【完結】照葉輝く~静物語

みなわなみ

文字の大きさ
上 下
18 / 132
第一部

第八章 藤袴薫る 其の二

しおりを挟む
 祝い膳が運ばれ、酒が皆に行き渡る。
 家康、秀忠、江の三人も上段じょうだんから降り、家臣と交わりやすい上座かみざに座り直した。
 家康は赤子の松姫を膝の上に置いてご機嫌である。
「来年は松が髪置きじゃなー。市もじゃぁ。」
 孫姫のぷにゅぷにゅしたほほをつつきながら、大御所は娘の話もした。
 家康には松姫と同い年の娘がいる。江の母で絶世の美女であったお市の方に似るように、『市』と名付けられていた。
「市はかわいいぞぉ。色白で目がパッチリしておってのう。まこと、お市様のように美しゅうなろう。いや、お市様より美しゅう育つやもしれぬ。」
 家康は我が子を誉めに誉め、ワハハと笑う。
 (また始まった。)と思ったのは、秀忠だけではない。とにかく近頃の家康の話題は、ともすれば市姫・・であった。
 年老いての子どもはこうもかわいいのだろうか……と、秀忠は思う。
 江も白髪頭しらがあたまで我が子の自慢をする家康に、秀吉を思い出す。
 そのとき、松姫が手を伸ばし、家康のひげを引っぱろうとした。
「おう、おう、松、すまぬ。そなたもかわいい、かわいい。」
 家康が上手に松姫をあやす。
 市姫をこのように可愛がっておられるのだろうと、江は微笑ましく想った。
 (秀忠うえ様の子ども好きは義父上ちちうえさま譲りじゃな。)
 祖父にあやされ、松姫が「キャッキャ」とあげる愛らしい声に、微笑む江だが、(かく可愛がる姫もまつりごとに使うのか……)と、やるせなさも感じていた。

伊達だて様へのお輿入こしいれがお決まりとか。」
 江がひそやかに言うと、家康は少し淋しそうに笑った。
「そうじゃ。今しばらくは手元に置くがの。」
 懸念事項であった伊達への最後の切り札にさせたのが、市姫である。
「かようにお可愛かわいがりであられるのに、お寂しゅうはございませぬか?」
 家康の淋しい笑顔に、いつくしむような笑顔を向けて江はいた。
「それはそれ、これはこれじゃ。市はわしの娘であって儂の娘ではない。徳川の姫、将軍の妹じゃ。……のう、松。」
 家康はきっぱりと答え、松姫の顔をのぞき込んだ。江はなにも言えず義父を見る。
 (殿方はそうも割り切れるものか。)
 江は命を生み出すことを切なく思う。
 (秀忠うえさまも、そう思うておられるのか……?)
 江はそばに居る秀忠にそっと目をやった。秀忠は黙々とはしを膳に運び、父に抱かれている松姫むすめをときどき見ていた。

 重い空気を察して、利勝が家康の前に進む。
「大御所さま、ささ、御一献ごいっこん。そういえば松鶴君まつつるぎみでございましたか、九条くじょうの若様も来年髪置きでしたな。」
 大きな目を見開き、ニマッとした笑顔で、利勝は江に話をふる。
「おお、そうじゃ。そうじゃ。完殿さだどの母御ははごになられたのであったな。」
「はい。私も婆様ばばさまにござりまする。」
 感慨深げに大きくうなづいた家康に、江がほんわりと花のような笑顔を返す。
「なにを申すか、江。そなたはまだまだ若うて美しい。秀忠にはもったいなかったのう……。儂がもろうておけばよかった。」
 いかにも残念そうに悔しがる家康に、江がはにかんで微笑んだ。
「父上。」
 父の軽口に今まで黙っていた秀忠が、野太い声で家康をにらむ。
「わははははは。そうであった、そうであった。江がせっている間の、こやつの憔悴しょうすいはなかった。」
 息子ひでただ悋気りんきを家康は豪快に笑い飛ばす。大御所のからかいに、周りからもドッと笑い声が起こった。
「父上ッ!」
 顔を赤くした秀忠が叫ぶと、家康はさらに「ワハハハ」と声を上げた。周りの賑やかさに松姫が膝の上でキョトンとする。
「驚くではないか、のう、松。 利勝、このような奴じゃが、しっかり助けてやってくれ。そちが頼みじゃ。」
「はっ。心得ましてございます。」
 大御所いえやすは、頼りになる老中としかつ息子ひでただたくした。
 その様子を横目で見ながら秀忠はグッと酒をあおり、憮然ぶぜんとして江にさかづきを差し出す。
「そなたも呑め。」
「うっ、わはははは。やはり、江がよいか。」
 家康は体を揺すって笑い、上機嫌で仲睦まじい息子夫婦をからかう。大笑いと共に膝が大きく揺れ、松姫が驚いて泣き出した。
「おお、松、すまぬすまぬ。」
 家康は幼い姫を抱き上げてほおずりすると、ひかえていた乳母めのとに預けた。
 秀忠は、これ以上家康にからかわれまいと、家臣の中へ入っていった。

 江が、自分も皆の中に入っていこうかと思案していると、いえやすが盃を置いて向き直ってきた。
「子に恵まれ、しかも、みなすこやかじゃ。江、そなたの手柄じゃ。礼を申すぞ。」
 家康は真顔で、頭を下げんばかりである。江が慌てた。
「そのような……」
「いや、まことじゃ。このように子宝に恵まれるのは、そなたの命の力が強いからであろう。信長公のお血筋じゃろうて。」
秀忠うえさまとて、義父上ちちうえさまの命の力を継いでおられまする。」
「そうか。二人とも命の力が強いか。」
 松姫の泣き声が、賑やかな家臣の声の中に、なおも聞こえる。家康が「ふふふ」と満足げに笑った。
血気けっきがよいの。松には同い年の叔母おば甥御おいごがおるのじゃな。」
「はい。」
「人の和に恵まれた子じゃ。」
 家康は福々しい笑顔で断言だんげんする。
「さようでしょうか。」
 珍しい縁を持つ子かもしれぬが、そうだろうかと江は首をかしげる。
「ああ、きっとそうなろう。」
「ならば、よいのですが。」
 いえやすの力強い予言に、江は心底嬉しいと思った。
 (豊臣も結ぶ子になってくれるだろうか。)
 松姫の泣き声が、やっと少し小さくなっていった。

「江、儂は市がかわゆうてならぬ。しかしの、市がお市様のように美しゅう育つのを見るは叶わぬであろう。」
 再び盃を取り、家康はほんの少し酒を口にした。
義父上ちちうえさまらしゅうございませぬ。そのように気弱なこと。」
 江は凛として、家康を優しく叱咤しったする。
「いや、儂も老いた。……儂に何かあった折には、市を松の姉じゃと思うて気にかけてくれぬか。」
 弱々しげな家康の願いだったが、しゅうとの本音が江には嬉しかった。
「もちろんでございまする。秀忠様の妹御は、私の妹でもございますれば。」
「さようか。これで安心して伊達へ嫁にやれる。」
 にこやかに頷く江に、家康も安堵の笑顔を返した。
「しかし、まだまだ先のお話にしてくださりませ。」
 優しい笑顔で願う江に、少し泣きそうな顔の家康が「うんうん」と頷く。
「千もかわいいと思うたがの、市はもっとかわいいぞ。……儂はな、千に市と名付けたかったのじゃ。初めての姫であるしの。」
 家康がふっと笑った。
「……まこと、お市さまはお美しかった。…のう…。儂の憧れであった。その娘のそなたを我が娘と呼べるのが、いかに嬉しいか。」
 家康は、青年のように頬を上気させる。
 (姉上も母上の娘じゃ。)
 江は、家康に豊臣のことを尋ねるよい機会だと思った。
義父上ちちうえさま、千のことにござりまするが……」
 江が切り出した途端、家康が近くの家臣の中の大姥局を見つけて声をかけた。
「おお、大姥、息災そくさいか?」
「はい。大御所さまもお変わりのう。」
 大姥局はすぐに家康の前に進み出て、礼儀正しく頭を下げた。
「帯解き親、ごくろうであった。」
「なんの。上様のおぼし召しにございますれば、ありがたき幸せにございまする。」
 ホホホホホと気持ちよさそうに大姥局は笑う。
 家康との話が途切れたのに江は少し不満を覚えたが、江も御台所らしく礼を述べた。
「私からも礼を申します。大姥のように長生きしてくれるとよいのじゃが。」
「ふふ、その前に御台様が長生きなさいませ。上様をぎょせるのは、御台様だけにございますゆえ。」
 にんまりとした大姥局に、家康がまた大笑いした。
「うわははははっ。まことじゃのう。」
義父上ちちうえさまっ!」
 今度は江が家康を小さな声で叱る。
「おぉ、おぉ、叱られてしもうた。……大姥、久方ひさかたぶりに、そなたの入れる茶を飲みたいのぅ。」
 家康がヒョイと肩をすくめて、大姥局に助けを求めた。
「ホホ、いつでも、ごちそういたしまする。」
「そうか。では馳走ちそうになりにまいろうかの。江、ではな。」
 家康は大姥局をうながして立ち上がり、出て行った。
 江は、家康にうまくはぐらかされた気がして、顔をしかめた。


*****
【松鶴君】後の二条康道にじょうやすみち。父は九条忠栄ただひで幸家ゆきいえ)。母は完。完は、江と前夫豊臣秀勝の娘のため、松鶴君は江の孫に当たる。

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

夢のまた夢~豊臣秀吉回顧録~

恩地玖
歴史・時代
位人臣を極めた豊臣秀吉も病には勝てず、只々豊臣家の行く末を案じるばかりだった。 一体、これまで成してきたことは何だったのか。 医師、施薬院との対話を通じて、己の人生を振り返る豊臣秀吉がそこにいた。

武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり

もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。 海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。 無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。

処理中です...