一線の越え方

市瀬雪

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一線の越え方

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 いつも入り慣れている我が家なのに、やけに緊張してしまったのは居ると思っている直人が、もしかしたら待ちくたびれて帰ってしまったのではないかという不安を覚えたからだ。

 見るとはなしに腕時計に視線を落とすと、十時半を過ぎたところだった。

(結構微妙な時間だよな)

 朝、と呼ぶにはいささか遅い、中途半端な時間帯。
 直人が待ちきれず帰宅してしまっていたとしても、無理はないように思われた。

 そんな不安にかられながら窺い見るように自室の窓を見上げると、ベランダにスパロウの鳥かごが吊るされているのが目に付いた。

 彼の鳥かごには、防寒のために俺お手製のビニールカバーが被せてある。それを見た直人が、俺が昼間は鳥かごを外に吊るしていることを察してくれたんだろう。

 何も言わなくてもそこまで分かってもらえたことが、やけに嬉しかった。

 中で元気に動いている愛鳥の影を確認したと同時に、外へ彼を出してくれたのは間違いなく直人だと確信する。

 直人が、まさか夜通しスパロウを外へ出しておくような真似をするはずがない。
 少なくともかごを吊るしたのはベランダに陽が当たり始めてからだろう。

 ならば、直人は今も尚、あの部屋で待ってくれているはずだ。

 そう思い至った途端、俺はホッとして身体から力が抜けていくのを感じた。
 そんな気配りの出来る直人が、成り行きとはいえ他者と交わした約束を違えるはずがない。

 そう、自分に言い聞かせると、俺は階段へ足をむけた。

 家のドアに手をかけると、俺の帰宅を想定してか、鍵はかかっていなかった。

 案外すんなり開いたドアに、少し気が抜ける。

「ただいま」

 何となく遠慮がちにそう声を掛けてから、玄関に足を踏み入れる。
 ふとそこで、玄関先に、俺のものではない靴がそろえられているのに気付いて、少し頬が緩む。

「……直人?」

 玄関のドアが開閉した音で、俺が帰宅したことに気付いてもおかしくないはずなのに、彼が一向に姿を現さないことに、俺はちょっと緊張した。

(……俺、何か怒らせたか?)

 咄嗟にそんなことを考えてから、身に覚えがありすぎて戸惑う。思い返せばあれもこれも直人を怒らせる材料になりそうで……。でも決定打は思いつかなくて……。

 足音を忍ばせてキッチンを横切った俺は、リビングとの仕切りになっている引き戸をそっと開けた。

 部屋の中に電気はついていなくて――でも、窓から差し込むレース越しの薄日で、仄かに室内は明るかった。

 その部屋の陽だまりの中、直人はソファに横たわっていた。

 それを見た途端、一週間ちょっと前の光景――直人が高熱で倒れたとき――が脳裏を過ぎって、俺は慌てて彼の傍に駆け寄った。

 しかし……。

 近付いてみれば直人は気持ち良さそうに寝息をたてているだけで。

(寝てるのか……?)

 その事実にホッとして力を抜くと、無防備に眠る直人の顔を見詰めた。

「上に何もかけないで寝ちまって……。また風邪がぶり返すぞ」

 退院直後の人間が言う台詞じゃないが、そんな風に思ってしまったのも事実だ。

 寝室から毛布を取ってきて上にかけてやると、その気配に直人が身じろぐ。
 その瞬間、俺の鼻先を直人の吐息が掠めて……俺は思わず動きを止めた。

 眼前で、薄く開かれた唇が酷く蠱惑的で――。

 俺は吸い寄せられるように直人に口付けた。
 そうしながら、手は今かけたばかりの毛布の中に潜り込む。

 直人が目を覚ましたら驚くだろうな。
 いや、それともやっぱり怒るだろうか?

 手に吸い付くような、直人の滑らかな肌の感触を楽しみながら、俺は頭の片隅でそんなことを考えていた。
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