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175. 過ぎてゆく時間は思い出になる -7-
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みふゆと京司朗の顔合わせは殊の外うまくいった。
京司朗は“一緒に夕食をとっていったらどうか”との胡蝶からの誘いを、“明日の準備があるから”と丁重に断って病室をあとにした。
貴之とみふゆの親子の時間を邪魔したくはなかった。いま現在存在している『みふゆ』の時間は残り少ないのだから。
二十三年生きてきた青木みふゆは消えていない。
京司朗は、夕日の眩しさを“きれいだから”と言ったみふゆの声が、表情が、本来の『みふゆ』であることを確信していた。
━━━きっかけがあれば彼女はすぐにこの現実の世界に戻って来られる状態だ。
京司朗はエレベーターに乗る前に病室を振り返った。
握りしめた拳に、京司朗の思いが募っていた。
貴之は初めてみふゆの病室に泊まった。
泊まることをみふゆに伝えると、やはり大喜びして、いつもは九時就寝だが、十時まで起きて貴之に囲碁を教えてもらっていた。
胡蝶もこの日ばかりは大目にみた。
翌朝、みふゆは起きた直後からそわそわしていた。京司朗が迎えに来てからの外出になるからだ。
朝食を終え、洗面を終え、胡蝶が髪をといてくれた。寝グセのついた部分をヘアアイロンできれいになおしてくれた。肩より少し長めだった髪は、入院後に病院内の美容室で、襟足が少し長めのショートボブにしてもらっていた。
外出用の着替えは楓が準備してくれていた。
「あ、ネコのみみがついてる!かわいいピンクのおようふく、ありがとう、おねえちゃん」
みふゆは楓のことをいまは『おねえちゃん』と呼んでいる。
『おねえちゃん』と呼ばれるたびに楓はヘラリと口元が緩む。
楓が準備した着替えは、アイボリーのTシャツに、ちょっとくすんだピンクのパンツだ。柔らかに加工されたデニムのパンツはゆったりめで、ウエストがゴムと調整の紐がついている。Tシャツの上にはパンツと同系色のピンクのジップアップのパーカーを羽織っていた。ネコ耳はパーカーの帽子部分についている。
車椅子なので脱ぎ着が楽で、体が動きやすい服を楓は選んでくれていた。
「おとうさん、みて!あたらしいおようふく、おねえちゃんがえらんでくれたの」
みふゆが両手を広げた。
「おう、かわいいじゃねぇか」
貴之が撫でようと頭に手をおいた。
「会長、髪をくしゃくしゃにしないでくださいね」
「う、・・わ、わかってらぁな」
胡蝶から注意を受けてしまった。貴之は頭を軽くポンポンとたたいた。
「喜んでくれて嬉しいわ、みふゆちゃん。お洋服はまたいつでも選んであげるからね」
「ほんとう?こんどはみどりがいい!」
「わかったわ、緑ね。そういえばみふゆちゃん緑系統の服が多かった気がするわ。緑色好き?」
「うん。みどりはね、おかあさんがすきだったの」
何故好んで緑系統の服を選ぶのか、みふゆの心模様が垣間見えた。
みふゆは着替えてから貴之に同じ質問を繰り返していた。
「おにいさんはいつくるの?」「まだ?」「何時に来るの?」
京司朗を待ちきれない様子だ。
「京司朗のヤツめ、なんだか腹ぁたつな・・」
貴之がボソリと愚痴った。
京司朗をまだかまだかと待つみふゆの姿が、可愛いと思う反面おもしろくない。
「まあ、会長ったら・・。来るのを待ってるだけじゃありませんか」
胡蝶が笑ってからかった。
京司朗が病室を訪れると、みふゆは車椅子で駆け寄った。
「おにいさん、おはよう」
紅潮した笑顔は期待値が高い証拠だ。それだけ今日を楽しみにしていたのだ。しかし今日の目的はみふゆの記憶を戻すことだ。二十三歳の本来の姿に戻すことだ。
京司朗の心中は複雑に疼いたが、
「おはよう」
と、笑顔を返した。
「京、すぐに行けるのか?」
とげとげしい声だった。
みふゆの後方で貴之が仁王立ちして睨みをきかせている。
仁王立ちの貴之の後ろにメラメラと燃えさかる炎が見えるのは気のせいではあるまい。
みふゆが京司朗に懐いてしまったのが気に入らないのだと簡単に予測できる。
口からも炎を吐きそうだな、と思いつつ、京司朗は、
「ええ、もちろんです」
と、秘書然とした顔で答えた。
貴之はみふゆの車椅子のハンドグリップに両手を添えたが、すぐに放し、前に回り込んだ。みふゆの前に片膝をついてしゃがんで、みふゆの瞳をみつめた。
「おとうさん?」
みふゆの無垢な瞳が不思議そうに貴之をみている。
「みふゆ、これだけは覚えていてくれ。いつでも、どんな時でも、おまえは俺の大事な娘だ。この世でたったひとり、俺の一番大事な大事な愛する娘だ」
いま、言っておかなければ。
今日でいなくなってしまうかもしれない、『八歳の惣領みふゆ』という貴之だけの娘。
おそらくは忘れてしまうだろう、この何日かの父と娘として過ごした時間を━━━━
真剣な貴之の眼差しに、
「どうしたの?みふゆもおとうさんだいすきだよ」
みふゆが貴之に腕を伸ばし抱きついた。
甘えてくれた日々も、他の子供にヤキモチを焼いてくれたことも、いずれは貴之だけの思い出になる。
貴之はみふゆを抱きしめて、そしてゆっくり手放すと、立ちあがった。
みふゆは「まって」と思い出したように車椅子を動かした。胡蝶のそばに車椅子を寄せて手を握った。
「じゃあ、ママ、さきにいってるね。あとでちゃんときてね」
「ええ、必ず行くわよ」
胡蝶が微笑んだ。
みふゆは車椅子を上手にターンさせ、貴之と京司朗のもとに行った。
京司朗が胡蝶と楓に軽く一礼した。
みふゆはもう一度、
「ママ!必ずだよ!」
と、胡蝶を振り返って言った。
貴之が車椅子を押して出て行った。
━━━━ママ!必ずだよ!
「最後だったのかしらね・・・」
『ママ』と呼んでくれるのも━━━━
胡蝶が寂しげにつぶやいた。
「短い時間だったけど、みふゆちゃんは私達の望みを叶えてくれたんだからもういいじゃない。あとはみふゆちゃんの記憶が元に戻ることを全力で願いましょうよ。そして、・・また一緒に生きていきましょ!」
「ええ、そうね。そうね」
いつも明るく前向きな楓だ。この前向きな明るさに、胡蝶はこれまでもたびたび救われてきた。
「大塚が待ってるから私も行くわ」
「頼むわね」
楓も病室を出て行った。
楓は胡蝶の代わりに大塚医師とともに貴之の車のあとを追う。
胡蝶は真夜中に搬送されてきた妊婦の帝王切開手術に立ち会うことになっていた。
みふゆと京司朗の顔合わせは殊の外うまくいった。
京司朗は“一緒に夕食をとっていったらどうか”との胡蝶からの誘いを、“明日の準備があるから”と丁重に断って病室をあとにした。
貴之とみふゆの親子の時間を邪魔したくはなかった。いま現在存在している『みふゆ』の時間は残り少ないのだから。
二十三年生きてきた青木みふゆは消えていない。
京司朗は、夕日の眩しさを“きれいだから”と言ったみふゆの声が、表情が、本来の『みふゆ』であることを確信していた。
━━━きっかけがあれば彼女はすぐにこの現実の世界に戻って来られる状態だ。
京司朗はエレベーターに乗る前に病室を振り返った。
握りしめた拳に、京司朗の思いが募っていた。
貴之は初めてみふゆの病室に泊まった。
泊まることをみふゆに伝えると、やはり大喜びして、いつもは九時就寝だが、十時まで起きて貴之に囲碁を教えてもらっていた。
胡蝶もこの日ばかりは大目にみた。
翌朝、みふゆは起きた直後からそわそわしていた。京司朗が迎えに来てからの外出になるからだ。
朝食を終え、洗面を終え、胡蝶が髪をといてくれた。寝グセのついた部分をヘアアイロンできれいになおしてくれた。肩より少し長めだった髪は、入院後に病院内の美容室で、襟足が少し長めのショートボブにしてもらっていた。
外出用の着替えは楓が準備してくれていた。
「あ、ネコのみみがついてる!かわいいピンクのおようふく、ありがとう、おねえちゃん」
みふゆは楓のことをいまは『おねえちゃん』と呼んでいる。
『おねえちゃん』と呼ばれるたびに楓はヘラリと口元が緩む。
楓が準備した着替えは、アイボリーのTシャツに、ちょっとくすんだピンクのパンツだ。柔らかに加工されたデニムのパンツはゆったりめで、ウエストがゴムと調整の紐がついている。Tシャツの上にはパンツと同系色のピンクのジップアップのパーカーを羽織っていた。ネコ耳はパーカーの帽子部分についている。
車椅子なので脱ぎ着が楽で、体が動きやすい服を楓は選んでくれていた。
「おとうさん、みて!あたらしいおようふく、おねえちゃんがえらんでくれたの」
みふゆが両手を広げた。
「おう、かわいいじゃねぇか」
貴之が撫でようと頭に手をおいた。
「会長、髪をくしゃくしゃにしないでくださいね」
「う、・・わ、わかってらぁな」
胡蝶から注意を受けてしまった。貴之は頭を軽くポンポンとたたいた。
「喜んでくれて嬉しいわ、みふゆちゃん。お洋服はまたいつでも選んであげるからね」
「ほんとう?こんどはみどりがいい!」
「わかったわ、緑ね。そういえばみふゆちゃん緑系統の服が多かった気がするわ。緑色好き?」
「うん。みどりはね、おかあさんがすきだったの」
何故好んで緑系統の服を選ぶのか、みふゆの心模様が垣間見えた。
みふゆは着替えてから貴之に同じ質問を繰り返していた。
「おにいさんはいつくるの?」「まだ?」「何時に来るの?」
京司朗を待ちきれない様子だ。
「京司朗のヤツめ、なんだか腹ぁたつな・・」
貴之がボソリと愚痴った。
京司朗をまだかまだかと待つみふゆの姿が、可愛いと思う反面おもしろくない。
「まあ、会長ったら・・。来るのを待ってるだけじゃありませんか」
胡蝶が笑ってからかった。
京司朗が病室を訪れると、みふゆは車椅子で駆け寄った。
「おにいさん、おはよう」
紅潮した笑顔は期待値が高い証拠だ。それだけ今日を楽しみにしていたのだ。しかし今日の目的はみふゆの記憶を戻すことだ。二十三歳の本来の姿に戻すことだ。
京司朗の心中は複雑に疼いたが、
「おはよう」
と、笑顔を返した。
「京、すぐに行けるのか?」
とげとげしい声だった。
みふゆの後方で貴之が仁王立ちして睨みをきかせている。
仁王立ちの貴之の後ろにメラメラと燃えさかる炎が見えるのは気のせいではあるまい。
みふゆが京司朗に懐いてしまったのが気に入らないのだと簡単に予測できる。
口からも炎を吐きそうだな、と思いつつ、京司朗は、
「ええ、もちろんです」
と、秘書然とした顔で答えた。
貴之はみふゆの車椅子のハンドグリップに両手を添えたが、すぐに放し、前に回り込んだ。みふゆの前に片膝をついてしゃがんで、みふゆの瞳をみつめた。
「おとうさん?」
みふゆの無垢な瞳が不思議そうに貴之をみている。
「みふゆ、これだけは覚えていてくれ。いつでも、どんな時でも、おまえは俺の大事な娘だ。この世でたったひとり、俺の一番大事な大事な愛する娘だ」
いま、言っておかなければ。
今日でいなくなってしまうかもしれない、『八歳の惣領みふゆ』という貴之だけの娘。
おそらくは忘れてしまうだろう、この何日かの父と娘として過ごした時間を━━━━
真剣な貴之の眼差しに、
「どうしたの?みふゆもおとうさんだいすきだよ」
みふゆが貴之に腕を伸ばし抱きついた。
甘えてくれた日々も、他の子供にヤキモチを焼いてくれたことも、いずれは貴之だけの思い出になる。
貴之はみふゆを抱きしめて、そしてゆっくり手放すと、立ちあがった。
みふゆは「まって」と思い出したように車椅子を動かした。胡蝶のそばに車椅子を寄せて手を握った。
「じゃあ、ママ、さきにいってるね。あとでちゃんときてね」
「ええ、必ず行くわよ」
胡蝶が微笑んだ。
みふゆは車椅子を上手にターンさせ、貴之と京司朗のもとに行った。
京司朗が胡蝶と楓に軽く一礼した。
みふゆはもう一度、
「ママ!必ずだよ!」
と、胡蝶を振り返って言った。
貴之が車椅子を押して出て行った。
━━━━ママ!必ずだよ!
「最後だったのかしらね・・・」
『ママ』と呼んでくれるのも━━━━
胡蝶が寂しげにつぶやいた。
「短い時間だったけど、みふゆちゃんは私達の望みを叶えてくれたんだからもういいじゃない。あとはみふゆちゃんの記憶が元に戻ることを全力で願いましょうよ。そして、・・また一緒に生きていきましょ!」
「ええ、そうね。そうね」
いつも明るく前向きな楓だ。この前向きな明るさに、胡蝶はこれまでもたびたび救われてきた。
「大塚が待ってるから私も行くわ」
「頼むわね」
楓も病室を出て行った。
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