【完結】照葉輝く~静物語

みなわなみ

文字の大きさ
上 下
20 / 132
第一部

第九章 時雨(しぐれ)うちそそぐ 其の一

しおりを挟む
 大騒ぎの祝いの一日が暮れ、秀忠と江は、寝所でホッとしていた。
 虫の音もひと頃のにぎややかさはなく、冬の始まりを思わせる冷ややかな空気が、人恋しく感じさせる。

「冷えてきたな」
 胡座あぐらをかいて本草書ほんぞうしょを繰っていた秀忠が、ひやりとした隙間風すきまかぜに肩をすくめ、夜具やぐに脚を突っ込む。
「ほんに。」
 夏に子どもたちから貰った貝殻を眺めていた江も、顔を上げて夫に同意した。
「疲れたであろう、早う休め。」
「あなたさまこそ、お疲れでございましょう。」
 秀忠は江の体を、江は今日の宴の酔いがまだ残っている秀忠を、互いに案じる。

 江は手に合った貝殻を小さな巾着きんちゃくに納め、自分の枕元に置く。
 今日も一日、何事もなく過ぎた。
 竹千代のことは気にかかるが、子どもたち全員がすこやかなのはなにより有り難かった。
 今日の祝いの席を思い出し、江は微笑む。
 (さだ母者ははじゃか……)
 松鶴君まつつるぎみへのお祝いに江戸のおもちゃを贈ろうと小間物屋を呼んだときも、つい、小さな完姫さだひめが歓びそうなものを手に取り、民部卿に『若様ですよ』とたしなめられた。
 (あの小さかった完が……。)

義父上ちちうえさまは、豊臣をいかがなさるおつもりでしょう。」
 竹千代よりも、家康に気がかりな豊臣のことを尋ねられなかったのが、今日の江の不満である。 
「さぁな。」
 秀忠おっとは相変わらず、本を見ながら上の空の返事である。
 しかし江はそんな夫にも慣れていた。そして、実はちゃんと話を聞いているのも知っていた。
「今日はうまくはぐらかされてしまいました。豊臣が公家として生きてくれれば並び立つ道もあるとあなた様は仰せでした。そうなれば、豊臣といくさせずともよいのでありましょう?」
 秀忠の方を向き、江は穏やかな世間話のように胸の内を吐露する。夫を追い詰めたくない想いと、豊臣を思う気持ちで、江は揺れていた。

「いや、方法はあると思うておる。ただな、」
 本草書に目を落としたまま、秀忠が返事をする。
「ただ?」
「大坂城から出ていただかなければならぬ。」
 本をパタリと閉じ、江の目を見つめて、ゆっくりと重々しい声で将軍ひでただは宣言した。
 江が絶句する。口に手を当て、目を見開いたまま、しばらく動かなかった。
 その姿に秀忠は心が痛む。妻の思うように徳川と豊臣を並べ立てるのは、すでにどう考えてもできぬのである。

「公家として生きるというのはそういうことじゃ。武家の頭領とうりょうが二人いては天下は泰平たいへいにならぬ。」
 秀忠は江にゆっくりと言いきかせた。民草たみくさが幸せないくさのない世、天下泰平のために己は将軍として働いている。子どもたちのためにも……。
 夫の真剣な眼差しに、江はその想いを感じ取った。それでもなにかがに落ちない。
「しかし、大坂城から出ずとも……」
「公家に武力はいらぬ。よって城もいらぬ。大坂城は天下の城じゃ。出ていただかねば親父が納得すまい。」
 江の顔は見なかったが、秀忠は気をふるい立たせるように整然と、ただまっすぐ前だけを見て伝えた。

 江はドキドキしている。
 確かに秀忠おっとの言うとおりかもしれぬ。
 しかし、あの城は太閤たいこう殿下が心血しんけつを注いで建てた城。姉上の女としての喜びも悲しみもあの城に詰まっている……。
「徳川を臣下と思っている豊臣が……いえ、姉上が……得心とくしんなさるでしょうか。」
「そこじゃ。頭が痛いのは。」
 秀忠は大きな溜め息をつき、がっくりとうなだれた。
 秀忠が負う重さを目の当たりにして、江は眉間に皺を寄せ、辛そうな顔をする。
 豊臣に姉上あねがおらねば、夫はもっと楽に豊臣と向き合っているかもしれない。江は苦しそうに微笑んだ。
「あなたさまを信じておりまする。私が豊臣ゆかりであるばかりに、あなたさまに大きな荷を負わせてしまいます。」
「まことじゃな。」
 間髪を入れず、秀忠は妻を見て恨めしそうに言う。と、今度は小さな溜め息で冊子を叩いた。
「申し訳ありませぬ。」
 江が恐縮し、身を小さくして顔を下げる。夫が優しく声を上げて笑った。
「はは、戯れ言ざれごとじゃ。そなたのせいではない。親父じゃ。そなたを嫁にもらったのも、千を嫁にやったのも、天下を望むのも……。いい迷惑じゃ。」
 笑いながら言い始めた秀忠は、やはり最後に溜め息をついた。安堵した江の眉も、再び険しくなる。
「私が嫁に来たのは、いい迷惑なのですか?」
「そうは言うておらぬ。」
「そう言うておりまするっ。」
 ねた様子をしたかと思うと、夫を責めるように早口で言い、気がたかぶったのか、江はハラハラと涙を流す。
 秀忠は妻がなぜ泣くのか解らず、渋い顔をした。
「そなたは近頃よう泣くのう。体が辛いのではないか?無理をするな。」
「姉上や千のことを案じておるのです。」
 夫の思いやりを嬉しいと思いながら、江は袖で涙を抑える。
「子はみなすこやかに育っておる。そなたにも達者でいて欲しい。……今日はもう休め。淀の方様たちのことはまた考えるゆえ。」
 子どもたちの祝いが無事済んだ喜びからか、秀忠は珍しく、素直に優しい言葉をかけた。
「私にできることがあればお教えくださいますか?」
 目をしばたたかせながら、濡れた目で江がお願いをする。
「ああ、教える。」
 澄んだ瞳に吸い込まれまいと、秀忠は少しぶっきらぼうに、しかし優しく約束した。
 江がやっと花のような笑顔を返した。

「あの……枕添まくらぞいしてもよろしゅうございますか?」
「よいぞ。」
 国松や松姫が時々一緒に眠るようになって、秀忠は少し容易たやくで己を制するようになっていた。またなにより、あの激しく拒まれた傷は大きかった。ただ、その傷を本当の形で癒やせるのも江しかいない。と秀忠は解っていた。
 穏やかな笑みを浮かべて夜具を持ち上げ、江をいざなう。はずかしげにソッと入り込んだ江は、嬉しそうに秀忠に寄り添った。
「暖こうございまする。」
「うむ。」
「おやすみなされませ。」
 微笑んだ江は、ゆっくり目を閉じた。
 秀忠は灯りを吹き消し、割れ物のように江を抱いて、秀忠も目を閉じる。
 祝いの宴に疲れたのか、豊臣の話に疲れたのか、二人の寝息が早々と闇夜やみよに溶けた。

◆◇◆

 翌日は朝から時雨しぐれ模様の空であった。そぼ降る雨が残りぎくを濡らし、香りを立てる。
 北窓はきっちりと目張りでふさがせたはずなのに、どこからか風が入ってくる。利勝がそれを防ぐために、衝立屏風ついたてびょうぶを動かしていた。

「のう利勝、淀の方様はなにゆえ太閤殿下たいこうでんか側室おへやになられたのであろう。かたきと呼び、さらには随分年上の……」
 今年の米の出来高に目を通しながら、秀忠は利勝に声をかける。
 初めての主人ひでただからの艶めいた話に、(静のせいか……)と、利勝は首をすくめてニタリと笑った。

「そこが、男と、女の、みょう、ではござりませぬか。」
 ぶつぶつと区切りながら答えた利勝が、なにを想像したのか、うぷぷぷぷ、と笑う。
「茶化すな。」
 秀忠が真顔で、書状から顔を上げた。
 (え、そういう話ではないのか?それ以外になにがある?)
 怪訝けげんな顔をしながら、真面目に答えようと利勝は秀忠の机の前に座る。
「さぁ……優しかったのでございましょうな。」
 真面目な顔を作って答えるが、知らずに、むふっと緩む。
 (いかんいかん。)
 利勝が顔をキリッと引き締め続けた。
「豊臣の者はみな、女子おなごには優しゅうございまするゆえ。中でも殿下は。さいたるものだったのでございましょう。」
 真面目な顔で答え始めた利勝だが、言い終わると「むふっ、むふふっ。」と笑った。
「そちに訊いた私がおろかであった。さっさと恩賞おんしょう用の米の計算をせよ。」
 秀忠はゲンナリとし、利勝に書状を突きつけた。

 再び静かになった中に、トンビの鳴き声が響く。
 (雨が上がったか?)
 秀忠が天を仰ぎ、首をぐるりと回した。
 昨夜からしばしば、大阪城で対面した淀の方の姿が思い出される。
 (淀の方様の気持ちを変えることはできぬのか、己の心を淀の方様に伝えるすべは……)
 秀忠の心が、またぐるぐると迷っていた。
 
 

*****
【本草書】 植物図鑑
【得心する】 納得する

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

夢のまた夢~豊臣秀吉回顧録~

恩地玖
歴史・時代
位人臣を極めた豊臣秀吉も病には勝てず、只々豊臣家の行く末を案じるばかりだった。 一体、これまで成してきたことは何だったのか。 医師、施薬院との対話を通じて、己の人生を振り返る豊臣秀吉がそこにいた。

武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり

もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。 海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。 無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。

処理中です...