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第一部

第六章 若波さざめく 其の一

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 翌朝、蝉の鳴き声にまとわりつかれながら、民部卿が風呂敷包みを携えて大姥局の元へと向かった。
 大きく開け放たれたふすまで立ち止まらず、民部卿はまっすぐ大姥局の前に進みながら声をかける。
「お暑うございます、大姥さま。朝早うから失礼いたします。」
「これは民部殿。ほんにお暑うございます。蝉どもの賑やかなこと。」
 ゲンナリした顔を作り、大姥局は「ホホホ」と笑った。
「なんぞ御用でも?」
「はい。まずはこちらを。」
 立ち止まった途端に汗が噴き出し、手巾しゅきんを使っていた民部卿が、落ち着いて座り直し、風呂敷包みを差し出す。
「この暑さ、大姥さまがこたえていらっしゃるのではと御台様が。届いたばかりの麻の一重ひとえ帷子かたびらと、生絹すずし襦袢じゅばんにございまする。」
「もったいない。 これ、このとおり、私は達者だとお伝えください。」
 大姥局は腕を曲げ伸ばし、おどけてみせた。確かにこの暑さの中、背筋をピンと伸ばし、涼しげに座る大姥局は、誰よりも元気そうである。
「ホホ、ほんに。そうお伝えいたしましょう。」
 思わず笑った民部卿が二つ目の要件を続けた。
「それから、本日夕にお子さま方や小姓こしょうたちと内海うちうみに行くのでございますが、大姥さまもいかがかとお誘いに。」
「海…ですか?」
 民部卿は生真面目な顔で、昨日の竹千代の騒動を話した。
「なるほど。」
「お体に障りませなんだら、大姥さまにお出ましいただければ心強いのですが。」
 口を結んで、上目遣いに民部卿はお願いをする。
 大姥局はほんのいっとき思案したが、ゆっくりと口を開いた。
「わかりました。まいりましょう。」
 大姥局は薄く微笑みながら、キリッと口許を引き締めた。


 傾いた陽が、穏やかな海に宝石をばらまいたようなきらめきを与えている。帆を上げた打瀬船うちせぶねが、その上をゆっくりと滑るように動いていた。
 子どもたちが浜辺に駆け出し、羽を休めていたコアジサシが一斉に飛び立つ。
 潮風がさわさわと心地よく吹く浜辺で、江はゴザの上に腰を降ろし、子どもたちが遊ぶのを見ていた。
 隣には、竹籠に入った松姫がスヤスヤと眠っている。
 子どもたちは波打ち際で貝を探したり、水をかけあって賑やかにたわれていた。
 年長の男子おのこごふんどし一つになり、国松ほどの幼い子は腹かけ一枚である。勝姫たち女の子めのこも着物の裾を大きくまくり上げてはしゃいでいた。
 そんな中、きちんと下着姿の子どもが一人、竹千代であった。
 
 竹千代は江がなだめすかしても、がんとして、それ以上は着物を脱がなかった。
 竹千代にすれば、父とは違うぽちゃぽちゃした体は、母に嫌われると思ったのである。母がとても深く父を愛しているのを、幼いながらも竹千代はよく知っていた。
 しかし、そのような息子の思いも、江に通じなかった。
 (なにゆえこれほどに私に逆らうのじゃろう。福のせいか……?)
 江は溜め息をついて、子どもたちの輪からいつの間にか外れる竹千代を見つめた。
 そんな母の元に、勝姫と国松は代わる代わる「カニを見つけた。」と報告に来、「ヤドカリがいる。」と言っては母の手を引っぱった。そうかと思うと、大きな貝を探して小姓たちと競い合っている。
 竹千代だけがなにかを探しながら一人で外れていく。その近くで三十郎が一人で遊ぶふりをしつつ、なにかに没頭する若君にしっかり目を配っていた。
 (賢い傅役もりやくじゃ、三十郎は。まだ十余とおあまりのはず……)
 年長とはいえ、まだ幼さの残る三十郎が、竹千代あるじの邪魔をせず、自らの遊びにも夢中にならず、なにかのときにはすぐに構えられる距離を心得ているのに、江は感心し、自然と笑みがこぼれた。
 (私が幼い頃は、姉上がたがいつも構ってくださった……。)
 江の鼻の奥がツンと痛む。
 (母上もお元気だったあの頃、何も知らないあの頃に時が戻ればよいのに……)
 願っても、せんないことが江の心に浮かぶ。
 隣で赤子の「ホニャ…」という泣き声がした。
「おお、松、起きたか?」
 江は末娘を抱き上げ、愛しそうに頬ずりした。


 辺りには少しずつ、潮の香り以外のよい香りが拡がっている。
 大姥局おおばのつぼねが音頭を取り、漁師から買い上げたばかりの魚を外れたところで焼いていた。
  今でこそ江戸城の奥にいるが、戦乱の世を渡り歩いて、家事を取り仕切ってきた大姥局である。火起こしも魚焼きも手慣れた様子で、わずかな侍女たちと進めていった。中でも見事な手際を見せたのが、母に変わって家事を行っていた静である。
「静、見事であるの。」
 結構な数の魚をものともせず、きれいに焼けるように次々と場所を変える静に、大姥局が「ホホ」と笑う。
「私の出番がありませぬ。」
 ひょうきん者の浅茅あさじが、大仰に口をとがらせてねる真似をした。
「申し訳ございませぬ。」
 ハッと顔を上げた静が、口をおおった手ぬぐいを取って詫びる。
「静、浅茅の戯れ言ざれごとじゃ。気にするな。」
 大柄な藤が、カラカラと笑った。
 (良い気養いになったようじゃ。)
 いつにも増してにこやかに立ち働く静に、大姥局の皺だった頬も自然に緩んだ。
「そろそろよいな。藤と浅茅は焼き上がったものをみなさまの元へ運んでくれ。ここは静にまかせておけばよかろう。……静、頼んだぞ。」
 主人の命に、侍女三人が揃って頭を下げた。
「では、私は先にまいる。」
 ぐっと腰を伸ばしてきびすを返した大姥局の目が、竹千代の姿を瞬時に捉える。
 (お一人でこんな外れに?)
 火の熱さと煙を考慮して、魚を焼く場は江たちのいる場所から離れている。
 慌てた大姥局だが、竹千代の少し後ろにいる三十郎を見つけてホッとした。

 大姥局は竹千代にそっと近づき、邪魔をしないように傍にしゃがみ込む。
「よいものが見つかりましたか?」
 優しくのんびりした大姥局の声に、竹千代がゆっくり顔を上げる。
ばばはぐれてしもうたので、お母上さまのところへ連れて行ってくれませぬか?」
 きょとんとした竹千代に、大姥局はにっこり微笑む。
竹千代わか様は私がみております。」
 どこから飛んできたのか、いつの間にか横に立った福が、竹千代を抱えて立たせようとしていた。
「控えよ、福。御台様がおられるのに、お側へお連れせずとてなんとする。」
 大姥局は低く小さい声で、しかし、ピシリと福を叱る。そして、打って変わって優しい声で、再び竹千代を促した。
「若様、まいりましょう。」
 老乳母を見つめていた竹千代が、もじっとうつむき、小さく呟いた。
「……国がおる……」
「いつもこうおっしゃるのです。国松にのわか様ばかり可愛がられるゆえ、若様は御台様のお近くへ寄りたくないのです。」
 福が勝ち誇った笑みでここぞとばかり勢い込み、一の若君を抱き締めてかばった。
 しかし、竹千代のつぶやきを聞いた瞬間、大姥局は秀忠の幼い頃を思い出していた。
 『……福がおる……』。
 淋しげに呟いた長丸様を。そう言って、弟の福松ぎみのために大好きな母の元へ行くのを辛抱していた幼い秀忠わかぎみを。
 (竹千代わか様も御台様をお慕いしておるじゃろうに……)

竹千代わか様、お疲れでしょう? お城へ戻りましょう。」
 大姥局の感慨を打ち破る声を立て、福は竹千代の手を引こうとした。
「もぅし、お勝手はなさいまするなぁ。」
 福の前に、いかつい躰躯からだの内藤政吉が立ち塞がる。
「若様、握り飯も喰わずに帰られては損をいたしまするぞぉ。さぁ、参りましょう。」
 政吉は竹千代の返事も聞かず、若君をひょいと肩車すると大股で歩き出した。
 福が慌てて後を追う。三十郎もを合わせて政吉の近くに付いた。
 
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