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おまけ
聖者の福音 Ⅰ
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断罪の儀が行われてから一ヶ月が過ぎた頃。
ウェラントの王太后・ロゼリーヌが住む薔薇の宮に、国王の衣装を纏ったリブロムが暗い表情で足を踏み入れた。
昼日中でも薄暗い石造りの廊下を、リブロムが左手に持っているカンテラの灯りで照らし、リブロムの靴だけが、コツンコツンと硬い音を鳴らす。
普段よりも低音で鈍く遅い不規則なリズムは、進みたくはないが進むしかない……そんなリブロムの今の心境を如実に表している。
この道の先で自分を待っている『彼女』に対し、どの立場で、どんな態度を執れば良いのか。
断罪の儀の後、ロゼリーヌと一緒に入った迎賓館の休憩室を訪ねてきたフリューゲルヘイゲンの騎士・グリューエル=ハインリヒに改めて事の全容を聞かされてから、約一ヶ月間。ウェラントとベルゼーラを含む大陸南西部の政情安定に奔走しながらも、頭の片隅でずっと考えていた。
けれど、『彼女』がウェラントを去る今日になってもまだ、答えは出せていない。
胸の痞えを払おうとして吐き出した息が、思いがけず大きな音で物寂しい廊下に反響した。
シュバイツァー伯爵家の女性達を長年苦しめ続けた『ウェラントの悪夢』が一応の決着を見せた後も、薔薇の宮にはリブロムが意識を操っている定時通いのメイドしか居ない。
それは宮の現主人であるロゼリーヌが他人との接触を拒んでいるからではなく、ゼルエス王の手で愛する家族と引き裂かれ、後宮に無理矢理封じられて以降は身動きが取れなかった悲劇の王太后という公然の立場を利用して、薔薇の宮の孤立した空間を維持する為だった。
『元々人の出入りが少ない後宮は、現在のウェラント王国に存在してはいけないものを隠す場所として最適です。まして人との関わりを避けている国母の住居ともなれば、他国の王族であっても容易な手出しは不可能。機密保持の面で、これ以上の好環境は無いでしょう』
と、他ならぬロゼリーヌからの提案で隔離状態が続いていた薔薇の宮は、金髪碧眼美少女な有能メイド・ミウルが毎日勝手に手を入れている蓮の宮よりも遥かに静かで人の気配が感じられず、整然と並べられた家具や装飾品を見ても、埃一つ被っていないせいで余計に生活感が欠けている。
「リブロムです。お時間はよろしいか」
「あら、大変。もうこんな時間なのね。ゆっくりしすぎてしまったわ」
「どうぞ、お入りになって」
「……失礼します」
リブロムが軽く二度叩き、住人達の返事を待って開いた扉の向こう側も、通ってきた廊下と変わらない。
使用した痕跡を残していない暖炉や寝台。
新品同然に磨き上げられた鏡台や調度品の数々。
小型のシャンデリアが影を作る室内には、窓の外に望む庭園で揺れている木々や草花の涼やかな音、鳥達のさえずりが当たり前の如く浸透し、人間的な匂いを消し去っていた。
だから、だろうか。
窓際で陽光を浴びて立つ『彼女』の全身真っ白でありえない装いには一瞬思考が停止するほど驚かされたし、二度見、三度見しても、強烈な違和感しか働かない。
「…………何を、なさっておいでなのですか……母上……」
「お掃除を」
「………………掃除、ですか……?」
「ええ」
白い羽根で作られたハタキを持ち、白い膝丈のワンピースに白いエプロンを掛け、白いメイドキャップを頭に乗せたマッケンティアが、首筋で結んだ二等辺三角形の白いマスクをあごの辺りまで下げてリブロムに振り返り、楽しそうに微笑む。
「一ヶ月もお世話になっていたのです。せめて私が使っていた部屋のお掃除はさせていただきたいと思って」
メイドの方々が毎日綺麗にしてくださっていますし、素人の手入れなど全く必要ないのですが、今の私にはこれくらいしかできませんから。
そう言いながら窓枠をパタパタと叩く『彼女』の隣には、黒いベルベットのロングドレスを着用したロゼリーヌが、なんとも言えない微妙な表情を浮かべて佇んでいる。
「…………止めなかったのですか? ロゼリーヌ后」
「…………正直にお答えするならば、『使用人部屋をお借りします』という言葉の意味を理解する前に、状況が進んでいましたわ」
「私がお願いしたのです。ロゼリーヌ王太后陛下に非はありませんよ」
受けた恩には礼を返したい。
そうした気持ちは二人にも解る。
しかし、『マッケンティア・ドルトリージュ・バロックス』は、南大陸でそれなりに力を持っていた国の高位貴族として生まれ育った生粋の令嬢だ。一時的に身を潜める形にはなるが、ベルゼーラ王国の王太后である事実にも変わりはない。
嬉々としてメイドの仕事をこなす王太后など、前代未聞。異例中の異例。
同じく貴族に生まれついたロゼリーヌや、王族としての教育を受けてきたリブロムが呆気に取られるのも無理はなかった。
しかも、だ。
「もう少しで終わりますから、お二方はお掛けになっていてください」
と、笑顔のマッケンティアが左手でソファーを示した直後、右手に持っていたハタキと、壁に立てかけられていた箒が持ち替えられた。足元には、ふちに雑巾を二枚引っ掛けた水入りのバケツ。
部屋の隅から隅へと手際よく掃き、水に浸して絞った雑巾と乾いた雑巾で上から順に拭いていく様子は、彼女が掃除に慣れていることを表している。
さすがに仕上げ用のワックスまでは持ってきていないが、おそらくリブロムとの面会時間までには乾かないと判断したからで、使おうと思えば使えるのではないだろうか。
職業・使用人でも扱いが難しいワックスの使い方を知っている王太后。
違和感の成長は止まらない。
「今日の空はいつもより青く感じますね。上空の風が強いのかしら? 高地にある分、宮殿の庭園のお手入れは一層大変でしょうね」
「「………………」」
鼻歌でも始めそうな充実感溢れる笑顔を窓ガラスに映すマッケンティアの背後。ウェラント国内で最高位に立つ男女は、棒立ちしたまま互いの顔を覗き合い。
彼女の気が済むまでは座って待っていようと、黙って頷き合った。
ウェラントの王太后・ロゼリーヌが住む薔薇の宮に、国王の衣装を纏ったリブロムが暗い表情で足を踏み入れた。
昼日中でも薄暗い石造りの廊下を、リブロムが左手に持っているカンテラの灯りで照らし、リブロムの靴だけが、コツンコツンと硬い音を鳴らす。
普段よりも低音で鈍く遅い不規則なリズムは、進みたくはないが進むしかない……そんなリブロムの今の心境を如実に表している。
この道の先で自分を待っている『彼女』に対し、どの立場で、どんな態度を執れば良いのか。
断罪の儀の後、ロゼリーヌと一緒に入った迎賓館の休憩室を訪ねてきたフリューゲルヘイゲンの騎士・グリューエル=ハインリヒに改めて事の全容を聞かされてから、約一ヶ月間。ウェラントとベルゼーラを含む大陸南西部の政情安定に奔走しながらも、頭の片隅でずっと考えていた。
けれど、『彼女』がウェラントを去る今日になってもまだ、答えは出せていない。
胸の痞えを払おうとして吐き出した息が、思いがけず大きな音で物寂しい廊下に反響した。
シュバイツァー伯爵家の女性達を長年苦しめ続けた『ウェラントの悪夢』が一応の決着を見せた後も、薔薇の宮にはリブロムが意識を操っている定時通いのメイドしか居ない。
それは宮の現主人であるロゼリーヌが他人との接触を拒んでいるからではなく、ゼルエス王の手で愛する家族と引き裂かれ、後宮に無理矢理封じられて以降は身動きが取れなかった悲劇の王太后という公然の立場を利用して、薔薇の宮の孤立した空間を維持する為だった。
『元々人の出入りが少ない後宮は、現在のウェラント王国に存在してはいけないものを隠す場所として最適です。まして人との関わりを避けている国母の住居ともなれば、他国の王族であっても容易な手出しは不可能。機密保持の面で、これ以上の好環境は無いでしょう』
と、他ならぬロゼリーヌからの提案で隔離状態が続いていた薔薇の宮は、金髪碧眼美少女な有能メイド・ミウルが毎日勝手に手を入れている蓮の宮よりも遥かに静かで人の気配が感じられず、整然と並べられた家具や装飾品を見ても、埃一つ被っていないせいで余計に生活感が欠けている。
「リブロムです。お時間はよろしいか」
「あら、大変。もうこんな時間なのね。ゆっくりしすぎてしまったわ」
「どうぞ、お入りになって」
「……失礼します」
リブロムが軽く二度叩き、住人達の返事を待って開いた扉の向こう側も、通ってきた廊下と変わらない。
使用した痕跡を残していない暖炉や寝台。
新品同然に磨き上げられた鏡台や調度品の数々。
小型のシャンデリアが影を作る室内には、窓の外に望む庭園で揺れている木々や草花の涼やかな音、鳥達のさえずりが当たり前の如く浸透し、人間的な匂いを消し去っていた。
だから、だろうか。
窓際で陽光を浴びて立つ『彼女』の全身真っ白でありえない装いには一瞬思考が停止するほど驚かされたし、二度見、三度見しても、強烈な違和感しか働かない。
「…………何を、なさっておいでなのですか……母上……」
「お掃除を」
「………………掃除、ですか……?」
「ええ」
白い羽根で作られたハタキを持ち、白い膝丈のワンピースに白いエプロンを掛け、白いメイドキャップを頭に乗せたマッケンティアが、首筋で結んだ二等辺三角形の白いマスクをあごの辺りまで下げてリブロムに振り返り、楽しそうに微笑む。
「一ヶ月もお世話になっていたのです。せめて私が使っていた部屋のお掃除はさせていただきたいと思って」
メイドの方々が毎日綺麗にしてくださっていますし、素人の手入れなど全く必要ないのですが、今の私にはこれくらいしかできませんから。
そう言いながら窓枠をパタパタと叩く『彼女』の隣には、黒いベルベットのロングドレスを着用したロゼリーヌが、なんとも言えない微妙な表情を浮かべて佇んでいる。
「…………止めなかったのですか? ロゼリーヌ后」
「…………正直にお答えするならば、『使用人部屋をお借りします』という言葉の意味を理解する前に、状況が進んでいましたわ」
「私がお願いしたのです。ロゼリーヌ王太后陛下に非はありませんよ」
受けた恩には礼を返したい。
そうした気持ちは二人にも解る。
しかし、『マッケンティア・ドルトリージュ・バロックス』は、南大陸でそれなりに力を持っていた国の高位貴族として生まれ育った生粋の令嬢だ。一時的に身を潜める形にはなるが、ベルゼーラ王国の王太后である事実にも変わりはない。
嬉々としてメイドの仕事をこなす王太后など、前代未聞。異例中の異例。
同じく貴族に生まれついたロゼリーヌや、王族としての教育を受けてきたリブロムが呆気に取られるのも無理はなかった。
しかも、だ。
「もう少しで終わりますから、お二方はお掛けになっていてください」
と、笑顔のマッケンティアが左手でソファーを示した直後、右手に持っていたハタキと、壁に立てかけられていた箒が持ち替えられた。足元には、ふちに雑巾を二枚引っ掛けた水入りのバケツ。
部屋の隅から隅へと手際よく掃き、水に浸して絞った雑巾と乾いた雑巾で上から順に拭いていく様子は、彼女が掃除に慣れていることを表している。
さすがに仕上げ用のワックスまでは持ってきていないが、おそらくリブロムとの面会時間までには乾かないと判断したからで、使おうと思えば使えるのではないだろうか。
職業・使用人でも扱いが難しいワックスの使い方を知っている王太后。
違和感の成長は止まらない。
「今日の空はいつもより青く感じますね。上空の風が強いのかしら? 高地にある分、宮殿の庭園のお手入れは一層大変でしょうね」
「「………………」」
鼻歌でも始めそうな充実感溢れる笑顔を窓ガラスに映すマッケンティアの背後。ウェラント国内で最高位に立つ男女は、棒立ちしたまま互いの顔を覗き合い。
彼女の気が済むまでは座って待っていようと、黙って頷き合った。
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