかけ、肌の上の水を拭き取る。静の臍下へそしたが一瞬キュンと痛んだ。 
 (水が冷たかったのかしら。) 
 体の異変が気になりながらも、静は洗った左腕を袖へ直し、右腕を袖から外す。いつもなら少し様子を見るのだろうが、今日は気が急いていた。 
 同じように右腕を洗うが、特に異変はない。安心した静は腕を右袖に直し、ふわふわとした胸をそっと擦ると小さな吐息をついた。 
 たっぷりした胸を手で押さえ、少しずつ水をかける。 
 水の冷たさに身を固くした静の下腹部に、鈍い痛みが走った。 
 (え?) 
 月のものが始まるのかと思い、静は行水を中断しようとしたが、すぐさま立ち上がれないほどの激痛が襲う。 
「ぁくううぅっ…」 
 痛みのために思わずあげた声と同時に、ドクンと自分の体の中から何かが出たのを静の体は感じた。 
 体を丸めている静の元に、真っ赤な血の海ができていた。 
 その中に一寸五分ごぶほどの小さな塊があった。 
 静はぼんやりとした目で、熟れすぎた山桃のような色のかたまりと周りの血の海を凝視する。 
 (……な…に?……え……?) 
 静の頭の中でなにかが弾けた。 
「あっ、あっ、あっ……」 
 顔をひきつらせるように狼狽うろたえる静の目の前が、真っ赤から次第に真っ黒へ移っていった。 

「お静ちゃん?」 
 糸をおぶい、洗ったおむつを抱えた美津が、母屋おもやへ戻ろうとして、離れから水音がしないのに気づく。何となく気になって、美津は声をかけてみた。 
 浴衣がかかったままの竹垣の中から声はない。 
 美津は、竹垣の下に見える濡れた土が、異様にどす黒いのに気づいた。 

「お静ちゃん?」 
 嫌な予感に身を包まれて、慌てて竹垣の中に入る。 
 美津の目に、倒れた静の真っ青な顔と、真っ赤に染まった襦袢が飛び込んできた。 
「お静ちゃん!? お静ちゃん! お静ちゃん!! しっかりして!!」 
 母親の大声に、背中の糸が大きな声で激しく泣き出した。 
 美津は静に呼び掛けながら、はだけられている前を合わせる。 
 糸の火のついたような泣き声に、異変を感じた嘉衛門よしえもんと才兵衛がバタバタと覗きに来た。 

「いかがした?」 
 糸をあやすように柔らかな声をかけた嘉衛門であったが、その光景に呆然と目を見張る。才兵衛も同じく、その場に立ち尽くした。 
 男たちにも静の身に何が起こったかが一目で判る。 
「お前様、お静ちゃんを……いや、お前様はお怪我が…。才兵衛殿、お静ちゃんを運んでやってください。」 
 気は動転しているが、糸の泣き声をものともせず美津が早口で指図した。 
「えっ、あっ…」 
 そう返事をして一歩近づいたが、そこから才兵衛の体は動かない。 
「才兵衛殿! 早よう!」 
 静の体に浴衣をかけた美津が、キリキリした声で催促した。 
 しかし、ぽっちゃりとした白い足の内側に見える紅の血が、才兵衛の動きを止める。今や浴衣で隠れているはずの襦袢の赤さが、才兵衛の頭から離れずにいた。 

「どけ。」 
 嘉衛門が突っ立ったままの弟を払い、静を浴衣で包みながら抱き上げる。痛みに顔が歪んだ。 
「くっ……」 
「お前様…」 
 美津が心配そうに嘉衛門を見る。 
「大事ない、これしき。野分が来るといけない。母屋うちへ運ぶぞ。」 
 美津は夫の早い言葉にこっくり頷くと、準備をしに家へ急いだ。 
「才兵衛、父上にお知らせせよ。」 
 歩み出した兄の低い声に、才兵衛はうつ向いた顔をさらに下げ、唇を噛み締めて父の元へと走った。 
 ギリギリした痛みをこらえながら、嘉衛門は静を抱き抱えている。 
 (……しず……) 
 静の重さが、かすかに嘉衛門の目を潤ませていた。 


*****
【一寸五分】約4.5cm

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