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第一部

第七章 萱草結ぶ 其の二  (R18)

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 秀忠は回廊を走るように自室へ向かう。

 (何をしようとしたのだ、私は……。なにをしようとしたのだっ)

 江を失うのをあんなにも怖れていたのではないか。
 『命の保証はできませぬ』。医師の言葉が頭の中を巡る。
 情けない……。これほどまでに己を情けなく思ったことはない。

 江も泣いておるだろう……。江を泣かせたのは自分。拒まれるは自業自得じゃ。
 拒まれなんだら……
 ……子をはらんだやも知れぬ。

 背筋がゾッとする。
 頭ではそう解っていても、愛しい女に拒まれた事実は、秀忠の心に大きな傷を残していた。

 部屋へ飛び込み、腰が抜けたようにドシンと秀忠はあぐらをかいだ。
 その気配に、慌てて上着を羽織り、酒を捧げて入ってくる。
 鬼気を感じさせる秀忠の様子に、静はおそるおそる酒膳を置き、後ろに下がろうとした。秀忠はそれを許さず、その場に荒々しく静を押し倒す。
 銚子がカシャッと倒れ、酒があふれ出した。
 静はそれが気になり、秀忠の腕をかいくぐろうとするが叶わない。いつもと違う秀忠の様子に、静は途方に暮れた。
「いかがなさいましたか。」
 小さく不安げな江の声にも構わず、秀忠は静に荒らかな口づけをする。
 静は力強い口づけをなんとか受け止めながらも、いつもと違う秀忠が気になって仕方がなかった。
「上様?」
「上様などと呼ぶなっ!」
 秀忠は振り絞るように命ずる。
 これまで接した秀忠との違いに、静はためらいを覚えていた。どうしてよいかわからず、ただ声をかける。
「上様?」
「思い通りにならぬことばかりじゃ。なにが上様じゃ。」
 秀忠は静の薄い夜着を脱がそうともせず、その上から胸元に口を寄せ、噛んだ。
「あぅ……おやめくださいまし……」
 荒ぶる秀忠に、江の声が当惑する。
「そなたまで私を拒むかっ。」

 江に拒まれた。
 それは秀忠に己を忘れさせるには充分であった。
 そしてまた、江の声が自分を拒む。それはさらに、秀忠の正気を失わせた。
 湿った静の夜着は、女のからだにぴったりと付き、たわわな二つの膨らみを教える。
 ポトリと温かい雫が落ちたのを静はその胸で受け止めた。
「……泣いておられるのですか……?」
 おそるおそる尋ねるのは、優しい江の声であった。しかし、それが秀忠の神経を逆撫でする。
「そなたはとぎの相手をすればよいのじゃっ。」
 強がってはみたが、江を求めて雄々しくなっていた己の勢いは失せかけようとしていた。
 それでも今宵は女の肌が恋しい。

 秀忠は涙を見せないように静を組み伏せ、覆いかぶさった。静の頬の横に自分の頬を寄せる。
「あなた様と呼んでくれ。」
 弱々しく動く秀忠の口を耳元で感じながら、静は天井を見上げて息を呑む。
「……できませぬ……そのようにおそれおおいこと……」
 男の腕で動きを止められている静だが、全力でかすかにかぶりを振った。
「よいから、呼んでくれ。」
「……できませぬ……」
 静は秀忠の汗ばんだ躰を感じながら、その申し出に歯がカチカチ鳴りそうに畏れる。
「呼べっ!」
 秀忠は姿勢を変えず、きつく命令した。
「……あっ……あっ……あ…なた、さま……」
 グッと目をつぶった静は、やっとの思いでたどたどしく口にする。
「今一度。」
「……あなた、さま……」
「今一度じゃ。」
「あなたさま……」
 江の声が、少しずつ愛しい妻のように己を呼ぶ。
「そうじゃ……そうじゃ……」
 その声に秀忠は次第に落ち着き、今度はゆっくりと静に口づけし、江の吐息を聴いた。
 (江……江……ごうっ)
 秀忠の中に拒む前の江の記憶が蘇る。

 この夜、秀忠はただ江だけを想い、江の声が途切れないよう静の軆を悦ばせた。
 あまりにも途切れなく訪れる波に、静の軆は女としてどんどん開花してゆく。
「……もう…、もう、…………おゆるし…くださりませ……」
 息も絶え絶えに、静は何度も秀忠に懇願した。
 しかしそのたびに秀忠は、「ならぬ。ならぬっ。」と静の軆を責め続けた。
 幾度も気が遠くなりそうになりながら、静もそれを受け入れ、そのたびに女が花開いた。
 静は悦びを与えてくれる殿方に素直に従う。
 それができるのが、今の静には一つの幸せとなっていた。

◆◇◆

 翌日、静がいつものように気が回らないのを大姥局おおばのつぼねが見過ごすはずもなかった。
「静、寝足りぬのか?」
「いえ、大事のうございます。」
 大姥局のやんわりとした探りに、静はほんのり顔を赤らめて少しずれた返事をした。
「ホホ、まこと素直じゃの。よいよい。」
 秀忠が静を相手にしているのに満足し、老乳母はにこにこしている。
 しかし静は、昨夜の将軍の様子がなんとも気にかかっていた。

「あの……旦那様……」
「なんじゃ?」
「…上様はなにかお心をわずらわせておいでなのでしょうか……」
 静は思いきって主人にそう切り出してみた。
 昨夜の秀忠の声が、あまりにも悲哀かなしそうだったからである。
「まぁ、天下の将軍でいらっしゃるからのう。…いかがした?」
 静の思い詰めた顔に、大姥局はキリッと顔を引き締める。
「私に…『あなた様と呼べ』と。」
 静はポソッと報告した。
 大姥局は(側室おへやにもせぬのに!なんということを!)と心の中で頭を抱えたが、もちろん静には気取らせもしなかった。
「ホホホッ、さようか。上様もなかなかのおたわむれをなさる。戯れ言ざれごとじゃ。気に病むでない。」
 大姥局は大仰なほどに笑い飛ばす。
「そうなのですか?」
「上様の優しいお情けのお戯れじゃ。そなたも浜で御台様を見たであろう?」
「はい。お美しく、お子さま方とお幸せそうでした。」
 魚を焼きながら遠くに観た、江のあでやかな美しさを思い出し、静はうっとりとした。
「そうじゃ。多くのお子さまに恵まれ、一人も欠けることもなくお過ごしじゃ。まことさきくましい方よ。」
 いったん言葉を切った大姥局がひっそりと続ける。
「じゃがの、御台様の一の姉君様は豊臣のおふくろさま。ご自身の一の姫君は豊臣の嫁。……上様も御台様もお辛いこともおありじゃ。」
 溜め息をつきそうな主人の言葉を静は黙って聞く。
 天下人と呼ばれ、なに不自由もないと思う将軍家も、ただ幸せではないのか……と。
「ふふ、そなたはそのようなこと分からずともよい。」
 静のしんみりした顔に、大姥局が微笑む。
「実は御台様もの、呆れるほどまっすぐなお方でいらっしゃる。そなたの素直さの中に、上様も御台様を感じられてのお戯れを申したのやもしれぬ。」
 静に顔を寄せ、あくまでもにこやかに、大姥局はひそひそと話す。
「それは……畏れおおいことでございます。」
 静は、神々しいほどに美しい御台様に、似ているところがあると言われただけで嬉しかった。
「そうじゃ。その気持ちを忘れてはならぬぞ。」
「はい。」
「上様のお戯れにはの、うまく付き合うてやってくれ。」
「はい。」
 いつもの邪気のない笑顔で静は返事をする。
 その無垢な笑顔に、大姥局は心の中で手を合わせた。
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