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第一部

第七章 萱草(わすれぐさ)結ぶ 其の一  (R15)

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 それから数日、秀忠が奥に戻ってくるのは遅かった。草木を潤す雨が続いて少し気温が下がっているとはいえ、江は夫が気持ちよく眠れるようにずっと心を砕いた。
 江の志が届いたのか、秀忠の懸念も思ったより早く一段落つきそうであった。

 朝方までの雨が上がった後、久しぶりに顔を見せた太陽は、ここぞとばかりに周囲を照らす。蝉の鳴き声と蒸されるような空気に、気が萎える一日が過ぎた。
 早めにまつりごとを切り上げられた秀忠は、久しぶりに妻との夕餉ゆうげを楽しむ。膳の上の魚に、江の海での話が弾み、それは寝所に移っても続いた。

「これは国松が私にくれたもの。きれいな宝貝でしょう?」
 江はなめらかな帛紗ふくさから、つるつるとした宝貝を出して、自分の手のひらに乗せた。
「ほう。なかなかに大きいの。」
 感心する秀忠に、江は自分が誉められたように喜び、咲き誇るような笑顔を作る。
「そうそう、あなた様には勝からこちらを預かっておりまする。誰より大きな貝がらを見つけたとか。」
「どれ、負けん気が強いのう。三の姫は。」
 貝殻を大きな手で受け取りながら、秀忠は江にいたずらっぽい笑顔を見せた。
「知りません。」
 江はからかわれているのに気づき、体を斜交はすかいにしてねる。
「ん? そなたのことではないぞ?勝のことじゃ。」
 にんまりした顔を秀忠は江に向けた。プイと娘のようにふくれる妻に、秀忠は変わらぬ美しさを見、「ハハハッ」と笑う。
 江は秀忠を睨んでいたが、夫の笑い声につられて顔をほころばせる。クスクス笑う江の膝の帛紗から、小さな桜貝が落ちた。
 夫がめざとく、うるわしい貝をつまみ上げる。灯りにかざしてみた秀忠は、美しさに心動かされた。
「なんともきれいな桜貝じゃのぅ……。……そなたの爪のようじゃ。」
 男が最上の笑みで妻への愛を伝える。
「竹千代がくれました。」
 江は複雑な顔で返事をする。
「そうか。……竹千代はそなたをよう見ておるのぅ。」
 秀忠は、また桜貝を灯りにかざして、まじまじと見ている。
「女子に美しい物を贈るとは、誰に似たかの。」
 秀忠の軽口を、江は重い気持ちで聞いた。
 (あの時、福に一番よい物をやったと思って竹千代を撫でてやらなんだ。もしかして、いや、きっと一番美しいものを私にくれたのではないか?何故なにゆえ「嬉しい」と頭を撫でてやらなんだのか……)
「いかがした?」
「いえ、なんでもありませぬ。」
 急に物思いにふけった妻を秀忠は気にかけたが、江はかすかな微笑みで答えただけであった。
「見てみよ。そなたの爪の色にそっくりじゃ。」
 秀忠は竹千代に嫉妬するように言うと、妻の小さな手を取って、爪の近くに桜色の貝を置く。
 (いくつになるのだ、江は……)
 妻の可憐な姿に、秀忠は一瞬息を呑んだ。
 (いや、ならぬ。)
 江に気づかれぬよう、秀忠は小さく息を吐いた。

 「……竹千代を、誉めてやりませなんだ……」
 江が目を潤ませ、かすれる声で悔いる。涙が溢れそうになるのを堪えるために、江が空いている手を口許に運んだ。
 白いたもとが秀忠の前で揺らぎ、伽羅きゃらの薫りが匂い立つ。
 秀忠はたまらず江を引き寄せ、口づけた。
 身構えることもなく、江の小さな蝶のような唇は秀忠に捕らえられる。
 久方ぶりの愛しい夫の、息が止まるほどの口づけに、江はなにも考えられなくなる。
 秀忠は秀忠で、外れてしまったたがを元に戻せはしなかった。

 秀忠の唇が細く白いくびを這い、小さな耳をみ、また口づける。
 江は体の奥から湧き上がる、とろけるような快感になんとかあらがおうとしていた。
「……なりませぬ…………おやめください…まし……」
 口では拒みながらも、甘い吐息が漏れるのを江はこらえられない。
 互いが荒い息になっているのを感じる。自分が潤うのがわかる。倒されても抗う力が入らない。
 江の吐息までもが秀忠を求めていた。
 秀忠も妻を求めて、あっという間に身体中の血がたぎっている。「江、江……」とうわごとのように妻の名を呼び、貪るように江の体の隅々まで執拗に探っていった。
 これほどまでにお互いを求め合うことが、かってあっただろうか……。
 生絹すずしの薄い夜着は隔てにもならず、その上から触れられてさえ、江は女であることを思い知らされる。
 気が遠くなるような懐かしい痺れに、(子ができても構わぬ…このまま……)と江は秀忠を絡め取った。夫の唇を求め、波打つ快感に江は身をまかせる。
 (命なぞ惜しゅうない)。
 絶え間なく生まれ始めた悦びに身をよじったとき、江の背中がなにかを踏んだ。
「つっ。」
 野暮なものを投げ捨てようと、江は痛みに手を伸ばす。手に触れたのは、国松の宝貝であった。
 『ははうえ? いたいいたいですか?』
 国松の悲しそうな顔が浮かぶ。そして、その顔が松姫を生んで最初に見た、秀忠の辛そうな顔と重なった。
 『江、ごうっ』。そう涙した夫の顔と。
 子どもたちの不安げな瞳と。民部卿の涙と。
 江は、我に返った。

「おっ、おやめくださいましっ!」
 覆いかぶさっていた秀忠を、江は渾身の力で突き飛ばす。
 弾き飛ばされた秀忠は、一瞬なにが起こったかわからず、呆然とした。
「あっ、あっ、おっ、お許しくださりませっ!!」
 江は跳ね起きて、これ以上ないほど頭を床に擦りつけた。その妻の様子に、秀忠はやっと我に返る。
「…いや…よい……。よう止めてくれた。」
 目を見開いていた秀忠だが、どこか焦点の合わない声で、静かに礼を言った。
「……あなたさま……」
 あまりの愛しさとあまりの申し訳なさに、江は手をついたまま、そう言うしかなかった。
「……よう、止めてくれた。」
 秀忠も目を伏せながら頷き、自分に言いきかせるように、そう繰り返すしかなかった。
 江はうつむき、ゆっくりと首を振る。
 夫を求めて火照ほてる体を自分で抱き締めながら、いたたまれずになにか言おうとするが、なにも言葉にはならなかった。

「すまぬ。今宵はあちらで休む。」
「……はい……」
 げっそりとした夫の声に、江はすでにうなづくしかない。
 秀忠が立ち上がり、出ていこうとする。その後ろ姿を江は涙を溜めて見送っている。
 寝所を出ようとするときに秀忠は立ち止まった。妻が泣いているのがわかる。泣き声も、息さえ聞こえないが、江の哀しさがヒシヒシと伝わる。 
 抱き締めてやりたい。
 けれど後ろを振り向けば、江の元に戻れば、己が止まらぬことも判っている。
 秀忠はグッとこぶしを握った。
「…すまぬ…」
 秀忠は背を向けて立ち止まったまま、江を見ずにポツリと謝った。
 江は奥歯を噛みしめ、涙をこらえて大きく首を振る。江も、夫の心が自分と同じように血を流しているのを察していた。
 (まだ泣いてはならぬ。)

 夫の足音が次第に遠ざかり、聞こえなくなったとき、江は泣いた。嗚咽おえつの溢れるままに泣いた。
 自分が女であることに、誰よりも大切な夫を傷つけたことに……。
 秀忠の布団を体に巻き付け、江は崩れるように泣き続けた。
 
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