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福の音は、その先にある幸
2.光が見える先
しおりを挟む別れの兆しは、とても早かった。
止莉が5歳の頃、後継ぎに男の子がほしい妻の実家は
息子を養子に迎えたいと言い出した。
育てるなら早い方がいい…そう付け加えながら。
申し出は断ったが、忘れた頃に電話がきては繰り返されていた。
止莉が6歳のとき。
ついに義両親さんが、止莉を囲い始めた。
間が悪かった。
避けるのが難しかった。
仕事で帰りが遅くなる日が増え、誰かに預けるしかなかった。
一人にすると、法的に問題があるからだ。
体調に不安がある自分の親には一応お願いしたが、断られた。
二人ともますます仕事が忙しく、預かり先を見つける時間もなくなった。
結果、預かってもらうことが増えた。
ついに、親より祖母の方がいいと言った止莉。
それから、妻は、壊れ始めた。
いや。出会った頃から、
壊れ始めていたのかもしれない。
身籠ったと報告すると喜んだ義両親は、
妻へ干渉していた。
聞いていて過剰だと思うほど。
理想の娘を演じる妻は、
さらに理想の母親と自分たちの常識を、
洗脳されていった。
善意で包まれた、
自覚のない悪意だった。
子供が生まれてからは、さらに、悪化する。
妻は、少しでも何かから外れると、
両親から罵声を浴びている…と言っていた。
そのせいか、
いつも何かに追われているようだった。
だから、理想でなくてもいいと、
何度も言った。
手放しても良い荷物を、肩からおろせるように。
おかげか、
少しずつ頼るようになってくれたのは良い兆しだった。
交際しているときも、そうだった。
だから、だろうか。
妻の感情が揺らぎ、
弱音を吐くのは、
いつも、二人きりのときだけ。
大丈夫だと抱き締めると、
静かに涙を流していた。
泣き疲れて眠るころには、
儚さを連想する青白い血色に赤みが戻っていた。
俺にできた限界は、
妻の中に染みついている『理想の彼女』と『理想の妻』像を壊すこと。
『理想の母親』であろうとする妻の傍にいることだけだった。
一ヶ月前。
妻の職場から、連絡があった。
終業した直後に倒れた、と。
上司の計らいで、
本来の終業時間を待たずに、
指定の病院へ向かった。
医者は、言った。
検査の結果、異常なし。
ストレスと過労が原因。
驚いたのは、そのあとだった。
対面した妻は、
子育ての記憶を失っていた。
何があっても怒鳴らず、叩かず、子供の前では夫婦喧嘩をしない母親だった。
母親として完全に壊れた妻は、
止莉を身籠ったことすら、忘れた。
止莉の7歳を祝って少し経った時だった。
話したのは、その一度だけ。
今までの不足を補うように眠る時間が多い妻は、
様子が安定するまで半月ほど病院にいた。
退院してからは、
両親の世話をしてもらう名目で実家にいてもらった。
女の子がほしかった両親は、日ごろから気にかけてくれていて、
即答で歓迎してくれた。
家に帰ると、『お母さん』と無邪気に妻を呼ぶ息子がいる。
記憶がない妻から見れば、知らない子供。
戸惑いながら、他人行儀に接する生活になっても、おかしくない。
しかし、それを身に受ける子供の気持ちは…想像以上だろう。
義両親と話し合った結果、
1ヶ月以内に記憶が戻らなければ、
止莉は義両親が育てることになった。
子供の意思は確認する、という約束で。
子育てに関わる記憶がない妻。
止莉は祖父母を拒否しなかった。
約束通りに、止莉を養子に出した。
止莉と俺たちは、
養育費だけで繋がる親子になった。
妻が倒れてから二か月が過ぎた。
息子がいない、いつもの家の、寝室。
先に布団の中で眠そうに待っている妻の隣へ寝ころぶ。
「陸空。忘れ物は、ないかしら…」
うつら、うつらと、今にも眠りそうな声。
「漣音。大丈夫だよ。
手土産のお菓子は、漣音が昨日、
仕事の選んで帰ってきた。
泊まることはないから、荷物は、いつもの外出同じ」
心配性の妻は、
小さなことでも不安になる。
少しでも外れると罵倒されるかもしれない怖さは、
直らないらしい。
血色の良い肌が、少しだけ白い。
「うん。そうよね。
好きなお菓子も陸空に聞いたから…」
「うん、しっかり聞かれたね。
だから、大丈夫」
「だいじょうぶ…」
まだ、不安が残っているような声。
おそらく、
現実で起こってもいないことが、
妻の頭の中に渦巻いているのだろう。
顔色がやや青白い。
その痛みが少しでも和らぐように、
そっと抱き締める。
「あのな、漣音。先に言っておくよ。
忘れ物があったとしても、
親は怒らない。
望まれているのは、お菓子ではなく、
陸空と俺が元気な姿で行くことだよ」
「うん」
安心したように眠り始めた妻を腕に抱いたまま眠る。
どうか、明日が、少しでも安らげる日になりましょうに。
俺がほしいのは、妻が、家族が穏やかに暮らせる時間だけ。
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