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第一部

第九章 時雨うちそそぐ 其の二

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 雨上がりの夜空には二つの明星みょうじょうと、糸のように細い月が浮かんでいる。
 夕餉ゆうげのあと、秀忠と江は縁側で酒膳しゅぜんを前に夜空を楽しんでいた。
 
「美しゅうございまするね。」
 江が感嘆しながら、飽きずに空を眺めている。
 秀忠は美しいと思いながら、二つの明星に徳川と豊臣を重ねた。
 (あいだの月は、江か、それとも私か……。並び立てばかくも美しいものを……)
 秀忠は盃をゆっくりと口に運ぶ。

「江、淀の方様はなにゆえ太閤殿下たいこうでんかのお側にあがったのじゃ。」
 夫の突然の問いに、江は夜空から目を離した。
「お嫌いではなかったのか?かたきと呼んで嫌っておられたのであろう?」
 秀吉が元気な頃の大坂城で、浅井あざいの姫たちは、よく人々の人々の口の端に上った。人質であった秀忠は、聞くともなく噂話を耳にしていた。
「はい。母上と柴田の義父上ちちうえの仇でございました。浅井の父上とて……。私は覚えておりませぬが。」
 北之庄きたのしょうの落城を思い出した江は、口許が震えるのをグッと引き締めた。
「ふむ。であろう?小さかったとはいえ、一の姫の淀の方様は小谷おだにも覚えておろう……。一番憎しみが強かったと聞いておったがの。」
 秀忠がグイと盃をあおる。
「それが、なにゆえ御子をなすまで……」
「さあ、私にもわかりませぬ。」
 心底せぬと考え込む秀忠に、江は優雅にしゃくをし、また美しい宵の空を見あげた。

 『私のためですか?』
 しくしく泣いたわたしの髪を茶々あねうえは優しく撫でてくれた。
 そして、『そなたのためではないぞ。』と微笑まれた。あの妖しいまでの微笑み……。
 あの頃には解らなかったが、あれは殿下に愛されていたからではないか?そして、姉上も……

 江が思いを巡らす横で、秀忠が、ふぅと溜息をついた。
「利勝は、優しかったのではないかと申すのじゃが……」
 酒を一口含んで、秀忠も星を見あげる。
「確かに姉上には優しゅうございました。つねではないほど……。それでも姉上は、珍しい物を贈られてさえ歯牙しがにもかけずおられたのですが……」
 きらめいた星を見つつ、江はわずかに眉間にしわを寄せた。
「いつの間にか……か。嫌じゃ嫌じゃも好きであるのかのう……」
「……そうでございますね。ふふっ、そうやも知れませぬ。」
 嫁いだばかりの頃、年下の秀忠を見下して嫌がっていた自分を、江は思い出す。
 盃をあおった秀忠の胃のに、ゆっくりと酒が落ちてゆく。
「したが、かたきと憎む者に、そうも心かれるのであろうか。殿下はどのようなすべをお使いであったのじゃ。それが解れば、豊臣を救える一手いってが思いつくであろうに……。……忠栄ただひで殿に骨折りいただくか……」
忠栄ただひで殿に?」
 思いがけない名前に、江が夫を見る。
「あぁ。まもなく関白になられるはずじゃ。」
「そうなのですか?」
「もう少し先かも知れぬが……、もう間違いはなかろう。高台院こうだいいん様にもお口添えをいただいたし。」
 喜色きしょくをみせる妻の問いに、秀忠は淡々と答えた。

「そうですか、忠栄ただひで殿が……」
 江は年始めに初めて会った娘婿むすめむこを思い出した。松姫のお食い初めの祝いと将軍家への新年の挨拶にかこつけ、忠栄は江を見舞ってくれたのである。

 『御台様、ご機嫌はいかがであらしゃいますか?
 あらまぁ、おうわさどおり、ほんまにまばゆいほどきよげなかんばせ。やっぱり麿まろ若紫わかむらさきのおたた様であらしゃいまする。これは完さんのねびゆくさまが、ほんまにほんまに心勝りでおじゃります。ホホホホ』
 と公家言葉を賑やかに操り、毒のないにこやかな人であった。
 この方なら、さだも幸せであろうと安堵あんどしたのを覚えている。

「では、さだ北政所きたのまんどころですか……」
 感無量で江は呟く。
 (北政所まんどころ……)と心の中で呟いても、浮かんでくるのは高台院、「おね」と呼ばれていた世話好きな義母ははの姿である。千姫の婚礼で会った乙姫おとひめ姿の完を思い描いても、その姿は、『ははうえ』とたどたどしく手を伸ばす、幼い姫に戻ってしまうのであった。
 (秀勝さま……)
 万感の思いを込めて江は手を組んだ。
 完姫さだひめは、朝鮮出兵で命を落とした前夫ぜんぷ豊臣秀勝との子、江にとっては初めての子であった。
 幼い姫を淀の方の手元に置き、江は秀忠に嫁いできたのである。
 まつげを伏せて身じろぎもしない江を、秀忠は横目で捉えていた。

「では、次は秀頼殿ですね。」
 (姉上のおかげじゃ。姉上も喜んでおられよう。)
 胸の中で茶々あねに手を合わせ、江は嬉しそうに訊いた。
 ところが、秀忠が大きな溜息をつく。
「そこじゃ。」
 秀忠が頭をカリカリとかいた。
「太閤殿下亡きあと、関白は再び五摂家ごせっけの持ち回りに戻りつつある。まるで豊臣など最初はなからなかったようにな。一度取り返した摂家せっけが秀頼殿に渡しても、そこまでじゃ。世襲にはするまい。関白は、元々摂家での持ち回りじゃ。豊臣は代々の公家ではないからの。」
 秀忠が、空を見あげた。
「摂家どころか、元々公家でもない豊臣が、関白の座を横取りしたばかりか、世襲にしようとしたのじゃ。反感を持っておる者も多かろう。口にせぬ奴が多いがの。都人みやこびとは、喰えぬ。」
 秀忠は頭をガリガリかき、憮然として二つの明星をにらみつけた。二つの星の間を少しずつ動く細い月が、日和見ひよりみする公卿達のようにも感じられてた。

「高台院さまは、お公家方にも慕われておりました。」
 江は、大坂城のおねの元で、ときどき公家の方々と顔を合わせたのを思い出す。
「お人柄じゃの。忠栄ただひで殿の話では、さだ殿も、公家の北の方として馴染んでおるらしい。さかしいのであろう。」
 秀忠が銚子を持ったのを江が慌てて取ろうとする。
 妻の手を制し、夫は手酌で酒を注いだ。



*****
【忠栄】九条忠栄(幸家)。
【高台院】豊臣秀吉の正室。
【まばゆいほど清げ】 光り輝くばかりに美しい。
【ねびゆくさま】 成長していく様子。将来のさま。
【心勝り】 楽しみ
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