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108. 氾濫
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楽しい夕食だった。
不安は払拭され、気分は安らいだ。
夕食後、みふゆは後片付けを手伝い、終わると先に風呂を勧められた。
柔らかな白で統一された洗面所には脱衣場への扉があり、脱衣場のクローゼットの上の棚には数枚の白いバスタオルとフェイスタオル、ハンガーには白のバスローブが三枚かけてあった。その下にはドラム式の洗濯機がある。
トイレは洗面所の隣にあった。なかには専用の洗面所があり、かなり広いトイレだ。
浴室にはサウナと水風呂もあり、バスタブはジェットバスだと使い方を教えてもらった。
サウナも使っていいと言われたが熱いのは苦手だと遠慮した。
みふゆの頭の中で大事な事柄は、サウナよりジェットバスより 『下着を持ってきてよかった』だった。
パジャマがないが、幸いジャージをバッグに詰めてきた。パジャマのかわりにしよう。豪華なマンションには似つかわしくないジャージだが。そんなことを考えていると、
「洗いたいものがあったら使うといい」
京司朗がクローゼットの中のドラム式洗濯機を指した。
ドラム式の洗濯機は乾燥機もついている。脱いですぐ洗濯すればお風呂を出る頃には乾いているかもしれない。みふゆは「ありがとうございます」とホッとした。
貴之が「これを着てくれ」と箱を持ってきた。
開けると浴衣とレースのカーディガン風の羽織が入っていた。
薄いピンクと水色の浴衣にレース羽織はベージュっぽい白が二枚。
「寝巻き用の浴衣と上に羽織る茶羽織だ。藤原が帰り際に俺に寄越した」
『もしやお嬢様は寝巻きのご用意をされていないのでは?』
呉服屋の主・藤原が言ったのだという。
「さすが藤原の当主ですね。洞察力とさりげない気遣いが素晴らしい」
いきなり敬語になった京司朗が貴之に冷たい笑みを向け、貴之は、
「嫌味かそりゃ」
と凄んだ。
「嫌味以外に何があるんでしょうか」
京司朗の言わんとすることは、さしずめ『自分の着替えばっかり買いやがってこのやろう』、そんなところか。
敬語を続ける京司朗に、
「おい、お前とはいっぺん話をつけにゃあならんな」
「望むところです」
と、互いに睨みあった。
みふゆは慌てて
「ありがとうございます!助かりました!パジャマを持ってこなかったのでよかったです!」
と二人の睨みあいの間に立った。
貴之と京司朗がバスルームから出ていくと、みふゆは箱からピンクの桜の柄の浴衣を準備した。水色は桔梗の柄だった。気持ちのいい肌触りだ。
━━━明日にでも藤原さんにお礼を言いに行こう。
リビングに戻った貴之と京司朗はテレビはつけずに、ノートパソコンをのぞいた。
地元のテレビ局がネットでライブ中継をしている。
二人は睡蓮川の水位が危険水位に達しているのを確認した。
みふゆに教える気は、当然、無い。
貴之はみふゆの入浴中に、今日花屋で起こった出来事と事後処理の報告を受けた。
みふゆには見張りがついていたのに、肝心な時に見張りが動けなかったこと。
みふゆにわからぬようにつけられた見張りは、花屋の向かい側のビルの事務所にいたのだが、連続した雷で電気系統に異常が出て、事務所のオートロックがかかったまま解除が出来なくなったのだ。その為見張りは事務所内に閉じ込められ動けなかったというのが事の顛末だった。
「オートロックも考えようだな」
「通常の鍵にします。あの事務所は詰所として使っているだけなので十分でしょう。あと、逃げた男ですが、最近商店街をうろついていると報告のあった男と同一人物でした。今後見ることは二度とないでしょうが」
上司と部下の関係に切り替わっている貴之と京司朗。
逃げた茶髪男の行方は京司朗しか知らない。
おずおずと、みふゆが風呂から出てきた。
ピンクの浴衣とレースの茶羽織を着たみふゆを見て、「かわいいじゃねぇか」と貴之の目尻が下がった。
みふゆは「そ、そうですか?」と恥ずかしげにうつむいて、「あの・・洗濯機の乾燥がまだ終わらなくて・・」と遠慮がちに告げた。
「俺が風呂から出てくる頃にゃ終わるさ。京、お前先に入れ。俺は最後にゆっくりと歌いながらでも入るからよ」と貴之が言った。
京司朗は進みかけた足をピタリと止め、「歌うのはやめてくれ」と言い切って風呂場に消えた。
「ちっ、風呂で歌う文化を失くそうとしやがる一派め」
貴之は京司朗が消えた風呂場に向かって愚痴った。
テーブルの上には、米と果物の改良に関する報告書があった。京司朗と話し合いをしていたのかもしれない。
「改良もしてるんですか?」
みふゆが聞いた。
「ああ、改良と言うより原種に近づけてるのかもな。・・まあ、それも改良だな。最近の米も果物も甘さばかりを追及して味に面白味が無えしな」と言い、「これは事業というより趣味みてえなもんだ」と貴之は微笑った。
「ところで、だ」
貴之が大きめのタブレットをテーブルに持ってきた。
「少し付き合ってくれ」と、囲碁のアプリを起動させた。
みふゆは笑顔で「はい」と答えた。そして、睡蓮川が氾濫しないようにと願った。明日の朝も、いつもの駅前商店街でありますようにと願った。
「ここのサウナもいいサウナだぞ。使ってみろ」
貴之が黒の碁石を置いた。
「ここのサウナ、使ったことあるんですか?」
みふゆは貴之の指示した場所に白の碁石を置いた。
「ああ。スッキリするぞ」
貴之が黒の碁石を置く。
「熱いのが苦手です」
みふゆは指示された場所に白の碁石を置く。
「じゃあ屋敷にあるミストサウナってのを試してみろ。楓がえらく気に入っている。ドライサウナと違って穏やかだ」
「使ってみます」
貴之とみふゆは交互に黒と白の碁石を置いていった。
「・・次はここに置いてくれ」
貴之が白の碁石の位置を指示し、みふゆは従った。
貴之の黒の碁石が白に挟まれ、碁盤の一ヶ所が白に変わった。
貴之は「うーん、ここなんだよなぁ。ここで松田をやり込めないといつまでたっても奴に勝てん」としばらく考えあぐねていた。
「親父、入ってくれ」
京司朗が風呂からあがり、貴之に声をかけた。
みふゆが真っ直ぐな姿勢で下を向いてるのが見えた。
「・・・寝てるんじゃないのか?」
京司朗が貴之に言った。
貴之はタブレットの画面から顔をあげ、みふゆを見た。
みふゆがスースーと静かな寝息をたてていた。
「どうりで静かだと思ったぜ」
貴之が眠ってしまったみふゆを抱き上げた。
京司朗は寝室の扉を開け、貴之はみふゆをベッドに寝かせ、「みふゆのバッグもこっちに運んどいてくれ」と言って浴室へ向かった。
京司朗は言われた通りみふゆのバッグを寝室のソファの上に置いた。
キングサイズの京司朗のベッドに寝かされたみふゆはやけに小さく見える。
京司朗はベッドの側に近づき、みふゆの頬にそっとふれた。
すっかり寝入っているのか起きる気配はまるきり無い。
ふれた頬は柔らかい女の頬だ。
━━━妹になるのか
そう考えると複雑な気分になった。
心の奥底の灰暗い男の感情が浮き沈みしている。
京司朗は寝室の扉を静かに閉め、仕事をするため書斎に入った。
書斎のパソコンの前に座ると、ふと溜め息をついた。
みふゆと貴之の仲睦まじい姿が脳裏をかすめた。
京司朗の今夜の寝床は書斎のソファだ。貴之はリビングの、ベッドがわりにもなるカウチを使うことになっている。
貴之が風呂から上がって間もなくのこと。
22時30分。睡蓮川、氾濫。
朝、太陽の気配でみふゆは目覚めた。
カーテンが明るく染まっている。
見知らぬ部屋の見知らぬ大きな大きなベッドに寝ているのに驚いて飛び起きた。
━━━ああ、そうだ。ここは若頭のマンションだ。
カーテンが明るいということは晴れているということだ。
雨が止んでいるのだ。
━━━洪水は起きなかったかもしれない。
みふゆは這い出るようにベッドから降りた。
━━━なんて大きなベッド。いつの間に寝たんだろう。記憶がない。もしやまた組長先生に運ばせたのか。
ベッドのサイドテーブルのデジタル時計が6時52分を表示している。
━━━もうこんな時間!
みふゆは急いで着替えてリビングに行った。
貴之がコーヒーを持ち、テレビをじっと見ている。
「組長先生、おはようございます!起きるのが遅くなって・・」声をかけてみふゆの声は止まった。
テレビの画面には、水没した駅前商店街が映し出されていた。
楽しい夕食だった。
不安は払拭され、気分は安らいだ。
夕食後、みふゆは後片付けを手伝い、終わると先に風呂を勧められた。
柔らかな白で統一された洗面所には脱衣場への扉があり、脱衣場のクローゼットの上の棚には数枚の白いバスタオルとフェイスタオル、ハンガーには白のバスローブが三枚かけてあった。その下にはドラム式の洗濯機がある。
トイレは洗面所の隣にあった。なかには専用の洗面所があり、かなり広いトイレだ。
浴室にはサウナと水風呂もあり、バスタブはジェットバスだと使い方を教えてもらった。
サウナも使っていいと言われたが熱いのは苦手だと遠慮した。
みふゆの頭の中で大事な事柄は、サウナよりジェットバスより 『下着を持ってきてよかった』だった。
パジャマがないが、幸いジャージをバッグに詰めてきた。パジャマのかわりにしよう。豪華なマンションには似つかわしくないジャージだが。そんなことを考えていると、
「洗いたいものがあったら使うといい」
京司朗がクローゼットの中のドラム式洗濯機を指した。
ドラム式の洗濯機は乾燥機もついている。脱いですぐ洗濯すればお風呂を出る頃には乾いているかもしれない。みふゆは「ありがとうございます」とホッとした。
貴之が「これを着てくれ」と箱を持ってきた。
開けると浴衣とレースのカーディガン風の羽織が入っていた。
薄いピンクと水色の浴衣にレース羽織はベージュっぽい白が二枚。
「寝巻き用の浴衣と上に羽織る茶羽織だ。藤原が帰り際に俺に寄越した」
『もしやお嬢様は寝巻きのご用意をされていないのでは?』
呉服屋の主・藤原が言ったのだという。
「さすが藤原の当主ですね。洞察力とさりげない気遣いが素晴らしい」
いきなり敬語になった京司朗が貴之に冷たい笑みを向け、貴之は、
「嫌味かそりゃ」
と凄んだ。
「嫌味以外に何があるんでしょうか」
京司朗の言わんとすることは、さしずめ『自分の着替えばっかり買いやがってこのやろう』、そんなところか。
敬語を続ける京司朗に、
「おい、お前とはいっぺん話をつけにゃあならんな」
「望むところです」
と、互いに睨みあった。
みふゆは慌てて
「ありがとうございます!助かりました!パジャマを持ってこなかったのでよかったです!」
と二人の睨みあいの間に立った。
貴之と京司朗がバスルームから出ていくと、みふゆは箱からピンクの桜の柄の浴衣を準備した。水色は桔梗の柄だった。気持ちのいい肌触りだ。
━━━明日にでも藤原さんにお礼を言いに行こう。
リビングに戻った貴之と京司朗はテレビはつけずに、ノートパソコンをのぞいた。
地元のテレビ局がネットでライブ中継をしている。
二人は睡蓮川の水位が危険水位に達しているのを確認した。
みふゆに教える気は、当然、無い。
貴之はみふゆの入浴中に、今日花屋で起こった出来事と事後処理の報告を受けた。
みふゆには見張りがついていたのに、肝心な時に見張りが動けなかったこと。
みふゆにわからぬようにつけられた見張りは、花屋の向かい側のビルの事務所にいたのだが、連続した雷で電気系統に異常が出て、事務所のオートロックがかかったまま解除が出来なくなったのだ。その為見張りは事務所内に閉じ込められ動けなかったというのが事の顛末だった。
「オートロックも考えようだな」
「通常の鍵にします。あの事務所は詰所として使っているだけなので十分でしょう。あと、逃げた男ですが、最近商店街をうろついていると報告のあった男と同一人物でした。今後見ることは二度とないでしょうが」
上司と部下の関係に切り替わっている貴之と京司朗。
逃げた茶髪男の行方は京司朗しか知らない。
おずおずと、みふゆが風呂から出てきた。
ピンクの浴衣とレースの茶羽織を着たみふゆを見て、「かわいいじゃねぇか」と貴之の目尻が下がった。
みふゆは「そ、そうですか?」と恥ずかしげにうつむいて、「あの・・洗濯機の乾燥がまだ終わらなくて・・」と遠慮がちに告げた。
「俺が風呂から出てくる頃にゃ終わるさ。京、お前先に入れ。俺は最後にゆっくりと歌いながらでも入るからよ」と貴之が言った。
京司朗は進みかけた足をピタリと止め、「歌うのはやめてくれ」と言い切って風呂場に消えた。
「ちっ、風呂で歌う文化を失くそうとしやがる一派め」
貴之は京司朗が消えた風呂場に向かって愚痴った。
テーブルの上には、米と果物の改良に関する報告書があった。京司朗と話し合いをしていたのかもしれない。
「改良もしてるんですか?」
みふゆが聞いた。
「ああ、改良と言うより原種に近づけてるのかもな。・・まあ、それも改良だな。最近の米も果物も甘さばかりを追及して味に面白味が無えしな」と言い、「これは事業というより趣味みてえなもんだ」と貴之は微笑った。
「ところで、だ」
貴之が大きめのタブレットをテーブルに持ってきた。
「少し付き合ってくれ」と、囲碁のアプリを起動させた。
みふゆは笑顔で「はい」と答えた。そして、睡蓮川が氾濫しないようにと願った。明日の朝も、いつもの駅前商店街でありますようにと願った。
「ここのサウナもいいサウナだぞ。使ってみろ」
貴之が黒の碁石を置いた。
「ここのサウナ、使ったことあるんですか?」
みふゆは貴之の指示した場所に白の碁石を置いた。
「ああ。スッキリするぞ」
貴之が黒の碁石を置く。
「熱いのが苦手です」
みふゆは指示された場所に白の碁石を置く。
「じゃあ屋敷にあるミストサウナってのを試してみろ。楓がえらく気に入っている。ドライサウナと違って穏やかだ」
「使ってみます」
貴之とみふゆは交互に黒と白の碁石を置いていった。
「・・次はここに置いてくれ」
貴之が白の碁石の位置を指示し、みふゆは従った。
貴之の黒の碁石が白に挟まれ、碁盤の一ヶ所が白に変わった。
貴之は「うーん、ここなんだよなぁ。ここで松田をやり込めないといつまでたっても奴に勝てん」としばらく考えあぐねていた。
「親父、入ってくれ」
京司朗が風呂からあがり、貴之に声をかけた。
みふゆが真っ直ぐな姿勢で下を向いてるのが見えた。
「・・・寝てるんじゃないのか?」
京司朗が貴之に言った。
貴之はタブレットの画面から顔をあげ、みふゆを見た。
みふゆがスースーと静かな寝息をたてていた。
「どうりで静かだと思ったぜ」
貴之が眠ってしまったみふゆを抱き上げた。
京司朗は寝室の扉を開け、貴之はみふゆをベッドに寝かせ、「みふゆのバッグもこっちに運んどいてくれ」と言って浴室へ向かった。
京司朗は言われた通りみふゆのバッグを寝室のソファの上に置いた。
キングサイズの京司朗のベッドに寝かされたみふゆはやけに小さく見える。
京司朗はベッドの側に近づき、みふゆの頬にそっとふれた。
すっかり寝入っているのか起きる気配はまるきり無い。
ふれた頬は柔らかい女の頬だ。
━━━妹になるのか
そう考えると複雑な気分になった。
心の奥底の灰暗い男の感情が浮き沈みしている。
京司朗は寝室の扉を静かに閉め、仕事をするため書斎に入った。
書斎のパソコンの前に座ると、ふと溜め息をついた。
みふゆと貴之の仲睦まじい姿が脳裏をかすめた。
京司朗の今夜の寝床は書斎のソファだ。貴之はリビングの、ベッドがわりにもなるカウチを使うことになっている。
貴之が風呂から上がって間もなくのこと。
22時30分。睡蓮川、氾濫。
朝、太陽の気配でみふゆは目覚めた。
カーテンが明るく染まっている。
見知らぬ部屋の見知らぬ大きな大きなベッドに寝ているのに驚いて飛び起きた。
━━━ああ、そうだ。ここは若頭のマンションだ。
カーテンが明るいということは晴れているということだ。
雨が止んでいるのだ。
━━━洪水は起きなかったかもしれない。
みふゆは這い出るようにベッドから降りた。
━━━なんて大きなベッド。いつの間に寝たんだろう。記憶がない。もしやまた組長先生に運ばせたのか。
ベッドのサイドテーブルのデジタル時計が6時52分を表示している。
━━━もうこんな時間!
みふゆは急いで着替えてリビングに行った。
貴之がコーヒーを持ち、テレビをじっと見ている。
「組長先生、おはようございます!起きるのが遅くなって・・」声をかけてみふゆの声は止まった。
テレビの画面には、水没した駅前商店街が映し出されていた。
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