左遷も悪くない

霧島まるは

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3巻

3-2

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「来るな。取り込み中だ」
「そんなことは分かってますよ。その件で、ちょっとジャンナ嬢に話を伺ってくるだけです。玄関先で伺ってすぐ帰りますから、閣下のご心配には及びません」

 本人を目の前に、よくもまあ言えたものである。ペンを置き、ウリセスはようやく立ち上がった。

「嫌味か?」
「嫌味ですよ。一日中無表情で、仕事の話だって『ああ』と『いや』としか返事されなかったのを、ご自分で知っておられますか? 職場環境の改善が必要でしょうから、原因を突き止めてきます」

 今日一日のウリセスの態度は、やはり良いものではなかったようだ。ここでエルメーテが突きつけているのは、さっさと白状せよ、さもなければジャンナから聞き出してくるぞ、ということだった。
 彼の中で、まだ何の決着も得ていないその事案を、軽々しく口に出すのははばかられた。しかし、ずっとこんな調子で仕事をするわけにもいかない。エルメーテの情報収集能力を考えると、家に立ち寄らずとも近い内にぎつけてくるだろう。それらを考え、ウリセスは右手で自分の首を一度で、ため息をついた。

「レーアに……子が出来た」

 それを言った瞬間の、エルメーテの顔ときたら。一瞬ぽかんとして、笑い出しそうに顔をむにゃむにゃとゆがめた後、その顔に手を当てて真顔に戻し、自分の机に片手をついて身体を支えるや、肺の深い深いところからため息を落としたのだ。

「はぁぁぁぁ……良かった。全然、大したことじゃなかった」

 そして、安堵あんどの声で一人ごちるのである。その言葉には、ウリセスとしては十分異議ありだったが。

「大したことはある。レーアが、寝台から起き上がれない」

 彼女の血の量が改善するのに、一体何日かかるのか分からないというのに。

「あ、ああ……血が足りてないんですか? 何だ、そんなことなら、ちゃんと言ってくださればいいのに」

 ウリセスの憂鬱など、取るに足らないものと言わんばかりの軽さで、エルメーテがいきなり動き出した。急ぐ手で外套を手に取るや、「お先に失礼します」と足早に帰り始めたのである。あっという間に、ウリセスは置き去りにされてしまった。
 一人になり、ただただ静かな連隊長室を一度見回した後、いまさら席に座る気にもなれず、彼もまた帰ることにしたのだった。



 3 頼られた男


「おかえりなさい、ウリセス兄さん……気持ちは分かるけど、私の顔を見てため息つくのはやめて」
「いま帰った……すまん」

 帰宅したウリセスを玄関先で迎えたのは、昨日と同じくジャンナだけ。
 レーアが、まだ起きられないことがそれで分かり、彼は素直に妹に詫びた。いまこの時、妹が家にいてくれることがどれほど心強いか。何の落ち度もない自分の顔を見て、いの一番にため息をつかれるのは、妹にとっては理不尽だったのだろう。

「義姉さんには、ちゃんとご飯食べさせたからね。ごまは見つけられなかったけど、豆は買って来たわ。重かったんだから」
「ああ……助かる。本当に」

 妹の肩に手を置いてねぎらいながらも、ウリセスの意識は二階へ行きかけていた。少しはレーアの顔色がましになったか、気になっていたのだ。
 外套を脱いで外套かけにかけると、ウリセスは手燭を受け取り、階段を上り始めた。自分の部屋の前で、少し逡巡しゅんじゅんする。しかし、何も迷う必要もためらう意味もない。はぁと息を吐いて、彼は扉を開けた。

「ウリセス?」

 部屋の闇の中から、先に声が投げられて、ウリセスは驚いた。ただ、妻に呼びかけられただけで、これほど驚いたのは初めてだろう。

「起きていたか……」
「すみません、出迎えもせずに」

 蝋燭の火の届かない寝台で、もそもそと起き上がろうとする気配。

「いい、そのままにしていろ。具合は少しはいいか?」

 ウリセスは足を踏み入れ、部屋の燭台に火を移す。灯りが増え、部屋はようやく明るくなる。

「はい、朝よりは……お医者様まで呼んでいただいて、申し訳ありませんでした」

 横たわったまま自分を見上げるレーアの言葉に、ウリセスは今朝のことを思い出した。医者の話を聞いた後、彼は一度部屋に着替えに戻ったはずなのだが、レーアと話をした記憶がない。呆然としたまま、仕事に行く準備をしたらしく、はっきりとしてはいないが、おそらく彼女は寝ていたのだろう。
 彼は寝台のレーアの側に周り、枕もとの台に手燭を置く。そうすると、不安そうな表情までよく見えた。
 ウリセスは、軍服のまま寝台の端に腰掛け、身体をひねって妻と向き合う。だが、こうして彼女の目を見ていると、何を言いたかったかよく分からなくなる。結局――「……もっとメシを食え」という、使い古された言葉しか、掴み出せなかった。
「まあ」と、レーアがちょっとだけ笑った。ウリセスにしてみれば、笑い事ではないのだが。

「二人分、食え……でないと、俺の子に吸い尽くされるぞ」

 だから、言葉を足す。「俺の子」という言葉を足した時、まさにその通りだと彼は思った。彼女の腹の中にいるのが、レーアに似ている子であれば、きっと母から吸い取る栄養の量も慎ましやかだったに違いない。だが、彼女の腹の中にいるのが、自分の子だと考えたら、この吸い取りっぷりも納得出来る。

「ウリセスの子……そうですね、それならもっと沢山食べないと、全然足りませんね」

 レーアも、同じ想像に行き着いたのか。少し笑って、それから手を掛布から出して彼に伸ばそうとする。ウリセスは、その手を取ってやった。外から帰って来た彼よりとても温かな手で、逆に彼女が冷たい思いをするのではないかと心配になるほどだ。

「そうだ、俺の子に腹一杯食わせてやれ」

「俺の子」と言う度に、彼の中にひとつずつ石が積まれていく。
 ウリセスにどれほど剣の力があろうとも、その身の中に子を宿すことは出来ない。どう逆立ちしても、彼には産めない。
 だから、いまレーアの腹の中にいる子が自分の子だと言われても、すぐに実感出来るはずがない。もちろん、彼の子以外にありえないことはちゃんと分かっているが。
 だが、レーアは違う。実感があろうがなかろうが、現実にその腹の中で子が育ち、良くも悪くも腹の中の出来事が全て彼女自身に跳ね返るのだ。だから、こうして具合が悪くもなる。
 男であるウリセスはというと、実感を自分で積み重ねていくしかなかった。
 だから彼は、「俺の子」と呼ぶ。レーアを苦しめてまで、貪欲に生きようとする子を、我が子であると骨のずいまで自分に教え込もうとした。

「ああそれは……それは、本当に沢山食べなければ。ひもじい思いをしているのですね、この子は」

 何ということでしょう、とレーアは驚いた顔になった。漠然とした意味合いではなく、いままさに腹の子が飢えているのだと、はっきりと理解した表情だった。

「ああ……着替えたらメシを持ってくる」

 ウリセスは触れた手を軽く揺らした後、手を離して立ち上がった。
 それから軍服の上着を脱ごうと手をかけた時、階下が少し騒がしくなった。下にいるのは、ジャンナ一人だというのに。一人で騒いでいるのでなければ、誰か来たということだ。

「ちょっと下りる」

 レーアにそう言い置いて、彼は急いで部屋を出たのだった。


「あ、連隊長閣下、さっきぶりです」

 玄関にいたのは――エルメーテだった。ジャンナは、顔をむぅとしたまま、彼の相手をウリセスに受け渡す。
 ジャンナのこの顔は、いつものことだ。以前、エルメーテは妹にひどいことを言ったらしく、それ以来、彼が笑顔でジャンナに迎え入れられたことはない。最近になって、多少は軟化してきてはいるが、それでも妹は、前のようにのぼせた態度を見せることは微塵みじんもなかった。
 急いで走って来たのだろう。エルメーテは、まだ軍服のままで、白い息を弾ませていた。

「いまちょうど、ジャンナ嬢にこれの説明をしていたところです」

 彼が「これ」と指すものは、ジャンナが手にしている陶製の小さな壺だ。

「だから、これは何なの? 変な色とにおい」

 蓋を開けて中を覗いたジャンナが、不審に表情を曇らせている。ウリセスからも中身が見えたが、とても綺麗とは言いがたい灰色と茶色の混じった、沼の土や粘土のような色だった。

「レバーのペーストだよ。これを毎食、パンに塗って食べさせてあげて」
「……その『レバー』って何って聞いてるの」

 これまで食べてきたものと明らかに違う色合いが、どうにも妹を気味悪がらせているようだ。

「レバーって……まあ、お肉の一部だよ」

 詳細を――エルメーテは濁した。動物の臓物だとは、女性にはっきりとは言えなかったのだろう。動物の内臓は腐りやすく、普段肉屋にレバーが並ぶことはないため、身近とは言えない食材だった。秋のイノシシ駆除の時に、解体された端から肉と一緒に調理されていたことが、ウリセスにとって一番新しい記憶。野戦訓練で生きた鶏をさばいた時に食べたことが、古い記憶だった。ともあれ、栄養価は高いものの、動物の内臓というだけで、慣れていない女性が拒絶反応を起こす可能性は高い。

「うち特製でね、うちの母さんも義姉さんも、これのおかげで眩暈知らずっていう優れものさ」

 代々バラッキ家で、妊婦を助けてきた秘伝の一品と聞かされて、ウリセスの方が真面目に聞き入ってしまった。パンに塗って食べればいいという手軽さも助かる。

「冬で良かったよ。寒さのおかげで、数日保存が出来るからね。温かくならないところに置いておいて。なくなる頃に、また持ってくるから」

 そう言ってまだいぶかしげな顔をしているジャンナとの話を切り上げると、エルメーテはウリセスの方へと向き直った。

「夜分、お騒がせして申し訳ありませんでした。ではこれで……」
「おい」

 てきぱきと早口で帰りの口上を述べようとする男を、ウリセスはひと言でいとめた。

「礼くらい言わせろ。それと、わざわざ来たんだ……メシも食っていけ。ジャンナ、用意してやれ」

 壺を持ち上げて、くるくる回しながら眺めていたジャンナに話を振ると、彼女は一度ちらとエルメーテを見た後、「はぁい」と物言いたげに答えて、台所へと消えて行った。

「あー、すみません、本当にすぐ帰るつもりだったんですよ」

 玄関で苦笑いしている男に、「そんなことより」と、ウリセスは自分の話を持ち出した。

「そんなことより……助かった」

 ジャンナがいてくれることを有難いと思ったが、まさか妻の妊娠に関して、エルメーテにまで感謝することになるとは思わなかった。

「いえいえ、どういたしまして。こんなこと、お安い御用ですよ」

 そう言って笑みを浮かべる補佐官を前に、お安い御用とは、便利な言葉だなとウリセスは思った。エルメーテという男は、日常生活においては出来ることが本当に多い男だ。そんな男には、お安い御用というものがゴロゴロある。
 一方、ウリセスは軍務にこそ幅広く対応出来るが、日常生活では出来ないことが多々ある。妻の妊娠という事案に関しては、本当に役立たずだ。

「後で、この辺でも手に入る、お薦めの食材を書き出しておきますね」

 更にそう言い募る補佐官に、ウリセスはどうやって感謝を伝えるべきかと考えた。そして、彼らしくこう言った。

「困ったことがあったら、俺を呼べ」
「うわぁ……そんな物騒な困りごとはいまのところないです」

 ウリセスなりに考えた言葉だったが、エルメーテには腕っぷしという意味でしか受け入れられなかったようだ。確かに、ウリセスが役立てそうなことはそう多くはなかった。

「でも、もしそんなことがあったら、まっさきに助けを求めますよ。僕には、自分ひとりで身体を張ろうなんて殊勝しゅしょうな考えはありませんから」

 そして、「寒いです。お話は、暖かい部屋がいいです」と付け足され、ウリセスは苦笑を浮かべながら、エルメーテを食堂へ招き入れたのだった。


「まあ、これは何ですか?」

 寝台から半身を起こしたレーアに、豆と野菜がたっぷり入ったスープと、エルメーテからの差し入れを塗ったパンを出してやると、彼女は案の定、パンの上の粘土もどきをしげしげと見つめた。

「……レバーだ」
「レバー……聞いたことはあるような、何でしたっけ」
「肉の……まあ、肉だ。エルメーテが持って来たから、心配はいらない」
「そう、なんですか? それじゃあ、いただきます」

 レーアは、噛み付いてくるはずもないパンに、おっかなびっくり、逆にゆっくりと噛み付いた。

「……」

 微妙な顔で噛み締めている。エルメーテが持ってくるのだから、極端に味がおかしいということはないだろうが、かといってとてもおいしいというものでもないようだ。

「……何というか、独特の匂いがありますね。それ以外は、多分……大丈夫です」

 もそもそと食べ続ける妻の様子に、ウリセスはほっとした。全部食べ終わるまで見届けると、更にほっとする。

「お仕事で疲れているウリセスの手をわずらわせて、本当に心苦しいです」
「俺の子がレーアの身体を煩わせて、心苦しいと言って欲しいか?」
「いいえ、いいえ、そんな」

 あまりに妻が小さくなってしまったので、冗談だとウリセスはその肩を軽く叩いた。

「うんと食え、無理はするな。ジャンナも……俺もいる」
「はい、はい……ありがとうございます」

 妻に、頼りにしていますという瞳で見つめられるのは――男としてのほまれのひとつなのだと、この時ウリセスは知ったのだった。


 その後、レバーが動物の内臓であることをイレネオから聞いたらしく、女二人の間で小さな騒動が起きたようだ。だが、その頃にはすっかりレーアは貧血知らずとなっていて、パンに塗られたそれを見る目こそ変わったものの、「食べない」という選択肢はないようで、毎回覚悟を決めてえいやと噛み付いている。
 食堂でのそんな姿を見るのが、最近のウリセスの小さな楽しみのひとつとなっていたことを、妻は知る由もなかった。



 4 おまもりをもらった女


 レーアの妊娠話は、ひそやかに身内に伝わっていったが、それで何か大きな変化があったわけではない。
 レーアの母が一度、食事のおすそ分けという形で様子を見に来た。その頃には彼女はもう起きられるようになっており、大きな心配をかけずに済んだ。臓物を食べているということに複雑な気分はあったが、レバーに感謝するレーアだった。
 コンテ家は男兄弟ばかりで、彼らが現時点でレーアの妊娠に対して何らかの行動を起こすとは、彼女は思っていなかったし、実際その通りだった。
 そう――男兄弟は。


 昼間、アロ家の玄関がノックされた時、一番近くにいたのはレーアではなかった。「はぁい、どちらさま?」とジャンナが反応している声が聞こえてくる。台所にいたレーアもまた、玄関へと向かった。ジャンナでは分からないお客の可能性もあったし、悪人と気づかずにうっかり扉を開けてしまう危険もあったからだ。

「どちらさま?」

 レーアが到着した時、ジャンナは無謀にも扉を開けていた――なんてことはなかった。彼女は、「どちらさま?」ともう一度問いかけているが、扉の向こうから返事はない。そのためジャンナは、眉間にうっすら怪訝けげんしわを刻んで、扉の向こうを睨みつけている。
 返事の代わりに、コン、コココンというリズムでノックされる音がレーアの耳に届いた。

「あっ!」

 その音に、慌ててレーアは足を踏み出した。「え、レーア義姉さん?」と驚くジャンナの横から手を伸ばし、彼女はおもむろに鍵を開けて扉を開く。
 そこには、淡い金髪の女性が立っていた。抜けるほど色が白く、青い瞳はぱっちりしていて高級な人形のように可愛らしい。背の低いそのお客を、最初ジャンナは見つけきれなかったようで、キョロキョロした後に視線を下ろした。

「まあ、可愛い子。どこのおつかいかしら」

 レーアよりももっと背が低いため、背の高いジャンナからすると、ちょっと膝をかがめてちょうどいいくらいだ。おいめいを可愛がるかのように、彼女はその少し小さなお客様に視線を下げたのだ。
 そんな義妹を尻目にレーアは、その小さくも可愛らしい女性に問いかける。

「ピエラ義姉ねえさん、今日はどうなさったのですか?」

「え?」と、レーアの横でジャンナが驚きに震えた。

「え? 義姉ねえ……え?」

 落ち着かない視線で、ジャンナはレーアを見たり、お客を見たりと忙しそうにしている。客人の方も、興味深そうにジャンナを見上げている。

「ピエラ義姉さん、こちら夫の妹のジャンナです。ジャンナ……こちらは、トビア兄さんの奥さんよ」
「ええっ!?」

 初対面の二人がお互いを分かるように紹介したのに、ジャンナはあまりに正直過ぎた。本人を目の前に心底びっくりした声をあげた挙句、二度見どころか三度も四度も見るのである。

「ピエラ義姉さんは、二十歳よ……ジャンナより年上。ほらご挨拶して」

 失礼過ぎる義妹の背中を叩いて、しゃんとさせる。こんなことをレーアが冗談で言う必要はない。ただ、気持ちは分からないでもなかった。見た目だけで言えば、ジャンナの方が遥かに年上に見えるだろう。

「ジャ、ジャンナ=アロです……ここの主、ウリセスの妹です。ようこそ、いらっしゃいました」

 戸惑いながら、ジャンナが探るような挨拶をする。まだまだジャンナには、礼儀をきちんと身に着けさせなければならなかった。

「……」

 そんなジャンナににこりと微笑んで、ピエラが会釈する。

「ピエラ義姉さんは、声が出ないの。だから、ノックで誰かを知らせてくれるのよ。ジャンナも覚えていてね」

 訪問者の態度を不審に思われる前に、レーアは言わなければならないことをさっくりと説明した。

「わ、分かったわ」

 多くの戸惑いがある内にそんな情報を提供したため、ジャンナはもはや何に戸惑っていいのかもよく分からない状態だった。逆に、それで良かったのではないかとレーアは思った。レーアもまた、人に義姉のことを説明するのは、慣れていなかった。上手に説明出来たかどうか、自分でもよく分からない。

「ピエラ義姉さん、寒い中どうなさったんですか? あ、とりあえず入ってください。すぐ暖炉に火を入れますから」

 そんな自分の中の戸惑いを誤魔化すように、レーアは兄の妻を招き入れたのだった。


 ピエラのことを、レーアは昔から良く知っている。
 七年前、この街に引っ越して来たその日に挨拶をしたのだ。彼女は、隣の家の娘だった。三人兄妹の末娘だったが、ピエラはいつも家族に不安な目で見つめられていた。
「こんな娘で、貰い手があるだろうか」「器量は良いが、まともな結婚は無理かもしれん」――時々聞こえてくる隣家の会話に、レーアも心を痛めたものだ。
 成長しても少女のような可愛らしさを残すピエラは、金持ちの男に何度となく求婚されていたという。男と言っても、三倍以上年の離れた、もはや老人と言ってもよい相手だ。金に困っていなかった隣家は、それを断り続けてはいたが、あまりに頻繁ひんぱんに遣いがやってくるため、次第に疲弊ひへいしていくのが見て取れた。
 そんな中、いまから三年ほど前にコンテ家の長男トビアが夕食の席でこう言った。

「父さん、私は隣のピエラと見合いをしようと思っています」

 コンテ家の食卓は、その直後から猛烈な騒ぎに包まれた。父と母は驚き、詳しい説明を求めてトビアを問い詰め始め、次男ルーベンはこれは面白いとばかりに、ゲラゲラと笑い転げて茶化した。末弟セヴェーロは「兄さん頑張れ」と応援を始め、三男イレネオはそんな家族の皿から肉をくすねることに集中力を費やしていた。
 勿論、レーアも驚いた。トビアは真面目な役所勤めで、隣の家と普通に近所付き合いはしていたものの、ピエラにそんな素振りを見せたこともなかったのだ。

「実は、隣家の親戚が役所に勤めていらして、私に相談されました。私も二十三ですから、そろそろ結婚してもいいでしょう。隣家のピエラは十七です。年齢差もおかしいものではありませんし、家柄も確かなものです」

 何一つ問題はないと言わんばかりのトビアの言葉に、コンテ家の誰もが知っている事実が、無言の空気を重くしていった。

「向こうは何もしゃべれないんだぞ、うまくやっていけるのか?」

 それを口に出したのは、父だった。家長として、言うべきことだという決意が、その顔にはあった。

「私は人の二倍しゃべれます。それで釣り合いが取れるでしょう。無口で物静かな嫁をもらったと思えば良いのです。子供が生まれたら、私が言葉を教えます。言葉以外に何か他に問題があれば考えますから、どうぞ言ってください」

 それ以外には何も問題なかろうとばかりにトビアに切り捨てられ、父と母は言葉を濁しつつも賛成しかねる気配を漂わせた。


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