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三章 隣のイクメンさんから癒やしの鯛出汁雑炊

(1)

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「……ん」
 
 菜緒は、ぼんやりと天井を見つめた。
 木目のある木張りの天井だ。
 白の壁紙を張った自宅アパートの天井じゃない。

「あれ……? 私、どうした……?」
 体を起こし、周囲を見渡す。
 六畳ほどの、床の間がある畳部屋。明らかに自分の部屋じゃない。
 
 ふと、視線に気づく。
 障子を僅かに開けて覗く目があった。低い視点から見るに子供だ。
 
 思い切って話しかけてみる。
「あ、あの……」
「起きた?」
 隙間から覗いたまま話しかけられる。声からして男児だ。

(……ん?)
 菜緒は首を傾げる。
 
 というのも僅かな障子の隙間から覗く子供の目に、違和感を覚えたからだ。
 目なのは確かだけれど、何かがおかしい。
 違和感の正体がわからず、ジッと男児の目を見つめて探ろうとするが、まだ寝ぼけているせいかボンヤリして頭が働かない。

「待っててね。今、タツミを呼んでくる!」
「お、お願いします」
 ペタペタと素足で床板を駆ける可愛い足音が、小さくなっていく。

(やっぱり私はアパートの部屋にたどり着く前に、路上で寝落ちしたんだわ)
 しかも、イクメンが住む隣の木造平屋住宅の出入り口前で。

「うわぁ……」と自分がやらかしたことに、男児の違和感など、どこかへ飛んでいく。
「わや恥ずかしいことを」
 
 そう自分の顔を手で覆って気づいた。
 ――眼鏡がない!
「めが……っ! ……あった」
 慌てて周囲を見渡すと、自分が寝かされていた布団の枕元にちょこんと置いてあってホッとする。
 
 しかし、ホッとしたのも束の間。
「レンズにひびが……フレームも曲がっちゃって。顔面でいったのか? 私」
 眼鏡がなくても通常の生活は送れるので支障はないが、工場の細かい作業をするときに困る。
「新しいの、買わなくちゃ……」
 独り言を呟いたら、ふと気づいた。
 
 いい匂いがする。
 くんくん、と思わず鼻をひくつかせて匂いだけで味わう。
「魚の匂い。淡泊な……なんだろう?」
 
 ぐぅ、とお腹が鳴った。
 そういえばお腹が空いた。

『お腹が空いた』という感覚も久しぶりだ。
 ここ最近、食欲はないけれど食べなきゃ倒れるという危機感だけで食事をしていた。
 
 近づいてくる匂いに、菜緒の胸は躍る。
 このワクワクする感じも久しぶりだ。

「開けて」
 と短い一言のあと、スッと障子が開いた。
 
 開いた障子の先にいたのは、さっきの男児と――
「よかった。起きたと聞いて」
 と涼やかな声と爽やかな笑みを顔に浮かべた青年はやはり、隣に住んでいるイクメンだった。
 
 手ぬぐいを頭に巻き、エプロン姿の彼は菜緒の隣に座ると、盆ごと一人前用の土鍋を置く。
「一応、お医者様に看てもらったら寝不足だって言っていましたよ。あと、軽い栄養失調」
「すみません! お医者様まで呼んでもらっちゃって!」
「かなり疲れているようだったんで起こさずにここで寝てもらっていたんだけれど、大丈夫でした? 仕事とか」
 
 イクメンに問われ、時間の経過が気になった菜緒は部屋にある時計を探す。
「――あ、あなたの鞄」
「すみません。何から何まで」
 イクメンは端に寄せてあった鞄を持ってくると、菜緒に渡す。
 
 菜緒は鞄の中からスマホを取り出し、着信と時刻を確認した。
 夜勤で明け方の帰宅の途中で倒れ、今は十六時、夕方だ。夜勤は二十二時からなので大丈夫だ。
 丸一日寝ていたかとヒヤヒヤしたが、日にちを見て菜緒は胸を撫で下ろす。
 
 クゥウウウウ
 ホッとしたらまたお腹が鳴った。
 
 超絶イケメンの目の前で思いっきり大きな音で鳴って、恥ずかしさに菜緒はお腹を押さえながら謝罪した。
「……う、すみません」
「食べないでずっと寝ていたから、お腹も空いたでしょう? 残り物で作ったので悪いけれど、良かったら食べてください」
 イクメンは呆れることなく、慈愛の籠もった笑顔で菜緒に話しかけると、土鍋の蓋を開ける。
 
 刹那、ほわん、とご飯と魚の甘さを含んだ湯気が上った。
 雑炊だ。

「いい匂い! 魚の匂いだって分かるんですけれど、何のお魚ですか?」
「鯛です」
「鯛!? いいんですか? そんないいお魚を私が頂いて」
「いえ……あの、鯛の身はそのもう食べちゃって、骨と頭で作った物なので、そこまで喜ばれちゃうとかえって申し訳ないです……」
 具材の内容がちょっと恥ずかしいのか、イクメンは菜緒から僅かに視線をそらす。

「『鯛に捨てるところなし』ってよく言いじゃないですか。それに、倒れている私を介抱してくれただけでなく、お医者様まで呼んでくださって、その上、食事まで気を遣っていただいて、感謝するこそ文句など言いません」
 イクメンさんが作った物に文句など絶対に言いません、と菜緒は心の中で叫ぶ。

「よかった。胃がビックリするかもしれませんから。少しずつゆっくり食べてください」
 と、イクメン自ら茶碗によそってくれる。
 
 それから別皿によけておいたゴマと三つ葉について尋ねてきた。
「ゴマと三つ葉、入れても平気ですか?」
「はい、全然平気です。食べられます」
 香りの高いものは大好きだ。きっと苦手な人もいるから、こうやって別皿で持ってきて聞いてくれたんだ。
 それだけでも菜緒は大感激だ。
 いままで付き合った相手が縦にも横にもしない、無為徒然な奴だったので、こうして上げ膳据え膳なんて初めての経験だ。

「ありがとうございます。……では」
 片手に茶碗、もう片手にレンゲを持ち、鯛雑炊を眺める。
 
 鯛匂う白い出汁に埋もれた艶々のご飯に、ゴマの香ばしさと清涼な三つ葉の香りが鼻腔をくすぐり、胃を刺激する。
 早く胃の中に収めたいという欲求が、口の中を唾液で潤していく。

(落ち着け、私)
 こくん、と喉を鳴らし、菜緒はイクメンの言うとおりに少しだけレンゲにすくうと、口の中にいれ、ゆっくりと咀嚼する。
 
 骨と頭だけといったが、身だってちゃんと入ってる。
 頭に残っていた身をほぐして、入れてくれたんだとわかった。
 
 シンプルだけど丁寧に作られた料理だ。
 空っぽの胃が、ほんわかとした温かさで満たされていく。
 とろみもついていて、優しい塩味を残しながら喉元を通っていく感覚が堪らない
 胃におさまるとそこからじんわりと他の臓器に栄養が伝わっていく感覚を、菜緒は初めて体験した。

(これが五臓六腑に染み渡るってことかな?)
 
 ここ半年、ご飯が美味しいと思わなかった。食事を前にしても、いい匂いとか美味しそうとかも思わなかった。
 ただ生きるために口に入れる。
 
 北海道にいるときはこうじゃなかった。
 季節折々の海の幸を手に入れて、作って食べて明日もまた頑張ろうって――けいちゃんと。
 
 ブワッと言葉にならない様々な感情が湧き上がる。
「……ぅ、」
 
 涙が溢れてきた。
 もう涙も枯れ果てたと思ったのに。
 だからこそ一人で頑張って見返してやろうと、上京してきた。
 
 慣れない土地、慣れない職場に疲れ果ててもまだ頑張れるって――
 
 食に感動することを忘れていた。
 
 余裕なんてもう、なかったんだ。気づかなかった。




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