上 下
64 / 132
第三部

第十八章 芋供え月、丸む  其の三

しおりを挟む
◆◇◆

 宿下がりをして四日目、今までと事情が変わったわけではないが、静の中に、城へ上がった頃の明るい気力が取り戻されていた。 
 日に一度は、父母のどちらか、または両方が静を訪れていた。賑やかな気の中で、静の気は柔らかに充ちていた。明後日には城に戻る段取りもできている。 
 今日も晴天のなか、姉様かぶりの静は糸をおぶい、美津に代わっておむつを洗濯していた。先刻たっぷりお乳をもらった背中の糸は、気持ち良さそうに眠っている。 

 静の後ろにふいに男の姿が現れた。手拭いで顔を押さえていた男が、その手拭いを静へ投げる。 
「美津、これも洗っておいてくれ。」 
 ふっと鼻先を掠めた男の匂いに、静はドキリとする。 
 どこか懐かしい男の汗の匂いに心さざめく静の手が、手拭いを拡げて慌てた。 
「あっ!」 
 手拭いのあちらこちらは泥と共に鮮やかな赤で染められている。思わず上がった静の声に、今度は男がうろたえた。 
「お静であったか。」 
義兄上あにうえさま!いかがなさいました!」 
 嘉衛門の姿を見た静が、驚いた声をあげて立ち上がると、背中の糸がフニと目を擦る。 
 嘉衛門の着物は泥と埃にまみれており、男にしては色の白い皮膚のあちらこちらが擦りむけ、血がにじんでいた。 
「ああ、大事ない。木材が倒れてきたのじゃ。」 
「大事ないなど。お怪我をなさっているではありませぬか。」 
 静は新しい水を急いで手桶に汲み、懐からきれいな手拭いを出すと傷のひとつひとつを丁寧に洗った。 
「栄太郎は?」 
 ズキズキする痛みに顔をしかめているが、嘉衛門はこの頃いつも静のそばにいる息子の心配をする。 
「お美っちゃんが連れて、親方のところへ。」 
「そうか。」 
「お手をのけてくださいませ。」 
 嘉衛門の広いおでこが一部切れている。そこを押さえていた嘉衛門の手をけさせ、静は傷をそっと拭ってきれいにした。 
 傷を負った男の視線と手当てをする女の視線が、一瞬まったりと絡み合う。静の胸が勝手に鼓動を刻み始めた。 
 さざめく思いに目を伏せた静が、嘉衛門の肩口にも血の拡がりを見つける。 
義兄上あにうえさま、片袖かたそでをお脱ぎください。」 
「いや…」 
「早う手当てをせねば。」 
 片袖を脱ぐことをためらった嘉衛門に、静がきりりと柔らかく声を荒げる。 
「少々堪えてくださいませ。」 
 静は、肩口の少し深い傷回りをそっと洗った。 
 嘉衛門が水の冷たさと痛みに、キリッと唇を噛む。 
「あとはお部屋にて手当ていたしますゆえ、先にお上がりくださいませ。」 
 血止めのため嘉衛門の手を肩の手拭いに導き、静は立ち上がる。 
 嘉衛門がうちへ向かうのを見て、静は庭を歩き、葉が小さくなったドクダミをセカセカと摘んで回った。寝ている糸が強い匂いに体をねじる。 
「お糸ちゃん、こらえてね。」 
 静はお勝手へ小走りし、かまどの残り火でドクダミの葉をあぶった。 
 柔らかくなった葉を揉みながら、居間へと走る。独特の鼻をつく臭いが辺りに拡がり、栄嘉さかよしが顔を出した。 

「いかがした?」 
義兄上あにうえさまが、お怪我を。」 
 パタパタと居間へ進みながら、静は栄嘉に短く報告した。 
「なに?」 
 目を剥いた栄嘉は、静のあとから同じように居間へと進む。 
「嘉衛門、いかがした。」 
「大事ございませぬ。お静がきれいに洗ってくれました。」 
 静は、背中から糸をそっと下ろし、トントンと糸が起きないようにゆっくりと手を当てる。赤子が静かに眠っているのを見て、急いで嘉衛門の方へ向いた。 
まぬようにしておきまする。義父上ちちうえさま、白木綿しろゆうと油紙を。」 
「おお、そうじゃな。」 
 栄嘉はトテトテと箪笥たんすに行き、木綿の長い布と油紙を取り出す。 
「少し勝手が悪うございましょうが。」 
 ドクダミを揉んだ汁を傷口につけ回り、肩口は布と油紙を置く。木綿布を細く割き、その布でぴっちっと巻き上げた。 
「相変わらず見事じゃの。」 
 てきぱきとした傷の手当てに栄嘉は感心する。静は、胸の鼓動を悟られないように、義父に軽く会釈だけをした。 

「それにしても、何をしておったのじゃ。」 
 栄嘉が心配そうに眉間に皺を寄せ、息子に訊く。時々の痛みに顔をしかめながら、嘉衛門が答えた。 
「野分に備えて、木材のまとめを手伝うておりました。」 
「野分が来るのですか?このように天気がよいのに?」 
 きちっとした結び目を作っていた静が、驚いて割って入った。 
「まだわからぬが、親方が用心されておる。今年はいまだ来ておらぬしな。来たら大きいのではないかとご懸念けねんだ。まぁ、何事もなく済んでしまえば、それはそれでよい。」 
「さようでございまするね。」 
 傷の手当てが済み、やっとおだやかに一息をついた空気のもとに、玄関を勢いよく開ける音が聞こえた。 

「お前さまっ!」 
 玄関で一声が聞こえたかと思うと、すぐに、 
「お前さまっ!」 
 と、息を切らせた美津が居間に飛び込んできた。大きくせわしい音に、糸が起き出しそうな仕草を見せる。美津が慌てて声を潜めたが、早口はそのままに話した。 
獅子丸ししまるかばって怪我をしたって聞いて。」 
「大事ない。お静が手当てをしてくれた。」 
 咳き込むように話す妻に、夫は力強い笑顔を返した。 
「よかった~。ありがとう。獅子丸を庇ってくれて。」 
 獅子丸とは、藤五の家で飼われている老犬である。美津が十になった頃に生まれた柴犬で、兄弟の中で美津が一番可愛がっていた。 
 嫁いだあとも、美津はたまに獅子丸に会いにだけに生家へ帰っていた。その回数は、静がお城に上がったあと、頻繁になっている。 
 今日の騒ぎは、年老いて目が濁り、見えなくなっている獅子丸が、木を運んでいる人足の間をすり抜けて歩き、人足がよろめいたために起こった。人足が持っていた木材が立て掛けた木に当たり、倒れてきたのである。 
 美津は怪我をした夫にまず礼をいった。そして、静の方を見、 
「ありがとう、お静ちゃん。」 
 と、少し美しくなった礼をした。 

「栄太ちゃんは?」 
「あっ、才兵衛殿に預けてきた。だって、たまがったんだもの。」 
 静の問いに、夫の体のあちらこちらを見ていた美津が答える。 
「迎えに行ってきましょうか?」 
「一緒に出たから、すぐ帰ってくるはずよ。」 
「そう?」 
 このようなことは度々あるのか、少し心配そうな顔をしたのは静だけであった。 
 (やっぱり迎えにいこう。)と静が立ち上がったとき、玄関で声がした。 
 才兵衛と栄太郎が戻ってきたかと静は玄関へ急ぐ。 

「松吉!?」 
 玄関先には父より背が高く、がっしりした弟が、日焼けした手に風呂敷包みを持って立っていた。宿下がりして初めて会う弟であった。 
「あっ、ねぇちゃん、達者?」 
「『達者?』じゃないわよ。もう会えないかと思っていたわ。お八重ちゃんと一緒になったのね。おめでとう。」 
「うん。でも、ねぇちゃんがいねぇと寂しい。」 
「ふふ、何言ってるの。会いにも来なかったくせに。離れも住みよいわよ。もう一人前なんだし、お八重ちゃんがいてくれるじゃないの。」 
 姉としての気質が、じつの弟の前では存分に発揮されるようである。少し潤んだ目をした松吉に、静は笑顔でポンポン言葉を投げた。 
「うん。」 
 松吉が姉の笑顔を見て、同じ細い目で笑う。 
「なにか持ってきたの?」 
 静が、なにやらざらざらと落ち着きのない風呂敷包みに目をやった。 
「ああ、これ、嘉衛門さんからの頼まれもの。『切ってきました』って渡しといて。」 
「そう言えばわかるの?」 
「渡しゃぁ解るよ。」 
 弟とやり取りをしていた静の目に、門をくぐって帰ってきた才兵衛と栄太郎の姿が見えた。 

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

俺だけ毎日チュートリアルで報酬無双だけどもしかしたら世界の敵になったかもしれない

亮亮
ファンタジー
朝起きたら『チュートリアル 起床』という謎の画面が出現。怪訝に思いながらもチュートリアルをクリアしていき、報酬を貰う。そして近い未来、世界が一新する出来事が起こり、主人公・花房 萌(はなぶさ はじめ)の人生の歯車が狂いだす。 不意に開かれるダンジョンへのゲート。その奥には常人では決して踏破できない存在が待ち受け、萌の体は凶刃によって裂かれた。 そしてチュートリアルが発動し、復活。殺される。復活。殺される。気が狂いそうになる輪廻の果て、萌は光明を見出し、存在を継承する事になった。 帰還した後、急速に馴染んでいく新世界。新しい学園への編入。試験。新たなダンジョン。 そして邂逅する謎の組織。 萌の物語が始まる。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

【実話】友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
青春
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

処理中です...