夏の抑揚

木緒竜胆

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第一話:訊ねるは夕陽、出逢うは朝日

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 みんみんと鳴く蝉時雨とグサグサと全身に突き刺さる真夏の日差しを受けながら俺は歩く。
 たんたんと小気味の良いリズムを刻みながら向かう先は、クラスメイトの家だ。
 さて、何故クラスメイトの家に向かっているかと言うと、それは約1時間前に遡る。

 高校の終業式が終わり、夏季休暇、所謂夏休みが始まった時だった。俺が帰り支度をしていると、担任の蓮樹先生が話しかけてきた。
「やあ、夕陽。放課後暇かな?」
 俺は蓮樹先生がニコニコと屈託ない笑顔を作っているのが気になり、会釈だけして逃げようとした。しかしそんな俺を逃さないように、蓮樹先生は手首をガッチリと掴んできた。
 女性とは思えないほどの握力に、思わず声が漏れてしまう。もちろん痛みゆえだ。快楽などではない。
「いやあ? 俺は今日早く帰りたいなと思っていて……」
 俺は目を逸らし、手首を掴む蓮樹先生の手から逃れるためにぶんぶんと腕を振り回す。すると先生はニヤリと口角を吊り上げ、パッと手を離した。
「そうかそうか、暇なんだな。そんな君にはこれを渡そう」
 そう言って、蓮樹先生はA4サイズの封筒を手渡してきた。
「何ですか?これ」
 俺が訊ねると蓮樹先生はふいと目を逸らし、もごもごと話し始めた。
「ほら、このクラスに5月頃から登校してなかった朝日コモリっているだろう? 彼女の家に一番近いのが夕陽なんだよ。届けてあげてくれ」
「朝日さんって黒髪で眼鏡の大人しそうな子でしたよね? いや、俺朝日さんの家知らないんですけど」
「そうか。では地図を上げよう」
 蓮樹先生はメモ帳取り出し、一枚切り離すと、俺に手渡してきた。よく見ると住所や簡単な地図が書かれており、事前に準備されていたことがわかる。
「端から俺に頼むつもりでしたね? というか、教師が生徒の個人情報を漏らすようなことをしていいんですか?」
 俺が問い詰めると、蓮樹先生はぷいとそっぽを向く。
「だって遠いんだもん。あと田舎だし、個人情報の扱いはこんなもんだもん」
「いや、俺も結構遠いですよ!? この真夏、炎天下に30分も余計に歩くのはキツですって」
 俺が不満を口すると、蓮樹先生は口を尖らせ、目に涙を浮かべた。
「だって! だって! 夕陽以外みんな遠いんだもーん!」
 蓮樹先生は教室内でそう叫ぶと、泣きながら教室から出て行った。

 さて、そんなこんなで学校を出てから1時間。俺は朝日さんの家へと到着した。
 田舎には珍しい、大きめのアパート。4階に上がり、左側4番目の部屋。404号室。それが朝日さんの家だ。
 しかし、いざ女の子の家を目の前にすると緊張してくる。やましいことなんてないし、下心もない。ないのだが、普段女子と関わる機会がないせいだろうか。それとも朝日さんと話したことがないせいだろうか。チャイムを押して朝日さんが出てくるのを想像すると、緊張で上手く話せる自信がない。
 とは言っても、親御さんが出てくるとそれはそれで緊張する。思春期男子としては「彼氏と間違われたらどうしようー!」とか思っちゃうのである。
 自意識過剰は思春期男子の特権だから、しばらくは大切にしたいと思う。
 そんなくだらないことを考えながら、俺は深呼吸を繰り返す。
 すーはーと何度目かわからない深呼吸を終えたところで、俺は意を決してチャイムを押す。
 ピンポンと若干の不快感を覚える音が辺りに鳴り響く。俺は耳を澄ますが部屋の中からは物音がしない。
 もしかして留守だろうか。そんなことを思った瞬間、一つの考えが思い浮かぶ。
「いや、ドアポストに入れればいいじゃん!」
 無駄な緊張をしてしまったことをやるせなく思い、俺はため息を吐く。しかしどれだけ後悔しても、神様に願ったとしても、過去に戻ることはできない。だから今やるべきことはため息を吐くことではないのだ。
 というわけで、俺はガタゴトと音を鳴らしながら、封筒をドアポストに入れていく。
 すると背後から「おい、そこの君」と声をかけられた。
 いきなり背後から声をかけられ、俺はビクッとする。
 瞬時、脳内に「犯罪者と思われたのかな?」とか「警察かな? 不審者じゃないですよ」とか色々と言いたいことが駆け巡る。脳内ぐるぐるである。
 そんな中、俺はおずおずと振り向いた。
 そこにいたのは一人の少女。半袖のパーカーとジャージのショートパンツからはラフさを感じるが、対照的に衣服から姿を覗かせている華奢で白みがかった四肢からは病的な儚さを感じる。
 最も目を引くのは少女の髪だ。少女という年齢からは考えられないほどに白く染まった髪は、少女の整った顔を包み隠すように風に吹かれている。
 俺が彼女を見て最初に感じたのは「本当に少女なのか? 彼女は人間なのか」という疑問だった。
 彼女の外見はまさしく少女なのだが、完全なる純白に染まった髪が少女が一定の年齢を重ねた女性であることを示している。年齢不詳のコントラストを奏でている少女の外見は、俺の思考にこの世ならざる者という存在をチラつかせる。
 そう、彼女を例える言葉を一つ挙げるとしたらこれだ。幻想的。
 そんな彼女に、俺は見惚れていたのだ。
 少女は見惚れる俺をよそに口を開く。
「君、そこ邪魔だ」
「……あ」
 俺は上手く声を出せず、動こうにも体が思うように動かない。
 そんな俺の態度が気に障ったのか、少女は俺を睨みつけ、声を荒げた。
「邪魔!」
 少女は俺をぐいぐいと部屋の前から押しのけると鍵を開け、ドアを開けた。そしてドアを開けっぱなしのまま部屋に入っていった。
 俺が1分程度放心していると少女が部屋から出てきて、バタンとドアを閉めた。
「ごめんね、急いでたから」
「あ……えっと……なんかあったの?」
 やっとの思いで絞り出した言葉は掠れていて、裏返っていた。まあ、つまるところ、恥ずかしいと思うような声が出た。
 しかし少女は特に気にする様子もなく、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「そこのコンビニに箱アイスを買いに行ってたから……溶けちゃったら不味くなるだろう?」
「そっか。田舎にしては珍しく、コンビニが近いもんね」
「ああ、コンビニのためにここに住むことにしたからな」
「そっか」
「それで?」
 少女はこてと小首を傾げると、じいと俺の瞳を見つめてきた。
 異性と目を合わせるのは思春期男子的には恥ずかしくて、俺を目線を外す。
「あ、えーと。404号室の朝日コモリさんに届け物があって……えーと、ご家族の方かな?」
 俺が訊ねると、少女はぱちぱちと瞬きし、しげしげと俺の顔を見てくる。そして眉間に皺を寄せると、首を傾けた。
「同級生?」
「あ、えーと……同じクラスの夕陽旅路です」
「夕陽くん? あー、なんか見たことあるような気も……する? ごめん、しばらく学校行ってなかったからクラスメイトの顔がね」
 少女はまるで自分が俺のクラスメイトであるかのような口ぶりで、うんうんと唸っている。
「えーと、朝日コモリさんのお姉さんですか?」
「ん? 君は何言ってるんだ? 私が朝日コモリだぞ?」
 少女は自分が朝日コモリであると、あっけらかんと言い放った。
「え? 朝日さん? え? だって朝日さんって眼鏡をかけてて、黒髪で……え?」
 俺は記憶にある朝日さんと今目の前にいる人物が同一人物であるという事実を受け入れられず、ひどく狼狽えた。
 どうしても眼鏡をかけていた朝日さんと、今目の前にいる眼鏡をかけていない人間が。いや、それよりも、綺麗な黒髪をしていた朝日さんと、今目の前にいる人間がどうしても繋がらない。
 俺が少女の顔と髪を交互に見ていると、俺が何を言わんとしているのか気づいたのか、少女はぽんと手を打った。
「登校時の朝日コモリ。あれは伊達メガネだ。元々内向的で社会性がない人間だったからな。キャラ付けも兼ねて、眼鏡をかけていたんだ」
「なるほど」
 少女が朝日コモリが伊達メガネをかけていたことを伝えると、俺の視線は髪の方へと移る。すると少女はため息をついた。
「こっちの方は知らないなあ。医者曰く、ストレス性だそうだが。まあ、どうでもいいことか」
 少女は再びため息をつくと、苦笑しながら肩をすくめた。
 苦笑の陰には落ち込みが見て取れて、彼女が嘘を言っていない、彼女が朝日コモリであることを言葉よりも雄弁に語っている。
「ごめん。センシティブなことだったね。申し訳ない」
 俺は話しづらいことを話させてしまったことを申し訳なく思い、謝罪した。
 しかし朝日さんはぱあと表情を明るくすると、けたけたと笑い始めた。
「センシティブ!? セクハラかい!?」
「いや、そういう意味では」
「冗談さ。しかし君は何も質問してないから悪くないのに、謝罪するなんてねえ」
「目は口ほどに物を言うから。多分、俺の目が雄弁に語ってたんでしょ?」
「沈黙は金、雄弁は銀。まあ君が銀とは言っていないけど」
 朝日さんは笑いすぎて浮かんだ涙を拭うと、ほうと息を吐いた。
 一瞬、俺が気にしすぎないように、朝日さんは明るく振る舞ったのかなという考えが頭に浮かんだ。しかし同時に、これが彼女の素なのかもしれないとも思った。
 微かに俺の記憶にあった朝日さんは、教室の端でいつも独りだった。だから内向的な人間だと思っているし、そもそも彼女は自分のことを内向的な人間だと評した。
 しかし彼女の屈託のない笑顔を見ていると、やはり彼女は明るい人間なのかもしれないとも感じる。
 だがそんな俺の考えをかき消すように、朝日さんは深く、暗いため息をついた。そしてドアポストから封筒を取り出すと、ぎいとドアを開けた。
「夕陽くん、ちょっと中で休んでいく?」
 生温い風が朝日さんの白髪を揺らす。髪で顔が隠れ、表情はよく見えないが、決して声色は明るくない。
「あ、えっと……大丈夫だよ?」
 俺はどこか陰が射したようにも感じる雰囲気を感じ、断ろうとする。若干、というか、かなりの気恥ずかしさもあった。女の子の家に入るのは緊張する。
 しかし概ねは、朝日さんが纏う雰囲気に陰が射したように感じたからだ。
 故に一人にした方が良いだろうと思ったのだが、朝日さんはこいこいと手招きをしてくる。
 結局、俺は断ることができず、404号室、朝日さんの家へと足を踏み入れた。
 玄関で、部屋の奥へと進んでいく朝日さんをジッと見つめる。
 背筋こそ伸びていて、綺麗な歩き方だ。だが、朝日さんの背中はどこか元気がないようにも見えた。
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