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192. ロンド~踊る命~ -9- 男として
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「ではきちんとお休みになってくださいね」
胡蝶はそう言い残して談話室から出て行った。
『眠れば礼夏に会えるのではなくて?』
確かに会えるかもしれない。
礼夏との約束を果たしたのだから。
貴之は乱暴にソファベッドに腰をおろした。
何故だかイラつく。
━━━━礼夏はもうひとつの頼みを聞いてほしいと言っていた。俺に償いをしたいと。
貴之はリモコンで室内の遮光カーテンをひいた。ソファベッドに転がり、暗くなった室内の天井をみつめた。そして、初めて朝の日課である読経と写経を行わなかったことに気づいた。
弥生と子供が死んで以来初めてのことだった。
一日も欠かすことのなかった日課だった。
なのに罪悪の気持ちは湧かない。
自分を責める気持ちもない。
貴之は奇妙な気分だった。
貴之は起きあがり、姿勢を正してお経を唱えた。
屋敷で行っているように声を張りあげるわけにはいかない。
口の中で、静かに唱えた。
唱え終わる頃、強い睡魔に襲われ、貴之は倒れるように眠りについてしまった。
胡蝶が貴之を向かいの談話室に押し込み病室に戻ってきた。
笑い声が聞こえる。
京司朗とみふゆが何やら話している。
なかなかいい雰囲気だ。
「楽しそうね、なんのお話?」
「若頭がね、ギリシャで猫が頭に降ってきてびっくりしてコーヒーをこぼしたってお話」
「あら、そんなことがあったの?」
「フランスに店を出したときに、日本に帰ってくる前にギリシャに立ち寄ったんです。そのときですね」
「まあ、見たかったわ。京司朗がびっくりする姿」
「そうなんです。若頭でもびっくりするんだなって」
「俺だってびっくりすることぐらいあるさ。あれは完全な不意打ちだった」
「そんな感じがしません。不意打ちをくらうとか」
「俺は割と普通だよ。身長と顔以外はね」
みふゆが一瞬黙って、ケラケラと笑った。かなりうち解けている。
胡蝶の瞳には微笑ましいふたりが映っていた。
みふゆと京司朗に必要なのは、まさに『ふたりだけの時間』だ。
「あ、そうだ。散歩に行ってもいいですか?若頭が連れてってくれるって」
「京司朗のことは名前で呼ぶんじゃなかったの?」
「えーと、・・若さんじゃ駄目ですか?」
“若頭”の“若”だけとって若さん。
みふゆが京司朗を見上げた。
京司朗は直ぐさま、
「却下」
と言った。
胡蝶が微笑んでいる。
「名前で呼べるようになさい。わかった?」
「は、はい・・」
柔らかな物腰で注意され、しゅんとしたみふゆの頭を京司朗が撫でた。やはり大きな手だ。貴之と同じ、けれど、貴之とは違う男の手だ。
「明里さんには連絡をしました。20分くらいでこちらにつきます」
「そう、ありがとう。じゃあ散歩に行ってらっしゃい。車椅子には一人で移れそう?」
「はい。大丈夫です」
みふゆがベッドから足をおろし、以前よりスムーズに車椅子に移乗した。胡蝶から若竹色のカーディガンを受け取り、袖を通す。着衣の動作にもたつきはない。
体全体の動きがスムーズなことに胡蝶は安心した。
カーディガンは佐野洋平から見舞いの品だ。
堀内花壇に就職する前にバイトをしていた、ブランド『Fiore Fiore』のデザイナー兼経営者の佐野洋平。
見舞いにもらったカーディガンは若竹色と薄紅色の二枚あり、どちらも洋平が手がけた一点もので、着物にもあわせることができる代物だ。
若竹色は爽やかな緑系の色。緑が好きだと言ったみふゆの言葉を洋平は覚えていてくれたのだ。
みふゆは洋平のカーディガンを着て、ひざ掛けを足にかけて散歩に出る準備をした。
━━━━退院したら洋平先生にもお礼に行かなきゃ。
胡蝶に日焼け止めを塗るように言われて、みふゆは顔と首、両手の甲に塗った。
「帽子もかぶったほうがいいわね」
胡蝶がクローゼットからつば広の帽子をだした。
「でも、わたし髪が」
ポニーテールは帽子がひっかかる━━━
みふゆは自分の頭を触った。髪が平たい。
ポニーテールがない。ポニーテールにできる髪の長さじゃない。
髪の毛が指の間をサラサラと流れた。
入院後、髪を切ったのだと、みふゆは思い出した。みふゆは耳の後ろの髪を一房つまむと、少しだけ寂しい気がした。
「すぐにのびるわよ」
胡蝶が髪をすいて帽子をかぶせてくれた。
「ママが帰る前に戻ってきます」
「ええ、そうね」
胡蝶が淑やかに微笑んだ。
貴之は真っ白な空間に立っていた。
━━━━ここはどこだ?夢か?
何もない空間。
音のない空間。
かすかに匂いを感じる。
伽羅の匂いだ。
礼夏がいる━━━━
「礼夏!礼夏、いるのか!礼夏!」
貴之は何もない白い空間に礼夏の名を呼んだ。
────貴之・・・
礼夏の声がした。
「礼夏!?」
貴之が振り向くと、十二単の礼夏の姿があった。
「わあ、空が青い」
みふゆが空の青さに両手を伸ばし声を弾ませた。風がそよいで、京司朗もついつい
「ああ、気持ちがいいな」
と、言葉が出た。
ちょっと前なら、空がどれだけ青かろうといつも同じただの空だった。だがいまは、空の青さを心から美しいと思い、そよぐ風が気持ちいいと感じる。
「真っ白い雲がシュークリームみたいで美味しそう」
「作ってこようか?」
京司朗が車椅子を押しながら言った。
みふゆが「いいんですか?!」と笑顔で振り向いた。
「カスタードクリームと生クリームは一緒に入れる?別々?」
「別々!!」
意気揚々にみふゆが答えると、強い風が一瞬吹いて、帽子が煽られた。みふゆは両手で押さえたあと、帽子をとった。
「帽子かぶらないの、ママには内緒にしてください」
「━━━そうだな、口止め料を払ってもらおうか」
京司朗はニヤリと笑った。
「ええ?!お金をとるんですか?!」
驚いているみふゆに、京司朗はさりげなく顔を近づけた。
唇が重なった。
みふゆは反射的に京司朗から離れようとしたが、京司朗は逃がさなかった。
みふゆは見開いていた目をやがて閉じ、京司朗に身を任せた。
長い時間のように感じた。
京司朗は唇を一度離し、すぐにまたみふゆの唇に重ね、ついばみをした。
優しいついばみが終わり、京司朗の顔がみふゆから離れた。みふゆはゆっくりとまぶたを開けた。まばたきを繰り返し、ようやく我に返って持っていた帽子のつばで口元を覆った。
「わ、わた、わたしっ、わたしはこーゆー外国風の挨拶は慣れませんっっ!日本人ですし!」
みふゆは顔を真っ赤にして京司朗に言い訳をした。
「俺は挨拶で女に口づける男じゃない」
京司朗の真剣な男の眼差しに、みふゆは胸がしめつけられて、どうすればいいかわからなかった。
「ではきちんとお休みになってくださいね」
胡蝶はそう言い残して談話室から出て行った。
『眠れば礼夏に会えるのではなくて?』
確かに会えるかもしれない。
礼夏との約束を果たしたのだから。
貴之は乱暴にソファベッドに腰をおろした。
何故だかイラつく。
━━━━礼夏はもうひとつの頼みを聞いてほしいと言っていた。俺に償いをしたいと。
貴之はリモコンで室内の遮光カーテンをひいた。ソファベッドに転がり、暗くなった室内の天井をみつめた。そして、初めて朝の日課である読経と写経を行わなかったことに気づいた。
弥生と子供が死んで以来初めてのことだった。
一日も欠かすことのなかった日課だった。
なのに罪悪の気持ちは湧かない。
自分を責める気持ちもない。
貴之は奇妙な気分だった。
貴之は起きあがり、姿勢を正してお経を唱えた。
屋敷で行っているように声を張りあげるわけにはいかない。
口の中で、静かに唱えた。
唱え終わる頃、強い睡魔に襲われ、貴之は倒れるように眠りについてしまった。
胡蝶が貴之を向かいの談話室に押し込み病室に戻ってきた。
笑い声が聞こえる。
京司朗とみふゆが何やら話している。
なかなかいい雰囲気だ。
「楽しそうね、なんのお話?」
「若頭がね、ギリシャで猫が頭に降ってきてびっくりしてコーヒーをこぼしたってお話」
「あら、そんなことがあったの?」
「フランスに店を出したときに、日本に帰ってくる前にギリシャに立ち寄ったんです。そのときですね」
「まあ、見たかったわ。京司朗がびっくりする姿」
「そうなんです。若頭でもびっくりするんだなって」
「俺だってびっくりすることぐらいあるさ。あれは完全な不意打ちだった」
「そんな感じがしません。不意打ちをくらうとか」
「俺は割と普通だよ。身長と顔以外はね」
みふゆが一瞬黙って、ケラケラと笑った。かなりうち解けている。
胡蝶の瞳には微笑ましいふたりが映っていた。
みふゆと京司朗に必要なのは、まさに『ふたりだけの時間』だ。
「あ、そうだ。散歩に行ってもいいですか?若頭が連れてってくれるって」
「京司朗のことは名前で呼ぶんじゃなかったの?」
「えーと、・・若さんじゃ駄目ですか?」
“若頭”の“若”だけとって若さん。
みふゆが京司朗を見上げた。
京司朗は直ぐさま、
「却下」
と言った。
胡蝶が微笑んでいる。
「名前で呼べるようになさい。わかった?」
「は、はい・・」
柔らかな物腰で注意され、しゅんとしたみふゆの頭を京司朗が撫でた。やはり大きな手だ。貴之と同じ、けれど、貴之とは違う男の手だ。
「明里さんには連絡をしました。20分くらいでこちらにつきます」
「そう、ありがとう。じゃあ散歩に行ってらっしゃい。車椅子には一人で移れそう?」
「はい。大丈夫です」
みふゆがベッドから足をおろし、以前よりスムーズに車椅子に移乗した。胡蝶から若竹色のカーディガンを受け取り、袖を通す。着衣の動作にもたつきはない。
体全体の動きがスムーズなことに胡蝶は安心した。
カーディガンは佐野洋平から見舞いの品だ。
堀内花壇に就職する前にバイトをしていた、ブランド『Fiore Fiore』のデザイナー兼経営者の佐野洋平。
見舞いにもらったカーディガンは若竹色と薄紅色の二枚あり、どちらも洋平が手がけた一点もので、着物にもあわせることができる代物だ。
若竹色は爽やかな緑系の色。緑が好きだと言ったみふゆの言葉を洋平は覚えていてくれたのだ。
みふゆは洋平のカーディガンを着て、ひざ掛けを足にかけて散歩に出る準備をした。
━━━━退院したら洋平先生にもお礼に行かなきゃ。
胡蝶に日焼け止めを塗るように言われて、みふゆは顔と首、両手の甲に塗った。
「帽子もかぶったほうがいいわね」
胡蝶がクローゼットからつば広の帽子をだした。
「でも、わたし髪が」
ポニーテールは帽子がひっかかる━━━
みふゆは自分の頭を触った。髪が平たい。
ポニーテールがない。ポニーテールにできる髪の長さじゃない。
髪の毛が指の間をサラサラと流れた。
入院後、髪を切ったのだと、みふゆは思い出した。みふゆは耳の後ろの髪を一房つまむと、少しだけ寂しい気がした。
「すぐにのびるわよ」
胡蝶が髪をすいて帽子をかぶせてくれた。
「ママが帰る前に戻ってきます」
「ええ、そうね」
胡蝶が淑やかに微笑んだ。
貴之は真っ白な空間に立っていた。
━━━━ここはどこだ?夢か?
何もない空間。
音のない空間。
かすかに匂いを感じる。
伽羅の匂いだ。
礼夏がいる━━━━
「礼夏!礼夏、いるのか!礼夏!」
貴之は何もない白い空間に礼夏の名を呼んだ。
────貴之・・・
礼夏の声がした。
「礼夏!?」
貴之が振り向くと、十二単の礼夏の姿があった。
「わあ、空が青い」
みふゆが空の青さに両手を伸ばし声を弾ませた。風がそよいで、京司朗もついつい
「ああ、気持ちがいいな」
と、言葉が出た。
ちょっと前なら、空がどれだけ青かろうといつも同じただの空だった。だがいまは、空の青さを心から美しいと思い、そよぐ風が気持ちいいと感じる。
「真っ白い雲がシュークリームみたいで美味しそう」
「作ってこようか?」
京司朗が車椅子を押しながら言った。
みふゆが「いいんですか?!」と笑顔で振り向いた。
「カスタードクリームと生クリームは一緒に入れる?別々?」
「別々!!」
意気揚々にみふゆが答えると、強い風が一瞬吹いて、帽子が煽られた。みふゆは両手で押さえたあと、帽子をとった。
「帽子かぶらないの、ママには内緒にしてください」
「━━━そうだな、口止め料を払ってもらおうか」
京司朗はニヤリと笑った。
「ええ?!お金をとるんですか?!」
驚いているみふゆに、京司朗はさりげなく顔を近づけた。
唇が重なった。
みふゆは反射的に京司朗から離れようとしたが、京司朗は逃がさなかった。
みふゆは見開いていた目をやがて閉じ、京司朗に身を任せた。
長い時間のように感じた。
京司朗は唇を一度離し、すぐにまたみふゆの唇に重ね、ついばみをした。
優しいついばみが終わり、京司朗の顔がみふゆから離れた。みふゆはゆっくりとまぶたを開けた。まばたきを繰り返し、ようやく我に返って持っていた帽子のつばで口元を覆った。
「わ、わた、わたしっ、わたしはこーゆー外国風の挨拶は慣れませんっっ!日本人ですし!」
みふゆは顔を真っ赤にして京司朗に言い訳をした。
「俺は挨拶で女に口づける男じゃない」
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