[理想郷前夜]PROJECT・ARCADIA

梅見月ふたよ

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悪夢の前奏

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「バカな!」

 薄暗い研究室に怒声が響く。
 天井と床を繋ぐ巨大な円柱形の光る水槽を中心に据え、周囲をぐるりと丸く囲む壁の全面にモニターを貼り付けた室内は、激昂した中年男性の眉間と口元に殊更深い影を刻んでいる。

「全世界に現存する電子機器をネットワークも介さず一斉にクラッキングするなど、技術的にも物理的にも、理論的にも不可能だ!」
「クラッキングとは少し違いますよ。正確に表現するなら……シンクロ。『同調』かと」

 生え際に白筋が混じり始めている日本人男性の数歩手前、白衣を着た西洋人の青年が、時折泡が泳ぐ水槽を見上げながら楽しそうに肩を揺らす。

「ねぇ、先生。暑いと感じた時、貴方はまず最初にどんな行動を執ります?」
「……暑いのなら、エアコンなりサーキュレーターなりで室温を下げれば良い」
「そうですね。スイッチ一つで機械を動かし、環境の変化で自身を心地好いと感じる状態まで持っていく。それが科学の恩恵です。……しかし、『体感温度を下げる』という目的を達成する為のプロセスとしては、エネルギーの消費が激しすぎて非効率的だと思いませんか?」
「非効率、だと?」
「暑いのならば、自分の首辺りで軽く手を振れば良いのです」

 エネルギーを作る為の設備を、エネルギーを消費しながら整え。
 エネルギーで動く機械類を、エネルギーを使って作り。
 エネルギーを配る為の伝導線を、エネルギーを用いて各地に張り巡らせ。
 共有したエネルギーで、機械を動かす為のスイッチを押し。
 広範囲に変化を与えることで、最終的に自分自身にも変化をもたらす。

「自分自身の体感温度を下げる為に何千・何万もの手間と物資を介してエネルギーを消費し、それも電源を切れば数十分で元通り。その上、エネルギーを生成・配伝した道具達は安全性を保つ為、定期的に新調・廃棄しなければならない。新調するにも廃棄するにも、また別の設備と人手と物資とエネルギーを消費するというのに。ね? 非効率極まりないでしょう?」

 こうして、ただ首元で手を振れば済むだけの話なのに。

 そう言いながら、青年は自身の左手をひらひらと振ってみせる。

「この『体感温度を下げる為に手を振る』行為、実際には多くの者が無意識の内に行っています。私が「まず最初に」とわざわざ前置きしたにも拘わらず、先生が機械を介した行動を答えてしまわれたように、改めて考えるまでもなく、ごくごく自然に、です。それは何故だと思われます?」
「……視覚的、体感的経験から備わった習性だろう。近親者の言動から学ぶものの多くは、何故それをと改めて疑問に感じる事のほうが少ない」

 近親者の言動を真似ていれば自分自身に損害は無い。
 何故なら、それを行ってもなお健在し続ける実例が目の前に居るのだから。
 『実践しても害が無い行為』に疑問を抱く者はそうそういない。
 だからこそ実践し、くり返し、いつの間にか覚え、意識しなくても実践できてしまうほどに習性化してしまう。

「確かに、先生の解釈にも一理ありますね。ですが、私の答えは違います」

 青年はゆったりとした動作で足先を中年男性に向け、両腕を腰上に回し、目を細めて穏やかに微笑んだ。

「生まれる前から知っていたのですよ、私達は」
「『体感温度を下げる為に手を振る』行為をか」
「『手を振れば動く『物質』が存在する』という事実です」

 事象や現象は、『物質』が招く経過であり結果だ。

「この世界に現存するありとあらゆる生命が、生まれる前から世界を構築している『物質』の存在を知り、生まれついた種族として生きていく過程で、『物質』の使い方をそれぞれ修得するのです。何者かがあらかじめ定めていた通りに」
「リュカ……それは哲学者や信仰者の発想だ。科学的ではない!」
「では、科学とは何です?」
「主観と感情を取り除いた経験と客観的事実のみに基づく知識の体系化。及び、知識による因果解明からの現象再現を成立させ、生活・観測・創造等、各技術への安定した転化を図る学問と言えるだろう」
「そうですね。要するに、科学とは『再現の為のすべ』です。立場の違いに囚われながら取り留めの無い思考をもっともらしく展開し、アンケートで多数決ごっこをするだけの哲学とは一線を画していますし、画されているべきです」
「であるなら、解っている筈だ! お前のその考え方は」
「科学は『何を』『再現』しているのです?」
「!? な、」

 首を傾げて問う青年の笑みに名状しがたい不気味な圧を感じ、中年男性は息を詰めて半歩分後退る。

「『再現』は『創造』ではありません。元となったものと同質のものを、形成に至るまでの道筋まで含めて、人間が認識できる世界に『再出現』させる事を意味します。人間が認識できる世界に、再び、です。それはつまり」

 科学によって生み出されるものは、既に存在していたか、あるいは存在しているものだけ。
 逆に言えば、存在しなかったもの、存在しないものを作り出すすべではない。

「だとすれば、現代社会に深く根を下ろしているコンピューターネットワークとは『何を』『再現』したもので、再現元となったものの制御は『何が』行っていたのでしょうね?」
「そ、それは……おそらく、生物学の……」
「ええ、ええ。生物の中には生まれながらに同族同士・個体間で情報を共有する能力を保有している種族があります。生まれついて、です。後天的な学習能力ではないと、偉大なる先人達が研究で解き明かしています。では、彼らの共有能力は『誰が』与えたものでしょうか? 個体の意識が複数絡まれば複雑化は避けられない筈なのに、その辺りは『誰が』制御しているのでしょうか? 後天的ではない、生まれついた能力を、ですよ?」

 昨日までの人当たりが良い好青年という印象を捨て去り、興奮した様子で徐々に口角を上げ、語気を強めていく異常な雰囲気の青年。
 中年男性は警戒を隠しきれず、額にじわりと冷たい汗を滲ませる。

「私達はね、先生。生物が生まれる前から持つ先天的な能力の設計図……『遺伝子情報』にその答えを探していたのです」
「遺伝子、だと?」
「『意図』が介在するものには、必ず『共通するもの』と『自然体に見せかけた偏り』が生じます。だから」

 先人が遺した法則……先入観を捨て、先人から受け継いだ記号のみを用いて、人類を含む全生物と宇宙から回収できた全物質の構造と性質を解析し直し、分布図を一から作り直し、時間や環境の違いなどが与える変化を観察し、全体から共通項と偏りを洗い出し、『意図』の存在の証明を試みたのですよ。

「………………まさ、か……!?」

 ありえない事をさらりと告げた口元がぐにゃりと歪む。
 逆光を浴びる青年の暗い笑みは、まさしく悪魔のそれだった。

「まさか……見つけ出したというのか? 現存する全ての『物質』に含まれている『意図』……いや、現存世界の全てを瓦解させかねない『『意図』の再現方法』を!?」
「観察対象が崩壊してしまったら研究が続けられませんし、影響範囲はきっちり絞ってありますよ。それにしても、やはり『意図』では少々語感が味気無い。全宇宙を包む原始の意志、始まりの元素……『愛』……とでも名付けましょうか。ふふ。先人の言葉の引用ですが、なかなかロマンチックなセンスで素敵ですよね」
「それでは……その水槽の中の男は……!」

 震える指が示す水槽。
 淡い光の中で昇る泡に白い素肌を撫でられている見目良い少年は、長い髪を無造作に泳がせたまま、瞳を目蓋で隠している。
 大小無数のケーブルに繋ぎ留められてはいるものの、だらりとした四肢には生気が無く、生きているのか死んでいるのか、見た目では判断がつかない。

「私達の準備は整っているのです。あとは計画の同意書に貴方のサインさえ頂ければ、世界中の電子機器は瞬く間に彼の子供となるでしょう!」

 両腕を広げ、高らかに声を上げる青年。
 それを歓迎しているかのように、また少し、水槽の中で泡が踊った。

「なんという……愚かな事を……!」

 中年男性は驚愕のあまりによろめき、それでも足に力を入れて、なんとかその場に留まった。
 
「創造主にでも成り代わるつもりか、リュカオン! 科学は人間の道具であるべきだ! 科学で人間を支配するなど、あってはならない!!」
「その通りですよ、先生。科学は人間の道具であるべきです」
「なら!」

「科学は、私達『人間科学者』の道具であるべきなのです。決して、実の成る木にしがみついて甘い汁を吸うしか能が無い、野蛮な類人猿共の玩具であってはならない」

「…………っ!!」
「私達が作り、貸していた道具を、返してもらう時が来た。それだけの事ですよ。躊躇う必要がありますか?」
「……世界中、全ての電子機器、だぞ……? 何万……何千万の犠牲が出ると思っているっ……!? こんな事態が世界中の権力者達に露見すれば、科学界もただでは!」
「常に誰かを足蹴にしていなければ満足に生きられない連中など、道具を取り戻した私達が恐れる相手ではありません。なにより」

 絞り出した苦しげな掠れ声さえ、青年には何の意味も無かった。
 青年は胸元のポケットに差していたペンと折り畳んであった紙を手に取り、中年男性へ差し出して微笑む。
 世間話をしているような気安さで中年男性の耳に唇を寄せて、ささやく。

実験動物モルモットがどれだけ消えようが、先日生まれた可愛い孫娘の平穏な未来とは比べるまでもないでしょう?」

 ねぇ……、お義父さん?

 中年男性の理性を奪うには十分すぎる言葉。
 堪えかねた怒りで両目を見開き、右腕を大きく振り上げて……微笑む青年の向こう側に、幸せを絵に描いたような実の娘との日々が透けて見えた。

 要らぬ苦労を掛け続けていた。
 だが、わがままは滅多に言わない娘だった。
 その娘が、父親の猛反対を押し切ってでも一緒になりたいと言って聞かなかった相手。
 そして、ふよふよと頼りない小さな体を大事そうに抱え、名前を付けてあげて欲しいと微笑んだ、愛しい一人娘……。
 
 中年男性は腕を引き戻して両膝を落とし、目の前にそっと置かれたペンを折れそうなほど強く握り締め、床の上で白い紙の片隅にたどたどしく歪んだ黒い線を引く。
 青年はそれをしっかりと確認し、満足気な表情で拾い上げた。

「さあ、私達と共に始めましょう、日本代表の舞鴉まいあ科学技術庁長官殿。この地球上に飢えも差別も争いも無い、真の平和をもたらす為に、『PROJECT・ARCADIA』を!」

 青年が嬉々と饒舌に語る未来図を、中年男性は呆然と聞き流す。
 己が名前を記した紙切れ一枚のせいで、これから数え切れない人間が生命を脅かされるのだ。
 天秤に掛けたのは、自身の血を分けた娘と孫娘が生きていく未来。それだけ。
 悲惨な時代の幕開けを肌で感じ取っていても、中年男性の心中には「すまない」の一言すら浮かんでは来なかった。


 これは現代から百数十年後に起こる悲劇のプロローグ。
 そして、真の平和を再現していた『ARCADIA』が夢物語となった時代から千年前ほど前の、忘れ去られた記憶。



 千年後の世界を描く本編
『ARCADIA-アルカディア-』、製作中。

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