1 / 1
悪夢の前奏
しおりを挟む
「バカな!」
薄暗い研究室に怒声が響く。
天井と床を繋ぐ巨大な円柱形の光る水槽を中心に据え、周囲をぐるりと丸く囲む壁の全面にモニターを貼り付けた室内は、激昂した中年男性の眉間と口元に殊更深い影を刻んでいる。
「全世界に現存する電子機器をネットワークも介さず一斉にクラッキングするなど、技術的にも物理的にも、理論的にも不可能だ!」
「クラッキングとは少し違いますよ。正確に表現するなら……シンクロ。『同調』かと」
生え際に白筋が混じり始めている日本人男性の数歩手前、白衣を着た西洋人の青年が、時折泡が泳ぐ水槽を見上げながら楽しそうに肩を揺らす。
「ねぇ、先生。暑いと感じた時、貴方はまず最初にどんな行動を執ります?」
「……暑いのなら、エアコンなりサーキュレーターなりで室温を下げれば良い」
「そうですね。スイッチ一つで機械を動かし、環境の変化で自身を心地好いと感じる状態まで持っていく。それが科学の恩恵です。……しかし、『体感温度を下げる』という目的を達成する為のプロセスとしては、エネルギーの消費が激しすぎて非効率的だと思いませんか?」
「非効率、だと?」
「暑いのならば、自分の首辺りで軽く手を振れば良いのです」
エネルギーを作る為の設備を、エネルギーを消費しながら整え。
エネルギーで動く機械類を、エネルギーを使って作り。
エネルギーを配る為の伝導線を、エネルギーを用いて各地に張り巡らせ。
共有したエネルギーで、機械を動かす為のスイッチを押し。
広範囲に変化を与えることで、最終的に自分自身にも変化をもたらす。
「自分自身の体感温度を下げる為に何千・何万もの手間と物資を介してエネルギーを消費し、それも電源を切れば数十分で元通り。その上、エネルギーを生成・配伝した道具達は安全性を保つ為、定期的に新調・廃棄しなければならない。新調するにも廃棄するにも、また別の設備と人手と物資とエネルギーを消費するというのに。ね? 非効率極まりないでしょう?」
こうして、ただ首元で手を振れば済むだけの話なのに。
そう言いながら、青年は自身の左手をひらひらと振ってみせる。
「この『体感温度を下げる為に手を振る』行為、実際には多くの者が無意識の内に行っています。私が「まず最初に」とわざわざ前置きしたにも拘わらず、先生が機械を介した行動を答えてしまわれたように、改めて考えるまでもなく、ごくごく自然に、です。それは何故だと思われます?」
「……視覚的、体感的経験から備わった習性だろう。近親者の言動から学ぶものの多くは、何故それをと改めて疑問に感じる事のほうが少ない」
近親者の言動を真似ていれば自分自身に損害は無い。
何故なら、それを行ってもなお健在し続ける実例が目の前に居るのだから。
『実践しても害が無い行為』に疑問を抱く者はそうそういない。
だからこそ実践し、くり返し、いつの間にか覚え、意識しなくても実践できてしまうほどに習性化してしまう。
「確かに、先生の解釈にも一理ありますね。ですが、私の答えは違います」
青年はゆったりとした動作で足先を中年男性に向け、両腕を腰上に回し、目を細めて穏やかに微笑んだ。
「生まれる前から知っていたのですよ、私達は」
「『体感温度を下げる為に手を振る』行為をか」
「『手を振れば動く『物質』が存在する』という事実です」
事象や現象は、『物質』が招く経過であり結果だ。
「この世界に現存するありとあらゆる生命が、生まれる前から世界を構築している『物質』の存在を知り、生まれついた種族として生きていく過程で、『物質』の使い方をそれぞれ修得するのです。何者かがあらかじめ定めていた通りに」
「リュカ……それは哲学者や信仰者の発想だ。科学的ではない!」
「では、科学とは何です?」
「主観と感情を取り除いた経験と客観的事実のみに基づく知識の体系化。及び、知識による因果解明からの現象再現を成立させ、生活・観測・創造等、各技術への安定した転化を図る学問と言えるだろう」
「そうですね。要するに、科学とは『再現の為の術』です。立場の違いに囚われながら取り留めの無い思考をもっともらしく展開し、アンケートで多数決ごっこをするだけの哲学とは一線を画していますし、画されているべきです」
「であるなら、解っている筈だ! お前のその考え方は」
「科学は『何を』『再現』しているのです?」
「!? な、」
首を傾げて問う青年の笑みに名状しがたい不気味な圧を感じ、中年男性は息を詰めて半歩分後退る。
「『再現』は『創造』ではありません。元となったものと同質のものを、形成に至るまでの道筋まで含めて、人間が認識できる世界に『再出現』させる事を意味します。人間が認識できる世界に、再び、です。それはつまり」
科学によって生み出されるものは、既に存在していたか、あるいは存在しているものだけ。
逆に言えば、存在しなかったもの、存在しないものを作り出す術ではない。
「だとすれば、現代社会に深く根を下ろしているコンピューターネットワークとは『何を』『再現』したもので、再現元となったものの制御は『何が』行っていたのでしょうね?」
「そ、それは……おそらく、生物学の……」
「ええ、ええ。生物の中には生まれながらに同族同士・個体間で情報を共有する能力を保有している種族があります。生まれついて、です。後天的な学習能力ではないと、偉大なる先人達が研究で解き明かしています。では、彼らの共有能力は『誰が』与えたものでしょうか? 個体の意識が複数絡まれば複雑化は避けられない筈なのに、その辺りは『誰が』制御しているのでしょうか? 後天的ではない、生まれついた能力を、ですよ?」
昨日までの人当たりが良い好青年という印象を捨て去り、興奮した様子で徐々に口角を上げ、語気を強めていく異常な雰囲気の青年。
中年男性は警戒を隠しきれず、額にじわりと冷たい汗を滲ませる。
「私達はね、先生。生物が生まれる前から持つ先天的な能力の設計図……『遺伝子情報』にその答えを探していたのです」
「遺伝子、だと?」
「『意図』が介在するものには、必ず『共通するもの』と『自然体に見せかけた偏り』が生じます。だから」
先人が遺した法則……先入観を捨て、先人から受け継いだ記号のみを用いて、人類を含む全生物と宇宙から回収できた全物質の構造と性質を解析し直し、分布図を一から作り直し、時間や環境の違いなどが与える変化を観察し、全体から共通項と偏りを洗い出し、『意図』の存在の証明を試みたのですよ。
「………………まさ、か……!?」
ありえない事をさらりと告げた口元がぐにゃりと歪む。
逆光を浴びる青年の暗い笑みは、まさしく悪魔のそれだった。
「まさか……見つけ出したというのか? 現存する全ての『物質』に含まれている『意図』……いや、現存世界の全てを瓦解させかねない『『意図』の再現方法』を!?」
「観察対象が崩壊してしまったら研究が続けられませんし、影響範囲はきっちり絞ってありますよ。それにしても、やはり『意図』では少々語感が味気無い。全宇宙を包む原始の意志、始まりの元素……『愛』……とでも名付けましょうか。ふふ。先人の言葉の引用ですが、なかなかロマンチックなセンスで素敵ですよね」
「それでは……その水槽の中の男は……!」
震える指が示す水槽。
淡い光の中で昇る泡に白い素肌を撫でられている見目良い少年は、長い髪を無造作に泳がせたまま、瞳を目蓋で隠している。
大小無数のケーブルに繋ぎ留められてはいるものの、だらりとした四肢には生気が無く、生きているのか死んでいるのか、見た目では判断がつかない。
「私達の準備は整っているのです。あとは計画の同意書に貴方のサインさえ頂ければ、世界中の電子機器は瞬く間に彼の子供となるでしょう!」
両腕を広げ、高らかに声を上げる青年。
それを歓迎しているかのように、また少し、水槽の中で泡が踊った。
「なんという……愚かな事を……!」
中年男性は驚愕のあまりによろめき、それでも足に力を入れて、なんとかその場に留まった。
「創造主にでも成り代わるつもりか、リュカオン! 科学は人間の道具であるべきだ! 科学で人間を支配するなど、あってはならない!!」
「その通りですよ、先生。科学は人間の道具であるべきです」
「なら!」
「科学は、私達『人間』の道具であるべきなのです。決して、実の成る木にしがみついて甘い汁を吸うしか能が無い、野蛮な類人猿共の玩具であってはならない」
「…………っ!!」
「私達が作り、貸していた道具を、返してもらう時が来た。それだけの事ですよ。躊躇う必要がありますか?」
「……世界中、全ての電子機器、だぞ……? 何万……何千万の犠牲が出ると思っているっ……!? こんな事態が世界中の権力者達に露見すれば、科学界もただでは!」
「常に誰かを足蹴にしていなければ満足に生きられない連中など、道具を取り戻した私達が恐れる相手ではありません。なにより」
絞り出した苦しげな掠れ声さえ、青年には何の意味も無かった。
青年は胸元のポケットに差していたペンと折り畳んであった紙を手に取り、中年男性へ差し出して微笑む。
世間話をしているような気安さで中年男性の耳に唇を寄せて、ささやく。
「実験動物がどれだけ消えようが、先日生まれた可愛い孫娘の平穏な未来とは比べるまでもないでしょう?」
ねぇ……、お義父さん?
中年男性の理性を奪うには十分すぎる言葉。
堪えかねた怒りで両目を見開き、右腕を大きく振り上げて……微笑む青年の向こう側に、幸せを絵に描いたような実の娘との日々が透けて見えた。
要らぬ苦労を掛け続けていた。
だが、わがままは滅多に言わない娘だった。
その娘が、父親の猛反対を押し切ってでも一緒になりたいと言って聞かなかった相手。
そして、ふよふよと頼りない小さな体を大事そうに抱え、名前を付けてあげて欲しいと微笑んだ、愛しい一人娘……。
中年男性は腕を引き戻して両膝を落とし、目の前にそっと置かれたペンを折れそうなほど強く握り締め、床の上で白い紙の片隅にたどたどしく歪んだ黒い線を引く。
青年はそれをしっかりと確認し、満足気な表情で拾い上げた。
「さあ、私達と共に始めましょう、日本代表の舞鴉科学技術庁長官殿。この地球上に飢えも差別も争いも無い、真の平和をもたらす為に、『PROJECT・ARCADIA』を!」
青年が嬉々と饒舌に語る未来図を、中年男性は呆然と聞き流す。
己が名前を記した紙切れ一枚のせいで、これから数え切れない人間が生命を脅かされるのだ。
天秤に掛けたのは、自身の血を分けた娘と孫娘が生きていく未来。それだけ。
悲惨な時代の幕開けを肌で感じ取っていても、中年男性の心中には「すまない」の一言すら浮かんでは来なかった。
これは現代から百数十年後に起こる悲劇のプロローグ。
そして、真の平和を再現していた『ARCADIA』が夢物語となった時代から千年前ほど前の、忘れ去られた記憶。
千年後の世界を描く本編
『ARCADIA-アルカディア-』、製作中。
薄暗い研究室に怒声が響く。
天井と床を繋ぐ巨大な円柱形の光る水槽を中心に据え、周囲をぐるりと丸く囲む壁の全面にモニターを貼り付けた室内は、激昂した中年男性の眉間と口元に殊更深い影を刻んでいる。
「全世界に現存する電子機器をネットワークも介さず一斉にクラッキングするなど、技術的にも物理的にも、理論的にも不可能だ!」
「クラッキングとは少し違いますよ。正確に表現するなら……シンクロ。『同調』かと」
生え際に白筋が混じり始めている日本人男性の数歩手前、白衣を着た西洋人の青年が、時折泡が泳ぐ水槽を見上げながら楽しそうに肩を揺らす。
「ねぇ、先生。暑いと感じた時、貴方はまず最初にどんな行動を執ります?」
「……暑いのなら、エアコンなりサーキュレーターなりで室温を下げれば良い」
「そうですね。スイッチ一つで機械を動かし、環境の変化で自身を心地好いと感じる状態まで持っていく。それが科学の恩恵です。……しかし、『体感温度を下げる』という目的を達成する為のプロセスとしては、エネルギーの消費が激しすぎて非効率的だと思いませんか?」
「非効率、だと?」
「暑いのならば、自分の首辺りで軽く手を振れば良いのです」
エネルギーを作る為の設備を、エネルギーを消費しながら整え。
エネルギーで動く機械類を、エネルギーを使って作り。
エネルギーを配る為の伝導線を、エネルギーを用いて各地に張り巡らせ。
共有したエネルギーで、機械を動かす為のスイッチを押し。
広範囲に変化を与えることで、最終的に自分自身にも変化をもたらす。
「自分自身の体感温度を下げる為に何千・何万もの手間と物資を介してエネルギーを消費し、それも電源を切れば数十分で元通り。その上、エネルギーを生成・配伝した道具達は安全性を保つ為、定期的に新調・廃棄しなければならない。新調するにも廃棄するにも、また別の設備と人手と物資とエネルギーを消費するというのに。ね? 非効率極まりないでしょう?」
こうして、ただ首元で手を振れば済むだけの話なのに。
そう言いながら、青年は自身の左手をひらひらと振ってみせる。
「この『体感温度を下げる為に手を振る』行為、実際には多くの者が無意識の内に行っています。私が「まず最初に」とわざわざ前置きしたにも拘わらず、先生が機械を介した行動を答えてしまわれたように、改めて考えるまでもなく、ごくごく自然に、です。それは何故だと思われます?」
「……視覚的、体感的経験から備わった習性だろう。近親者の言動から学ぶものの多くは、何故それをと改めて疑問に感じる事のほうが少ない」
近親者の言動を真似ていれば自分自身に損害は無い。
何故なら、それを行ってもなお健在し続ける実例が目の前に居るのだから。
『実践しても害が無い行為』に疑問を抱く者はそうそういない。
だからこそ実践し、くり返し、いつの間にか覚え、意識しなくても実践できてしまうほどに習性化してしまう。
「確かに、先生の解釈にも一理ありますね。ですが、私の答えは違います」
青年はゆったりとした動作で足先を中年男性に向け、両腕を腰上に回し、目を細めて穏やかに微笑んだ。
「生まれる前から知っていたのですよ、私達は」
「『体感温度を下げる為に手を振る』行為をか」
「『手を振れば動く『物質』が存在する』という事実です」
事象や現象は、『物質』が招く経過であり結果だ。
「この世界に現存するありとあらゆる生命が、生まれる前から世界を構築している『物質』の存在を知り、生まれついた種族として生きていく過程で、『物質』の使い方をそれぞれ修得するのです。何者かがあらかじめ定めていた通りに」
「リュカ……それは哲学者や信仰者の発想だ。科学的ではない!」
「では、科学とは何です?」
「主観と感情を取り除いた経験と客観的事実のみに基づく知識の体系化。及び、知識による因果解明からの現象再現を成立させ、生活・観測・創造等、各技術への安定した転化を図る学問と言えるだろう」
「そうですね。要するに、科学とは『再現の為の術』です。立場の違いに囚われながら取り留めの無い思考をもっともらしく展開し、アンケートで多数決ごっこをするだけの哲学とは一線を画していますし、画されているべきです」
「であるなら、解っている筈だ! お前のその考え方は」
「科学は『何を』『再現』しているのです?」
「!? な、」
首を傾げて問う青年の笑みに名状しがたい不気味な圧を感じ、中年男性は息を詰めて半歩分後退る。
「『再現』は『創造』ではありません。元となったものと同質のものを、形成に至るまでの道筋まで含めて、人間が認識できる世界に『再出現』させる事を意味します。人間が認識できる世界に、再び、です。それはつまり」
科学によって生み出されるものは、既に存在していたか、あるいは存在しているものだけ。
逆に言えば、存在しなかったもの、存在しないものを作り出す術ではない。
「だとすれば、現代社会に深く根を下ろしているコンピューターネットワークとは『何を』『再現』したもので、再現元となったものの制御は『何が』行っていたのでしょうね?」
「そ、それは……おそらく、生物学の……」
「ええ、ええ。生物の中には生まれながらに同族同士・個体間で情報を共有する能力を保有している種族があります。生まれついて、です。後天的な学習能力ではないと、偉大なる先人達が研究で解き明かしています。では、彼らの共有能力は『誰が』与えたものでしょうか? 個体の意識が複数絡まれば複雑化は避けられない筈なのに、その辺りは『誰が』制御しているのでしょうか? 後天的ではない、生まれついた能力を、ですよ?」
昨日までの人当たりが良い好青年という印象を捨て去り、興奮した様子で徐々に口角を上げ、語気を強めていく異常な雰囲気の青年。
中年男性は警戒を隠しきれず、額にじわりと冷たい汗を滲ませる。
「私達はね、先生。生物が生まれる前から持つ先天的な能力の設計図……『遺伝子情報』にその答えを探していたのです」
「遺伝子、だと?」
「『意図』が介在するものには、必ず『共通するもの』と『自然体に見せかけた偏り』が生じます。だから」
先人が遺した法則……先入観を捨て、先人から受け継いだ記号のみを用いて、人類を含む全生物と宇宙から回収できた全物質の構造と性質を解析し直し、分布図を一から作り直し、時間や環境の違いなどが与える変化を観察し、全体から共通項と偏りを洗い出し、『意図』の存在の証明を試みたのですよ。
「………………まさ、か……!?」
ありえない事をさらりと告げた口元がぐにゃりと歪む。
逆光を浴びる青年の暗い笑みは、まさしく悪魔のそれだった。
「まさか……見つけ出したというのか? 現存する全ての『物質』に含まれている『意図』……いや、現存世界の全てを瓦解させかねない『『意図』の再現方法』を!?」
「観察対象が崩壊してしまったら研究が続けられませんし、影響範囲はきっちり絞ってありますよ。それにしても、やはり『意図』では少々語感が味気無い。全宇宙を包む原始の意志、始まりの元素……『愛』……とでも名付けましょうか。ふふ。先人の言葉の引用ですが、なかなかロマンチックなセンスで素敵ですよね」
「それでは……その水槽の中の男は……!」
震える指が示す水槽。
淡い光の中で昇る泡に白い素肌を撫でられている見目良い少年は、長い髪を無造作に泳がせたまま、瞳を目蓋で隠している。
大小無数のケーブルに繋ぎ留められてはいるものの、だらりとした四肢には生気が無く、生きているのか死んでいるのか、見た目では判断がつかない。
「私達の準備は整っているのです。あとは計画の同意書に貴方のサインさえ頂ければ、世界中の電子機器は瞬く間に彼の子供となるでしょう!」
両腕を広げ、高らかに声を上げる青年。
それを歓迎しているかのように、また少し、水槽の中で泡が踊った。
「なんという……愚かな事を……!」
中年男性は驚愕のあまりによろめき、それでも足に力を入れて、なんとかその場に留まった。
「創造主にでも成り代わるつもりか、リュカオン! 科学は人間の道具であるべきだ! 科学で人間を支配するなど、あってはならない!!」
「その通りですよ、先生。科学は人間の道具であるべきです」
「なら!」
「科学は、私達『人間』の道具であるべきなのです。決して、実の成る木にしがみついて甘い汁を吸うしか能が無い、野蛮な類人猿共の玩具であってはならない」
「…………っ!!」
「私達が作り、貸していた道具を、返してもらう時が来た。それだけの事ですよ。躊躇う必要がありますか?」
「……世界中、全ての電子機器、だぞ……? 何万……何千万の犠牲が出ると思っているっ……!? こんな事態が世界中の権力者達に露見すれば、科学界もただでは!」
「常に誰かを足蹴にしていなければ満足に生きられない連中など、道具を取り戻した私達が恐れる相手ではありません。なにより」
絞り出した苦しげな掠れ声さえ、青年には何の意味も無かった。
青年は胸元のポケットに差していたペンと折り畳んであった紙を手に取り、中年男性へ差し出して微笑む。
世間話をしているような気安さで中年男性の耳に唇を寄せて、ささやく。
「実験動物がどれだけ消えようが、先日生まれた可愛い孫娘の平穏な未来とは比べるまでもないでしょう?」
ねぇ……、お義父さん?
中年男性の理性を奪うには十分すぎる言葉。
堪えかねた怒りで両目を見開き、右腕を大きく振り上げて……微笑む青年の向こう側に、幸せを絵に描いたような実の娘との日々が透けて見えた。
要らぬ苦労を掛け続けていた。
だが、わがままは滅多に言わない娘だった。
その娘が、父親の猛反対を押し切ってでも一緒になりたいと言って聞かなかった相手。
そして、ふよふよと頼りない小さな体を大事そうに抱え、名前を付けてあげて欲しいと微笑んだ、愛しい一人娘……。
中年男性は腕を引き戻して両膝を落とし、目の前にそっと置かれたペンを折れそうなほど強く握り締め、床の上で白い紙の片隅にたどたどしく歪んだ黒い線を引く。
青年はそれをしっかりと確認し、満足気な表情で拾い上げた。
「さあ、私達と共に始めましょう、日本代表の舞鴉科学技術庁長官殿。この地球上に飢えも差別も争いも無い、真の平和をもたらす為に、『PROJECT・ARCADIA』を!」
青年が嬉々と饒舌に語る未来図を、中年男性は呆然と聞き流す。
己が名前を記した紙切れ一枚のせいで、これから数え切れない人間が生命を脅かされるのだ。
天秤に掛けたのは、自身の血を分けた娘と孫娘が生きていく未来。それだけ。
悲惨な時代の幕開けを肌で感じ取っていても、中年男性の心中には「すまない」の一言すら浮かんでは来なかった。
これは現代から百数十年後に起こる悲劇のプロローグ。
そして、真の平和を再現していた『ARCADIA』が夢物語となった時代から千年前ほど前の、忘れ去られた記憶。
千年後の世界を描く本編
『ARCADIA-アルカディア-』、製作中。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

遠すぎた橋 【『軍神マルスの娘と呼ばれた女』 3】 -初めての負け戦 マーケットガーデン作戦ー
take
SF
千年後の未来。ポールシフトによって滅亡の淵に立たされた人類は、それまで築き上げた文明を失いいくつかの国に別れて争いを繰り返していた。唯一の「帝国」に産まれ育った少女ヤヨイは、アサシンとなった。
ついに帝国はチナ王国に宣戦を布告した。
陸軍特務少尉に任官したヤヨイも総力戦の渦中に身を投じる。無線の専門家でも武術の手練れでもない、多くの部下を指揮して新たな戦いに臨むヤヨイは空挺部隊指揮官として敵地に降下する。ヤヨイを密かに慕い陰ながら支えるリヨンは一人敵地に潜入し機甲師団の進軍を援け、孤立した空挺部隊を救おうとするのだが・・・。

再び君に出会うために
naomikoryo
SF
僕たちは宇宙の中で存在している、地球上のものでいえばエネルギー生命体に近い存在だ。星間塵(せいかんじん)を糧として、宇宙空間であれば何万光年も生きていける。
気の合う同じ種族の異性とは合体することで一つの生命体となり、気持ちが変われば分裂して個々となり、離れて行く。言葉は持たないが一種のテレパスを使って感情を伝え合うことができる。
僕たちは、とある彗星に流され引力を持つ星に、途中で分裂させられながら降りてしまった。宇宙に戻ることも出来ず、ただ少しずつエネルギーを失いながら消滅するしかなくなっていた僕は、最後にもう一度彼女と出会うことを望んでテレパスを送り、何とか移動し続けるしかなかった・・・
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

空色のサイエンスウィッチ
コーヒー微糖派
SF
『科学の魔女は、空色の髪をなびかせて宙を舞う』
高校を卒業後、亡くなった両親の後を継いで工場長となったニ十歳の女性――空鳥 隼《そらとり じゅん》
彼女は両親との思い出が詰まった工場を守るため、単身で経営を続けてはいたものの、その運営状況は火の車。残された借金さえも返せない。
それでも持ち前の知識で独自の商品開発を進め、なんとかこの状況からの脱出を図っていた。
そんなある日、隼は自身の開発物の影響で、スーパーパワーに目覚めてしまう。
その力は、隼にさらなる可能性を見出させ、その運命さえも大きく変えていく。
持ち前の科学知識を応用することで、世に魔法を再現することをも可能とした力。
その力をもってして、隼は日々空を駆け巡り、世のため人のためのヒーロー活動を始めることにした。
そしていつしか、彼女はこう呼ばれるようになる。
魔法の杖に腰かけて、大空を鳥のように舞う【空色の魔女】と。
※この作品の科学知識云々はフィクションです。参考にしないでください。
※ノベルアッププラス様での連載分を後追いで公開いたします。
※2022/10/25 完結まで投稿しました。
歴史改変戦記 「信長、中国を攻めるってよ」
高木一優
SF
タイムマシンによる時間航行が実現した近未来、大国の首脳陣は自国に都合の良い歴史を作り出すことに熱中し始めた。歴史学者である私の書いた論文は韓国や中国で叩かれ、反日デモが起る。豊臣秀吉が大陸に侵攻し中華帝国を制圧するという内容だ。学会を追われた私に中国の女性エージェントが接触し、中国政府が私の論文を題材として歴史介入を行うことを告げた。中国共産党は織田信長に中国の侵略を命じた。信長は朝鮮半島を蹂躙し中国本土に攻め入る。それは中華文明を西洋文明に対抗させるための戦略であった。
もうひとつの歴史を作り出すという思考実験を通じて、日本とは、中国とは、アジアとは何かを考えるポリティカルSF歴史コメディー。
『VRTex<ボルテックス>』―天才幼女リーゼルの物理戦―
我破破
SF
「万物理論」を手にした者には、「神の後継者」としての座を与えられる真理論争。それは、かつての人類の叡智であるアインシュタインやニュートンなどの天才物理学者たちが現代に甦って戦うという戦争ゲームだった。
我妻岩平はド文系の高校生であるにもかかわらず、偶然にも天才幼女リーゼルと出会ってしまい、その戦いに巻き込まれてしまう。二人は歴史上の天才たちを倒すべく共闘するのだったが……。
「魔法ではない、『物理演算<シミュレート>』だよ――――」

案山子の帝王
柚緒駆
SF
神魔大戦から百年。世界は『Dの民』が支配していた。そこにある日現われる、謎の存在。エリア・エージャンをパニックに陥れ、オリンポス財閥総合本社ビル『グレート・オリンポス』に迫る。迎え撃つのはジュピトル・ジュピトリス、しかし想像を超える敵に追い詰められたとき、彼が現われる。
「俺の名前は3J。デルファイの3J」
デルファイの『五人目の魔人』であり『案山子の帝王』と呼ばれる彼が現われたのは何故か。彼の目的は何か。謎が謎を呼び、世界は混沌に叩き込まれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる