一線の越え方

市瀬雪

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一線の越え方

20...距離【Side:三木直人】

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 目の前で彼が食事をする間、交わした会話は他愛も無いものが少しだけ。
 正直、何度も席を立つ機を窺っていたけれど、それも結局実行には移せなかった。

 何故だか理由は解からない。
 ただ、この状況で彼を独りにさせるのは、可哀想かなとか、寂しいかな、とか。思ったのかもしれない。

 彼は俺の持ってきた差し入れを何一つ残すことなく綺麗に食べて、俺の貰ってきたお茶も一口も残さず飲み干した。
 大したものでも、大した量でもなかったけれど、それだけのことが少し嬉しく思えた。

(…イヤ、これは普通。普通……)

 時々、何もかも許してしまいそうな心地になっている自分に気付いて、そのたびそれを否定した。
 だけどそこに、微かな矛盾と言うか、違和感を抱き始めていることも否めない。

 そしてそれを考えていると、頭の中がぐちゃぐちゃになって、一層どうしていいのか解からなくなったりもする。

 実際、その所為で、俺はあんなことをしてしまったと言ってもいい。
 そうでなければ、あんな理解を超えるようなこと、俺がするはずないんだから。

 とにかく、彼が眠っていてくれて良かった。
 気付かずにいてくれて幸いだった。

 と、思うものの――。

(……でも、それだと結局何も変わらねェんだよな)

 既にすっかり陽も落ちて、明度はまだあるものの、薄暗いとも言える病室で、俺は無意識に視線を落としていた。

「直人、ちょっとこっち来いよ」

 いままで交わしていた会話と言えば、コンビニの飯もなかなかいけるとか、何故か俺の学校の話とか。
 正直なんでこんな話してるんだろうって思うようなものばかりだったけど、そんな不自然で自然な話題は、俺の緊張を程よく解してくれてはいた。

 意図的に、少し距離を置いて椅子に座っていた俺も、そうして話しているうちに、声の大きさを気にしてか、無意識に少しずつ距離を詰めていたくらいだ。

 もちろん、まだ手を伸ばせば届くような距離ではない。
 でも、それは一方からの話で、お互いが伸ばせば難なく届く距離でもあった。

「…直人?」
「……なんで」
「別に。顔くらい見せてくれてもいいだろ」

 俯きがちだった顔を仕方なく上げて、僅か上目に彼を見遣ると、言葉に反して酷く穏やかに笑う彼の表情に少し驚く。

 少し…いや、内心はかなり驚いた。

 そんな風に笑うことが出来るヤツだったなんて、思っていなかったから。

「…ここでも顔くらい、見えるだろ」

 言いながらも、気がつけば俺は腰を上げていた。
 その反した行動を目にした彼が、僅かにまた笑みを深める。

 言われるまま、ベッド脇まで近づくと、

「素直だな」
「…うるさい」

 ぽつりと零した彼はどこか嬉しそうで、けれど俺は、とにかく気恥ずかしさが増すばかりだった。

 すぐ傍らに立っても、いや、間近だからこそ、俺はますます顔を上げられなくなって、

「やっぱ、そろそろ帰るよ」

 あまりの居た堪れなさに、俺はすぐにその場を離れようとした。

 けれどその手を、彼が掴む。
 途端、過剰なほどに身体が揺れた。

「…答え、出したくて来たんじゃねェのか。――出たから、来たんじゃねェのかよ」
「離、し……」
「もう、逃げるなよ」

 手首に絡む彼の指先に、微かに力が込められる。
 痛いわけでもないのに、そんな錯覚がして俺は僅かに瞳を眇めた。

 だって痛いのはそこじゃない。

 振り返ることはできないまま、その手を振り解くことも出来ず、俺は返すべき言葉を探した。

「こっち向け、直人」

 だけど、どんなに必死に探しても、この場をはぐらかすだけの言い訳も出てこなかった。

 声と共に、促すだけのような強さで手を引かれ、俺はゆっくり振り返る。
 もう逃げられないと、自分でも思った。だからそうして、今度はちゃんと彼を見た。

 見たところで相変わらず俺は何も言えず、ただそこに立ち尽くすしかできなかったが――。

 するとややして、ギシ、とベッドが軋む音がした。

「――本気で嫌なら殴れ。この際頭でも構わねェから」

 彼は俺の手首を、掴むよりは触れるだけのような力で捉えたまま。
 酷くゆっくりとした仕草で、起こしていた上体を更に屈め、俺の顔を覗き込んだ。

 緩く頭を傾いで、次第に詰められる距離に、先に待っているものを予測するのは容易い。

 けれど俺はその場から動けず、拒絶の言葉も告げられず――。

 やがて重ねられた唇の感触に、ただきつく目を閉じただけだった。

 俺が逃げなかったからか、思いの外長く、唇は重ねられたままだった。

「……お、前…」

 そうして、名残惜しいように口付けを終えたのち、彼が呟く。
 その表情は、珍しく驚きを隠せていない。

「………」

 依然として俺は何も言えず、けれど心の中で、

(……嫌じゃ、なかった…)

 何度自分に問いかけても、その答えだけは変わらなかった。

「直、人……」

 手首に触れている手は、離れていない。
 俺が逃げ出さないよう、繋ぎ止めているみたいに。

 だけどそこに力は殆ど入っていなくて、だからそれを言い訳にすることももう出来ない。

 もう一方の彼の手が、俺の頬へと伸ばされる。
 壊れ物に触れるようにその表層を撫で下ろし、やがて指先が辿りついたのは耳元、そして顎先。

 僅かに上向くことを促され、俺は大人しくそれに従った。

「――…っ」

 再び唇が重なった。しかも今度は、先刻のものと違って口付けの角度が深い。

 顎先に添えられていた手が後頭部へと滑り、引き寄せられるように力が込められると、俺はよろめきかけた身体を支える為に、両手をベッド上へと咄嗟についた。

 それでも口付けは離れずに、それどころか唇の合わせを辿る舌先が、隙間から内へと入り込んできて、俺は思わず息を呑んだ。

「ぅ…、ん…っ……」

 反射的に逃げかけた舌先を捉えられ、柔らかく絡めて吸い上げられる。
 解けない余計な強張りが、舌の根を攣るように震わせて、そのくせ時折走る甘い痺れに、危うく自重を支える腕にも力が入らなくなる。

 胸が切なく疼いて、熱っぽいのに、寒いみたいに背筋が粟立つ。
 鼻に抜ける吐息が自分のものじゃないみたいで、自覚するたび、気恥ずかしさに眩暈がしそうだった。

 以前のような性急さはどこにも無くて、彼の仕草は何もかも緩やかで優しく思えた。

 呼気を逃がす間に一端唇が離れても、すぐに角度を変えて繰り返される口付けに、飲み込み損ねた唾液が口端から伝い落ちる。

 ベッドへとついていた手が、知らず縋るようにシーツを握り締めていた。

「……本当に、その答えでいいのか」

 ようやく解放された唇は、どちらのものともつかない唾液に濡れているのが明らかで、俺は茫洋とした意識のまま、手の甲で口元を軽く拭った。

 当然のように視線は上げられず、伏目がちのまま浅くなっていた呼吸を整えていると、彼が幾分不安げな声音で問いかけてくる。

「直人……」

 俺の反応を確かめるように、再び名を呼ばれる。けれど、

「…つか、いつ俺呼び捨てしていいって言った……?」

 もう何度そうされたか分からないのに、今更俺の口をついたのはそんな言葉だった。

 彼の言葉を、否定はしていない。けれど、肯定もしていない。
 それでも、きっと気持ちは伝わるだろうと思った。

 もちろん根拠はどこにも無かったが、――それは確信に近かった。
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