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結
第三十二話 忘れえぬ日々 ⅩⅩ
しおりを挟む実技試験、初日。
オーリィードは真っ暗闇の中で目を覚ました。
正確には、騎士宿舎の女性棟二階、カーテンを閉め切った寝室。
ベッドの上で羽毛を詰めた枕に頭部を乗せ、布団の中で仰向けになって、柄も色彩も面白みも無い、真四角で無機質な天井の一部を見上げていた。
目蓋を二・三回開閉させた後、手足の指を軽く動かして血行を促進させ、身体の感覚を認識したところで、のっそりと起き上がる。
ふかふかの掛け布団を足元できっちり半分に折りたたみ、ヘッドボードの右手側にあるサイドテーブルの燭台に明かりを灯し、その隣の時計で現在の時刻を確認。
短針はⅠとⅡの間を、長針はⅩを指していた。
やや早めだが、大体いつも通りの時間だと満足げに頷き、膝を下ろして、床に揃えておいた編み上げタイプの黒いロングブーツを履く。
就寝前に着ていた、傷みが目立つ黒茶色のズボンの上から紐を固く結び。
ベッドから腰を上げ、靴先や踵で床を叩いて履き心地を調整。
サイドテーブルの横に立ち、木製のクローゼットを開いた。
標準体型の成人女性が二人、向かい合わせになってやっと入れる大きさのクローゼットには、側板や天板の表面と同じ飴色の扉が、一枚しかない。
しかも、この扉は右開きで、開くとサイドテーブルを隠す格好になる為、せっかくの灯りも、クローゼットの内部にはあまり届いてくれない。
室内に自然光を呼び込む二つの小窓も、ベッドを挟んだ向こう側。
緊急時の動線を確保しつつ、不定期で行う持ち物検査を円滑に進める為、騎士宿舎全体で右利き専用に定めた配置、とのことだが。
やはり夜間は不便だと、目を凝らして衣服を漁る。
いつも着ている警護任務用の制服や、式典など特殊な場面で着る儀礼服を端に寄せ、分厚くガサガサした手触りの布であえて動きにくく縫製された、ズボンと同色でセットになっている上衣を取り出した。
王城勤めの騎士へ昇格した時に支給された訓練用の上下服は、同じ時期に昇格した他の誰の物よりも傷みが激しい。
身体の線を露出させる肘や膝の部分はもちろん、編み上げブーツのように紐で閉じる前身頃や、ふっくらした二の腕と太股の周辺までもが擦り切れて破れかけ、脇や後ろ身頃も、日焼けや摩擦で赤茶色に変わってきている。
それは、オーリィードがどれだけ自主練に励んできたかを示す傷み。
規定違反と解っていて深夜や早朝に宿舎を抜け出し、一人で重ねた傷だ。
感慨深く思いながら上衣の紐を弛め、黒いタンクトップの上に着る。
睡眠中に乱れた髪も、クローゼットの扉の内側に付いた鏡を覗いて整え、身支度はなんとか無事に終わらせた。
巡回と警備の視線を掻い潜り、支給品のカンテラを持って向かったのは、騎士宿舎の敷地を北へ数分降った先。
林の中に大きく開いた馬場と、並び建つ四棟の巨大な厩舎。
軍馬だけで千を優に超える数が集められた西端の厩舎には、二十四時間丸一日、常時百名以上の厩務員が、交代制で馬の世話に明け暮れている。
馬種を問わず荒事に対する訓練を施された軍馬はおしなべて気性が荒く、馬房の掃除や食事などを任された彼ら厩務員にも噛みついたり暴れたりする個体は多い。
どうやら今も何人かが手を焼いているようで、時々木桶をひっくり返した物音と短い悲鳴が、林道にまで響いていた。
「毎度毎度、こんな時間に悪いな、お前達。邪魔させてもらうぞ」
天井高く風通し良い厩舎に入り、馬の一頭一頭に声を掛けながら目的の馬房に近付くと、足元の灯りを頼りに床を掃いている男性と目が合った。
「やあ」
作業服姿の男性はパッと見でも判るほど筋骨隆々で、鍛えた男性騎士にも劣らない骨太な印象だが、前歯を見せる笑顔には人の良さが表れている。
オーリィードは軽く上げた右手を振り、彼に笑顔を返した。
「おはようございます、マスキさん」
「おはよう、オーリィードさん。今朝も絶好調だね」
「今日は実技試験があるので、いつもより短時間になります」
「うん、話は聴いてるよ。ルナエラも楽しみにしてるようだ。頑張ってね」
「ありがとうございます。今日は頼むぞ、ルナエラ」
愛称『馬好き』の厩務員マスキ・ポレオールの右斜め前、オーリィードの左手側、馬房の奥から近寄ってきた青毛の馬が、仕切りの外へ頭を出した。
遥か昔に廃れた宗教の名残、創世神話の女神の名を冠した小柄な牝馬は、オーリィードを見て前向きの耳を左右に開き、口をもぐもぐさせている。
「余裕だな。頼もしい限りだ」
微笑んで見えるルナエラにオーリィードも微笑み返し、太い首を撫でた。
「鞍はどうする?」
「いつも通り、裸馬で」
「了解。カンテラは預かるから、外で待っててね」
「お願いします」
頭絡や手綱などを準備したマスキにカンテラを預け、オーリィードは一旦厩舎の外へ出た。
空はまだ黒く、色とりどりの光点がちらちらと瞬いている。
元々耐性があったのか、寒さはあまり感じないが、ほう……と吐いた息は白く散り、気温の低さを目に映す。
「お待たせ。気を付けて行ってらっしゃい」
「はい。行こう、ルナエラ」
少し待ってから、マスキが連れてきたルナエラに跨がり、手綱を握る。
馬の背に直接乗るのは臀部や腰に負担が大きく、本来なら試験前だけでも避けるべきなのだが、気難しいルナエラは鞍などの着用を好まない。
朝はそれが顕著で、一度一揃い装着させてみた結果丸一日ヘソを曲げた、なんてこともあったほどだ。
以降、早朝に限っては、裸馬での走りが基本になっている。
声は出さず、脚でルナエラの腹部を圧迫して発進。
馬場ではなく林道を西へ抜け、王城内の施設を全部囲い込んでいる巨大な円状の水路に架かった木の橋を渡り、水路に沿って整備された道路へ出る。
二頭立ての馬車が余裕ですれ違える幅の道の片隅には外灯やベンチなどが点々と設置され、陽が高い時間帯であれば、水路の反対側にフェンス越しで広大な庭園を望める、良い休憩場所になっていた。
今も、外灯が周囲に光を落としているものの、視界を開くには限定的で、銀色に鈍く光るフェンスの向こうは、星が輝く夜空と大差ない。
「ルナエラ、to-toru」
馬首を北へ向けたオーリィードが小声で指示を出すと、応えたルナエラが少しだけ歩く速度を上げた。
石畳を踏む四つの蹄鉄が、静かな世界で軽やかなリズムを奏でていく。
ルナエラの機嫌と体調を振動で受け止めながら、登り下りをくり返すこと十数分。
手綱を引いたオーリィードの「stia」で立ち止まり、右手側にそびえ立つ真っ黒な崖を、一頭と一人で同時に見上げた。
軍人でも登りたくないであろう岩肌剥き出しの断崖絶壁からは大量の水が流れ落ち、下方に広がるこちらも黒い森林の中に吸い込まれて消えていく。
昼も夜も道路からは見えないが、この崖の上には、王城内でも隔離された高貴な女性達専用の住居がある。
三つ並んだ内の真ん中が、ウェラント王国の王妃が住まう『薔薇の宮』。
東側に位置する愛妾専用の住居が『牡丹の宮』。
西側に位置する王児専用の住居が『蓮の宮』だ。
今代の国王ゼルエスには愛妾が居ない為、牡丹の宮は現在空居。
薔薇の宮にはオーリィードの実母が囚われ、蓮の宮には異父姉が居る。
オーリィードが王妃の連れ子として蓮の宮で生活することはもうないが、サーラの専属騎士へと昇格すれば、あの場所へ入る許しは得られる。
喜びも淋しさも孤独も温もりも、全部詰まっている懐かしいあの場所で、今度は主人と騎士として、サーラと同じ時間を過ごせる。
そして。
いつの日か女王となったサーラが子を生めば、蓮の宮はその子の家だ。
サーラの子供の成長を、サーラと一緒に見守る。
そんな、いつ訪れるとも知れない、約束された幸せな未来。
そこへ辿り着くまでには達成したい、サーラとオーリィードの誓い。
思いを馳せれば、手綱を握る手に力が籠る。
「……サーラ姉様……いいえ、サーラ王女殿下」
ここに来るまで、たくさんの犯罪者を斬ってきた。
両手を赤黒く染めて、動かなくなった人間を見下ろして。
立ちすくんでも、向かい来る敵意と憎悪は容赦なくねじ伏せて。
そうして、時には悪夢を、時には幻覚を見て、泣き叫んだりもした。
極めて利己的でみっともなく、意地汚くて醜悪な理由を免罪符に掲げて、一人きりの部屋で頭や肩や膝を抱えて、情けないほどガタガタと震えて。
自分がしていることに恐怖し、自分を責める幻聴に怯えながら。
それでも、それでもと、歯を食い縛り、拳を握り締めて歩いてきた。
きっと、もう少し。
手が届くまで、あと一歩。
「必ず、貴女の許へ参ります、サーラ王女殿下。私の、唯一の『主人』」
だから、迷いは要らない。
サーラへと続くこの道を、ただただまっすぐに進んでいく。
サーラが居る場所へ、サーラの許へ、必ず帰る。
たとえ誰かを振り払い、何かを踏み台にしてしまったとしても、必ず。
「…………行こうか、ルナエラ」
鼻息を漏らした愛馬の首を撫でてポンポンと叩き、今来た道を引き返す。
いつもなら歩く速度をいろいろ変えてみたり、前進を伴わない速歩などの特殊歩法で戯れてみたりするのだが。
今日は、オーリィードが参加する実技試験の当日。
体力的にも精神的にも、無駄に遊んでいる余裕は無い。
来た時より速度を上げて厩舎へと戻り。
ルナエラをマスキに託し、カンテラを受け取って帰宿。
寝室に忍び込んで午前四時の点呼を待ち、昼勤の騎士達と一緒に宿舎内の掃除を終わらせてから、食堂でごく軽い朝食を取り、宮殿の団長室で隊長の全業務をティアンに預け。
シュバイツァー隊の控え室には立ち寄らず、これから宮殿に出仕する人の波に逆らい、城と水堀を挟んで食堂の反対側に位置する訓練場へ向かう。
移動中に見上げた空は、明るい水色。
陽光を遮る白雲が適度に漂う、絶好の運動日和だ。
実技試験の会場では、既に馬具を装着したルナエラが待機している筈。
暑苦しい重装備で機嫌を損ねてしまう前にもう一度触れ合っておこうと、急ぎ足に速度を上乗せして、坂道を南へ下っていく。
あっという間に着いた訓練場の入口脇で、『実技試験会場』の看板を見たオーリィードは。
「よし! 行くか!」
両手で自分の頬を二回叩き。
意気揚々と、受付に飛び込んだ。
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