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第一部
第五章 蝉時雨ざわめく 其の二
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黄昏時に部屋子たちが打ち水をしたせいか、夜になると木々の間を時おり涼しい風が渡る。
秀忠は首をぐるぐると回しながら、寝所に入ってきた。
このところ政務が忙しく、江との夕餉も一緒にとれない。将軍はぐったりと疲れた顔をする日が続いていた。
早々に横になろうとした夫に、江が声をかける。
「どこぞ、お揉みいたしましょうや?」
「ああ……、いや、よいぞ。」
だるそうな声で秀忠が断る。江は黙って秀忠に薄布団をかけようとした。
「いや、やはり、肩を揉んでくれるか。」
体を起こし、床の上で秀忠はあぐらをかく。
「はい。」
秀忠の筋肉質の肩に手を置き、江はゆっくりと揉んだ。今の江は、夫の体に触れられるのが幸せである。想いを込めて、江は夫を優しく揉む。
秀忠は気持ちよさげに目をつぶっていた。
「明日、子どもたちを海へ連れて行こうと思うのですが……」
堅くなった筋をぐーっとゆっくり押さえながら、江は夫に切り出した。
「ん? いかがした? 急に。」
秀忠が、虚ろな声で尋ねる。
江は竹千代の食が細くなっていることや、今日の出来事を報告した。
「さようか。」
「あなた様もいかがでございますか?」
「行きたいがのう……しばらくは遅うなろう。」
「なにか御懸念でも……」
江が豊臣のことを思い、愁眉を寄せる。
「……伊達殿がな……」
身構えていた江に、秀忠は意外な人物の名を告げた。
「伊達さまが?」
「……南蛮貿易を始めようとしておるようでな……」
「南蛮と?」
江はマント姿の麗々しい伯父、信長を思い出す。
「……そうじゃ……」
「よいことではありませぬか。」
ホッとした江が、首筋を揉みながら明るい声を出した。
「……まぁな。親父もそう思ってか、伊達殿の思うようにさせておる。……機嫌とりというのもあるがな……」
秀忠は目を瞑ったまま、ぽつぽつと話す。
「ならば、ご案じなされずとも……」
肩の凝りが著しい夫の体を、江は案じた。
「うまくいけば、伊達殿が力を持つということだ。……信長公のように。」
秀忠は目を見開き、ただ低く響く声で言った。
子どもの頃から人質として秀吉の元で育った秀忠である。外国との取引がどれほどの富をもたらすか、家康より肌で解っていた。
「……伊達殿のこと。まだ天下を諦めてはおられぬであろう。」
再び目を閉じ、心地よさに身を委ねながら、秀忠がぽつりと呟く。柔らかい声の不穏な内容に、江はドキリとした。
「そのような……したが、伊達には忠輝殿が……」
秀忠の異母弟である忠輝は、伊達政宗の一の姫を娶っている。
「忠輝のう……」
秀忠は大きく息をした。
「伊達殿ほどの舅であれば、やつほどの器量はうまく踊らされるだけじゃ。己を知らず担ぎ出されて、私を将軍の座から追い落とそうとするやもしれぬ。…………親父もそう思うておろう。」
豊臣との緊張が続く中、弟はなんの役にも立たずに懸念を増やすばかり。秀忠の眉間に皺が寄った。
「そのような……」
江は揉む手がおろそかになりながら、なんとか夫の肩をさすり続ける。
「ふふ、伊達殿は戦上手。戦えば、戦下手の私の命はなかろうな。」
秀忠が他人事のように笑う。
「おやめくださいましっ。そのようなお戯れっ。」
背筋がゾッとした江の揉む手が力んだ。
「いたたっ。」
身をよじった秀忠に、江の力が抜ける。
「申し訳ありませぬ……」
「そうならぬように手を打つ。戦は不得手ゆえな。そのことに囚われておるのじゃ。間もなく山は越えよう。」
秀忠は満足そうに息を吐き、ほのかな笑みを浮かべた。
「もうよいぞ。」
大きなあくびで秀忠は江の手を止める。名残惜しげな肩の上の妻の手を、秀忠はそっと触れた。
秀忠の思いを感じ、江は夫の体からゆっくりと手を離した。
「江、海には政吉を連れて行け。」
「内藤殿を?」
「そうじゃ。利勝も手を離せぬゆえな。山王祭が終わったとはいえ、浮き足だった奴がおるやもしれぬ。気をつけるのだぞ。」
このご時世、まだ何があるかわからぬ。目の前の海であるからこそ気は抜けない。秀忠はそう考えている。
「大事ございませぬ。すぐそこでありますもの。ご案じなさいまするな。」
秀忠を安堵させようと、江は自信たっぷりに応えた。
おおらかな妻の笑顔に、秀忠は逆に不安をかき立てられる。(もう一人、機転の利く……)
「そうじゃ。大姥も暑さがこたえておるようじゃ。よければ大姥も連れて行ってやってくれぬか。」
「はい。」
少し目を見開いた江が、すぐにこやかに微笑む。
「こちらで休むか?」
床に寝転んだ秀忠が、少し体をずらした。江が小さく首を振る。
「暑うございますゆえ、お一人でごゆるりとお休みなされませ。お休みになるまでこうしておりましょう。」
妻は扇を広げ、夫におだやかな風を送った。
「気持ちがよい…のぅ……」
疲れているのだろう、秀忠はあっという間に夢の世界へ落ちる。
江は自分の床を夫の床の隣へぴったりとつけた。
クークーと気持ちよさそうな寝息を立てる秀忠に、江はそっと口づけする。
しばらく夫を見つめていた江も、灯りを吹き消し自分の床に横になった。
今月もきちんと月の障りがやってきた。
『御台様、睦事はお控えくださいませね。もう、心の臓が潰れるような思いはさせないでくださいまし。私にも、上様にも。』
ことあるごとにそう繰り返しては口を曲げ、目頭を押さえる民部卿が扇子に浮かぶ。
『御台様になにかございましたら、私は、上様だけでなく、淀の方様にも顔向けできませぬ。ご自分でご自分のお命を縮めるようなことは、お願いですから今しばらくお慎みくださいませ。』
乳母に口説かれずとも、松姫を産んだあとの体の辛さ、みなの心配そうな目を江は覚えている。
(わかっておる……。解っておるが、秀忠さまをお慰めできぬのが情けない……。)
将軍秀忠が背負っている荷の重さと大きさを思い、自分の女である業を思うと、知らずに一筋の涙が頬を伝った。
『戦ばかりでは民が富まぬ。』
そう言った夫を支えると誓ったではないか。今、こんなにも疲れておられるのに慰められぬのはなぜじゃ。
いや、女として愛しい人と肌を重ねたい。けれどそうなれば、最後まで睦み合いたい。
そして、子を宿したら産みたいと思う。
『そなたは欲深じゃ。』
次姉の初の声がする。
夫を亡くした茶々姉上、我が子に恵まれなった初姉上、私は……。
「強欲じゃな……。」
小さく独りごちて、江は扇子をたたんだ。枕元に置いて目を閉じる。湛えられていた涙が再び頬を伝った。
[第五章 蝉時雨ざわめく 了]
*****
【内藤政吉】この頃は書院番
秀忠は首をぐるぐると回しながら、寝所に入ってきた。
このところ政務が忙しく、江との夕餉も一緒にとれない。将軍はぐったりと疲れた顔をする日が続いていた。
早々に横になろうとした夫に、江が声をかける。
「どこぞ、お揉みいたしましょうや?」
「ああ……、いや、よいぞ。」
だるそうな声で秀忠が断る。江は黙って秀忠に薄布団をかけようとした。
「いや、やはり、肩を揉んでくれるか。」
体を起こし、床の上で秀忠はあぐらをかく。
「はい。」
秀忠の筋肉質の肩に手を置き、江はゆっくりと揉んだ。今の江は、夫の体に触れられるのが幸せである。想いを込めて、江は夫を優しく揉む。
秀忠は気持ちよさげに目をつぶっていた。
「明日、子どもたちを海へ連れて行こうと思うのですが……」
堅くなった筋をぐーっとゆっくり押さえながら、江は夫に切り出した。
「ん? いかがした? 急に。」
秀忠が、虚ろな声で尋ねる。
江は竹千代の食が細くなっていることや、今日の出来事を報告した。
「さようか。」
「あなた様もいかがでございますか?」
「行きたいがのう……しばらくは遅うなろう。」
「なにか御懸念でも……」
江が豊臣のことを思い、愁眉を寄せる。
「……伊達殿がな……」
身構えていた江に、秀忠は意外な人物の名を告げた。
「伊達さまが?」
「……南蛮貿易を始めようとしておるようでな……」
「南蛮と?」
江はマント姿の麗々しい伯父、信長を思い出す。
「……そうじゃ……」
「よいことではありませぬか。」
ホッとした江が、首筋を揉みながら明るい声を出した。
「……まぁな。親父もそう思ってか、伊達殿の思うようにさせておる。……機嫌とりというのもあるがな……」
秀忠は目を瞑ったまま、ぽつぽつと話す。
「ならば、ご案じなされずとも……」
肩の凝りが著しい夫の体を、江は案じた。
「うまくいけば、伊達殿が力を持つということだ。……信長公のように。」
秀忠は目を見開き、ただ低く響く声で言った。
子どもの頃から人質として秀吉の元で育った秀忠である。外国との取引がどれほどの富をもたらすか、家康より肌で解っていた。
「……伊達殿のこと。まだ天下を諦めてはおられぬであろう。」
再び目を閉じ、心地よさに身を委ねながら、秀忠がぽつりと呟く。柔らかい声の不穏な内容に、江はドキリとした。
「そのような……したが、伊達には忠輝殿が……」
秀忠の異母弟である忠輝は、伊達政宗の一の姫を娶っている。
「忠輝のう……」
秀忠は大きく息をした。
「伊達殿ほどの舅であれば、やつほどの器量はうまく踊らされるだけじゃ。己を知らず担ぎ出されて、私を将軍の座から追い落とそうとするやもしれぬ。…………親父もそう思うておろう。」
豊臣との緊張が続く中、弟はなんの役にも立たずに懸念を増やすばかり。秀忠の眉間に皺が寄った。
「そのような……」
江は揉む手がおろそかになりながら、なんとか夫の肩をさすり続ける。
「ふふ、伊達殿は戦上手。戦えば、戦下手の私の命はなかろうな。」
秀忠が他人事のように笑う。
「おやめくださいましっ。そのようなお戯れっ。」
背筋がゾッとした江の揉む手が力んだ。
「いたたっ。」
身をよじった秀忠に、江の力が抜ける。
「申し訳ありませぬ……」
「そうならぬように手を打つ。戦は不得手ゆえな。そのことに囚われておるのじゃ。間もなく山は越えよう。」
秀忠は満足そうに息を吐き、ほのかな笑みを浮かべた。
「もうよいぞ。」
大きなあくびで秀忠は江の手を止める。名残惜しげな肩の上の妻の手を、秀忠はそっと触れた。
秀忠の思いを感じ、江は夫の体からゆっくりと手を離した。
「江、海には政吉を連れて行け。」
「内藤殿を?」
「そうじゃ。利勝も手を離せぬゆえな。山王祭が終わったとはいえ、浮き足だった奴がおるやもしれぬ。気をつけるのだぞ。」
このご時世、まだ何があるかわからぬ。目の前の海であるからこそ気は抜けない。秀忠はそう考えている。
「大事ございませぬ。すぐそこでありますもの。ご案じなさいまするな。」
秀忠を安堵させようと、江は自信たっぷりに応えた。
おおらかな妻の笑顔に、秀忠は逆に不安をかき立てられる。(もう一人、機転の利く……)
「そうじゃ。大姥も暑さがこたえておるようじゃ。よければ大姥も連れて行ってやってくれぬか。」
「はい。」
少し目を見開いた江が、すぐにこやかに微笑む。
「こちらで休むか?」
床に寝転んだ秀忠が、少し体をずらした。江が小さく首を振る。
「暑うございますゆえ、お一人でごゆるりとお休みなされませ。お休みになるまでこうしておりましょう。」
妻は扇を広げ、夫におだやかな風を送った。
「気持ちがよい…のぅ……」
疲れているのだろう、秀忠はあっという間に夢の世界へ落ちる。
江は自分の床を夫の床の隣へぴったりとつけた。
クークーと気持ちよさそうな寝息を立てる秀忠に、江はそっと口づけする。
しばらく夫を見つめていた江も、灯りを吹き消し自分の床に横になった。
今月もきちんと月の障りがやってきた。
『御台様、睦事はお控えくださいませね。もう、心の臓が潰れるような思いはさせないでくださいまし。私にも、上様にも。』
ことあるごとにそう繰り返しては口を曲げ、目頭を押さえる民部卿が扇子に浮かぶ。
『御台様になにかございましたら、私は、上様だけでなく、淀の方様にも顔向けできませぬ。ご自分でご自分のお命を縮めるようなことは、お願いですから今しばらくお慎みくださいませ。』
乳母に口説かれずとも、松姫を産んだあとの体の辛さ、みなの心配そうな目を江は覚えている。
(わかっておる……。解っておるが、秀忠さまをお慰めできぬのが情けない……。)
将軍秀忠が背負っている荷の重さと大きさを思い、自分の女である業を思うと、知らずに一筋の涙が頬を伝った。
『戦ばかりでは民が富まぬ。』
そう言った夫を支えると誓ったではないか。今、こんなにも疲れておられるのに慰められぬのはなぜじゃ。
いや、女として愛しい人と肌を重ねたい。けれどそうなれば、最後まで睦み合いたい。
そして、子を宿したら産みたいと思う。
『そなたは欲深じゃ。』
次姉の初の声がする。
夫を亡くした茶々姉上、我が子に恵まれなった初姉上、私は……。
「強欲じゃな……。」
小さく独りごちて、江は扇子をたたんだ。枕元に置いて目を閉じる。湛えられていた涙が再び頬を伝った。
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