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第一部

第四章 茶の芽、新しく立つ 其の一

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 弥生も終わりを迎えた。この月の内に立夏を迎えた今年は、すでに陽の力がずいぶんと強くなっている。
 明後日の衣替えを待ちわびながら、秀忠主従はまつりごとに精を出していた。
「今年は暑うなりそうじゃ。」
 秀忠は胸元を少し着崩し、じわりと出た汗を扇子でなだめる。
「そのようにござりまするな。したが春先が寒かったところに急に暑うなりましたゆえ、百姓どもは慌てているようにございます。」
 老中の報告に、将軍の顔が一瞬曇った。
「さようであろうな。百姓が米作りに精進できるよう、しかと心配こころくばりしてくれ。」
「はっ。」
「今年は雪が多かったゆえ、水は不足せぬであろうが、雨が心配じゃ。親父がおとなしゅうしているうちに、治水をすすめよ。」
「はっ。」
「それから、今のうちに祭りも整えてやるがよい。うまく息抜きをさせれば、みな仕事に精を出そう。」
 こういうときに利勝は、秀忠の中に大御所家康を見る。
 (この間とは別人じゃ。)
 利勝が感嘆するほど、治世、まつりごとに関する秀忠の能力は秀でていた。高みに立ち、広く先まで読み取る力と下々の細々したことに気づく力を持っていた。ことに、下々を思いやって差配する力は、家康を抜きん出るほどだと本多正信ほんだ まさのぶが語っていたのを利勝は思い出す。
 だからこそ家康は秀忠を後継者にしたのだろう。古来より、武家政権の二代目がいかに重要か、家康は充分に承知していたのである。
 (大御所様が実権ちからっているというても、上様が打てば思う以上に大きく響いて動くからこそ成り立つのじゃ。それを一番よう解っておられるのは、大御所様じゃろう。)
 利勝は改めて、家康の懐の深さというか、器の大きさ、いや、狸ぶりに思いをはせる。
 (そして、一番解っておられぬのが……)
 利勝は、汗を拭きながら書状に目を通している秀忠を横目で見た。
 (上様だろうの。)
 利勝の顔に、親しみを込めた苦笑いが浮かぶ。
 (戦術が不得手だし、戦も好まぬゆえ、『何事もなく……』と思うておられるじゃろうが、そうはいくまい。)
 徳川と豊臣を思い、利勝の広い眉間にも少し皺が寄った。

 開け放たれたふすまから足音が聞こえる。年若い家臣が廊下に座り、一礼をしたまま報告する。
「上様、宇治より一番茶が届きましてございます。」
「そうか。ご苦労。」
 秀忠は書状からちらりと目を上げ、すぐにまた目を落とした。
「それから……」
 顔を上げた若侍は、主君との距離を見て口ごもった。
「なんじゃ? いかがした。」
 利勝が近づいて声をかける。若い家臣は頭を下げ、文を取り出して低い声で伝えた。
「大坂よりの使いが参り、豊臣秀頼様にお子が生まれたとのことにございます。」
「秀頼様に? お子?」
 利勝が文を受け取りながら思わず繰り返した。
 同時に秀忠も、引き締めた顔で書状から目を上げる。
「どちらじゃ。」
「若君とのことにございます。」
 若侍の丁寧な答えに、秀忠と利勝は思わず顔を見合わせた。秀忠は口を真一文字に結び、目を見開いている。
「ご苦労であった下がってよい。」
「はっ、では。」
 利勝の重々しい言葉に家臣はツイと立ち上がり、廊下を戻っていった。
「厄介なことになったな……」
 文を開き、すっと目を通した秀忠が、頭を掻きながら呟く。利勝は固い表情で、ただゆっくりと頷いた。
 木の芽をそよがせた風が、二人の間を通っていった。

◇◆

 城奥しろおくでは、明後日の衣替えを控え、大忙しである。
 片付ける綿わた入れやあわせ、出すひとえ。色とりどりのさまざまな衣が所狭しと各部屋の中に立てられ、風を当てられている。
 江はすべての乳母たちに指示を出し、さらには乳母からの衣の状態などの報告を受け、しまうもの、仕立て直すもの、下げ渡すものなどの指示をまた出していた。
 民部卿も福も、各々が仕えるところの差配に忙しい。
 大姥局も例にたがわず口だけは忙しかった。年を重ね、さすがにテキパキとは動けなくなっていたが、見事な差配を見せている。
 民部卿が御台所のめいで覗きに来たが、その助けは必要なかった。
 静が大姥局の元で、くるくるとよく立ち働いている。年配の侍女たちができない難儀な仕事を、にこにこと片付けていく。
 侍女たちの様子から、静が周りに好かれているのが、よく伝わってきた。


 大姥局は立ち働く静を見ながら、月初めの花見の前日を思い出していた。
 秀忠が去ったあと、侍女たちにご一家の花見の用意を言いつけた。侍女たちは、裏でお相伴にあずかれると小さく沸き立ち、華やいだ。
 その夜、大姥局は休む前に静を呼び寄せたのである。
「静、そなたは明日、奥で留守居をしておれ。分かるな。」
 大姥局はゆっくりと言い含めるように命じた。静は瞬時にその言葉の意味を理解し、ほんのりと顔を赤らめ、うつむいて返事をする。
「はい。」
 なんら疑わず、素直で聞き分けのよい部屋子に、大姥局は情け心が揺らいだ。
「静……」
「はい。」
「そなたはまた上様のお情けをいただくことがあるやもしれぬ。しかし、お側にははべれぬ。それだけは申しておく。それが辛ければ宿下がりをしてもよいし、私の傍での宿直とのいを止めてもよい。」
 静がやってきて間もなくから、大姥局は静に宿直をさせていた。年老いた主人に何かあったときには若い者の方がよいと、元からの侍女たちもホッと安堵したのである。
 建前はそうであったが、大姥局の思惑はもちろん他のところにあった。それでも大姥局の女としての心が少し疼いたのである。

 静は下を向いたまま、細く小さな目をしばたたかせ、なにか言葉を探してモジモジとしていた。
「…………。…………旦那様……」
 何度か唇を噛んだあと、静がやっと言葉を発する。
 大姥局が、いつもよりゆっくり優しく尋ねた。
「なんじゃ? 遠慮のう言うてみよ」
 静はなにかを口に出そうとして口に出せず、顔が赤く染まっていった。
 大姥局は黙って静を見つめている。
 一度大きく息を吸い、ぐっと口を結んだ静が、「……あの……」と大姥局を見上げた。
 そして再びうつむき、蚊の鳴くような声で
「……嬉しかったのです……」
 と続けた。
「……嬉しかった?」
 大姥局は聞き間違いをしたのではないかと、首を傾げて確認する。
 静はゆっくりと、しかし今度ははっきりと話した。
「…はい。私はこのような器量ゆえ、今まで殿方から求められることはありませんでした。祭りの無礼講のときにも、私はいつも片付けをしておりました。幼なじみが嫁ぎ、器量よしの妹が嫁いでも、私には縁がないまま。このような年になり、もう殿方とのご縁などないと思い込んでおりました。」
 頬を紅潮させ、ややもすると泣き出しそうな顔で静が語るのを、大姥局は黙って聴いていた。
「それゆえ、旦那様より『お情けがかかるやもしれぬ』とお言葉をいただいておりましたのに、どこかで『私なぞ……』と魂も入らず聞き流してしまいました。」
 静が言葉を切り、手をついて頭を下げる。
「……なので、驚き、怖くて、上様というのを忘れ、あらがってしまいました。」
「なんと……」
 大姥局は(そのような……)と目を見開いた。しかし、静が顔を上げて唇を何度も噛み、まだなにか伝えようとするのに目を遣り、言葉を飲み込む。
「でも……」
 やっと口を開いた静が、また躊躇ためらうように口を閉じた。そしてまた頬を染め、なんとか口を開く。
「…その一方で、私を求めてくださる殿方がいるという喜びもどこかにございました。」
 静はやっと言えたとばかりに小さく息を吐き、にこっと笑った。
「……よいのじゃな?」
「はい……。私でお役にたちますならば。」
 恥ずかしげに小さな声ではあったが、静ははっきりと言い、大姥局の目を見た。
「静……、礼を申しますぞ。そなたの身は、この私が責を負うほどに。」
 申し訳なさに大姥局の声が一瞬震える。老女はゆっくりと何度も頷き、静のぽちゃぽちゃした手を取った。
「もったいのうございます。私のようなものに……」
 ほのかな灯りのもと、静の遠慮がちの微笑みに、小さなえくぼが浮かぶ。
「そのように言わずともよい。そなたの素直さ、明るさはなによりの宝じゃ。宝じゃぞ。明日はゆっくり手習いなどして過ごすがよい。」
 大姥局は愛しそうに笑って静の手を撫でた。

 それ以来、大姥局は静の身辺を整え、より多くのことを学ばせた。手習いや生け花など、奥女中として、いや、上様のお相手として恥ずかしくないように教育していった。なにかあっても、それがいつか生きていく術に繋がるように。それが大姥局のせめてもの罪滅ぼしであった。
 静は静で、今まで出来なかったこと、初めてのことが次々出来るのが楽しかった。元々が素直なたちなので上達も早い。
 (あれから上様のお手つきはないようじゃが……。……まぁ、それもよかろう。)
 楽しげに働く静の姿に、大姥局は目を細めて微笑んだ。

 
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