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一線の越え方
16-2
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これではまた彼を怒らせてしまうかもしれない。
思っても、もう遅い。
俺は手の中のタオルを密やかに握り締めた。
恐らくは俺の熱を下げる為に、彼が何度も取り替えてくれたのだろう濡れタオルを。
「…それもこっちの台詞」
けれど、予想に反して彼は声を荒げることもなく、静かに俺の傍へとやってきた。
ベッドの傍らに足を止め、溜息混じりにそう言うと、俺の手の中からタオルをそっと取り上げる。
上体だけ起こした格好の俺は、その仕種を自然と見上げる形で追って、ようやく、
「ごめん。…迷惑かけて」
一番最初に言うべき言葉を、ぽつりと今更に口にした。
どれだけ彼の手当てが的確だったのか、目を覚ました時には俺の熱は随分下がっていて、ベッドを降りても眩暈に視界が揺らぐようなことも一切無かった。
夜更けだから朝まで泊まっていけとも言われたけど、結局俺は首を縦には振らなかった。
すると彼は、頑固なヤツだなと零しながらも車のキーを手にとって、
「送ってやるから来い」
短く告げると、今度はもう有無を言わさぬ勢いで、俺の腕を掴み車の助手席に放り込んだ。
(…こんなことしてたら、アンタこそ明日の仕事に響くんじゃねェの)
思うものの、口にはできず。
仕方なく俺は、大人しく走り出した車の中で窓外を流れる景色をぼんやり眺めていた。
彼の部屋から、俺のアパートまでは、そう遠くない。
なのに気まずい沈黙の所為か、妙に時間が長く感じられて、見慣れた景色が見えてきた時には思わずほっとしたものだった。
「…あの、どうも」
アパート前の道路に車を止めてもらうと、俺は早速扉に手をかけた。
けれどすぐには開かなくて、ああ、ロックされてるのかと遅れて気付く。
乗り慣れない車の仕様で、一瞬指先が迷っていると、
「お前さ。……気持ちが無ェヤツとって前、言ったけど」
「…え……」
「こないだ、言っただろ。――俺がお前を、押し倒した時」
前方を見据えたまま、彼が抑揚も乏しい声で話しかけてきて、俺は思わず振り返った。
「…その話、俺はしたくねェんだけど」
「いいから聞けよ」
唐突に、彼がしゃべりだしたことにも驚いたのに、内容を把握すればますます俺は困惑を隠せない。
俺は再び扉に向き直り、どうにか鍵を開けようとしたが、運転席側でロックを抑えられていてはそれも叶わず、
「あのときお前、気持ちがどうとかは言ってたが、……男を相手にそんなこと、とは言わなかったよな」
「……そうだな。ンなこと、そもそも考えたことも無かったからな」
仕方なく俺は吐き捨てるようにそう答え、いいからドアを開けろと端的に促した。
が、それに彼がすぐに応じることは無く。どころか、
「じゃあ、これから考えろよ」
次がれた言葉に、俺は思わずびくりと肩を揺らしてしまった。
「…は……、なに、言って」
「俺は相原を、お前の代わりに抱いてたんだよ」
扉に手をかけたまま動けなくなる。彼の目はこちらに向いてはいないのに、何だか全身にその視線を感じるような心地がした。
「まったく気付かなかったわけじゃねェよな。だからわざわざうちまで来たんだろ。――ホントは死ぬほど来たくなかったくせに」
外界が暗い所為で、鏡面になった窓ガラスに、相手の横顔がはっきり映っていた。
その表情は、平静を装いながらも、よく見れば僅かに歪んでいる。
せつなげとも、苦しげともとれるその面持ちに、何故か酷く胸が痛んだ。
「相原とはもう別れる。――直人、今の言葉、ちゃんと考えてみてくれ」
「……ンなこと、言われても…」
呟いたのは、半ば無意識。だけどもう、それ以上の言葉は何も出てこなかった。
同時にロックが解除されて、俺は静かにドアを開けた。
「無かったことにだけはしてくれるなよ」
無言のまま車を降りて、外からドアを閉める際、幾分虚ろな眼差しで彼を一瞥すると、その視線がようやくこちらを向いて、
「――頼むから」
最後にそう言い残し、彼は俺の目の前から走り去って行った。
思っても、もう遅い。
俺は手の中のタオルを密やかに握り締めた。
恐らくは俺の熱を下げる為に、彼が何度も取り替えてくれたのだろう濡れタオルを。
「…それもこっちの台詞」
けれど、予想に反して彼は声を荒げることもなく、静かに俺の傍へとやってきた。
ベッドの傍らに足を止め、溜息混じりにそう言うと、俺の手の中からタオルをそっと取り上げる。
上体だけ起こした格好の俺は、その仕種を自然と見上げる形で追って、ようやく、
「ごめん。…迷惑かけて」
一番最初に言うべき言葉を、ぽつりと今更に口にした。
どれだけ彼の手当てが的確だったのか、目を覚ました時には俺の熱は随分下がっていて、ベッドを降りても眩暈に視界が揺らぐようなことも一切無かった。
夜更けだから朝まで泊まっていけとも言われたけど、結局俺は首を縦には振らなかった。
すると彼は、頑固なヤツだなと零しながらも車のキーを手にとって、
「送ってやるから来い」
短く告げると、今度はもう有無を言わさぬ勢いで、俺の腕を掴み車の助手席に放り込んだ。
(…こんなことしてたら、アンタこそ明日の仕事に響くんじゃねェの)
思うものの、口にはできず。
仕方なく俺は、大人しく走り出した車の中で窓外を流れる景色をぼんやり眺めていた。
彼の部屋から、俺のアパートまでは、そう遠くない。
なのに気まずい沈黙の所為か、妙に時間が長く感じられて、見慣れた景色が見えてきた時には思わずほっとしたものだった。
「…あの、どうも」
アパート前の道路に車を止めてもらうと、俺は早速扉に手をかけた。
けれどすぐには開かなくて、ああ、ロックされてるのかと遅れて気付く。
乗り慣れない車の仕様で、一瞬指先が迷っていると、
「お前さ。……気持ちが無ェヤツとって前、言ったけど」
「…え……」
「こないだ、言っただろ。――俺がお前を、押し倒した時」
前方を見据えたまま、彼が抑揚も乏しい声で話しかけてきて、俺は思わず振り返った。
「…その話、俺はしたくねェんだけど」
「いいから聞けよ」
唐突に、彼がしゃべりだしたことにも驚いたのに、内容を把握すればますます俺は困惑を隠せない。
俺は再び扉に向き直り、どうにか鍵を開けようとしたが、運転席側でロックを抑えられていてはそれも叶わず、
「あのときお前、気持ちがどうとかは言ってたが、……男を相手にそんなこと、とは言わなかったよな」
「……そうだな。ンなこと、そもそも考えたことも無かったからな」
仕方なく俺は吐き捨てるようにそう答え、いいからドアを開けろと端的に促した。
が、それに彼がすぐに応じることは無く。どころか、
「じゃあ、これから考えろよ」
次がれた言葉に、俺は思わずびくりと肩を揺らしてしまった。
「…は……、なに、言って」
「俺は相原を、お前の代わりに抱いてたんだよ」
扉に手をかけたまま動けなくなる。彼の目はこちらに向いてはいないのに、何だか全身にその視線を感じるような心地がした。
「まったく気付かなかったわけじゃねェよな。だからわざわざうちまで来たんだろ。――ホントは死ぬほど来たくなかったくせに」
外界が暗い所為で、鏡面になった窓ガラスに、相手の横顔がはっきり映っていた。
その表情は、平静を装いながらも、よく見れば僅かに歪んでいる。
せつなげとも、苦しげともとれるその面持ちに、何故か酷く胸が痛んだ。
「相原とはもう別れる。――直人、今の言葉、ちゃんと考えてみてくれ」
「……ンなこと、言われても…」
呟いたのは、半ば無意識。だけどもう、それ以上の言葉は何も出てこなかった。
同時にロックが解除されて、俺は静かにドアを開けた。
「無かったことにだけはしてくれるなよ」
無言のまま車を降りて、外からドアを閉める際、幾分虚ろな眼差しで彼を一瞥すると、その視線がようやくこちらを向いて、
「――頼むから」
最後にそう言い残し、彼は俺の目の前から走り去って行った。
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