一線の越え方

市瀬雪

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一線の越え方

06-2

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「…いや、初対面って……あ、そうか」

 携帯が水溜りにぼちゃん――な事態は何とか回避できたものの、そのどこか突き放すような物言いに、俺は思わず言い返しそうになる。
 が、よく考えれば自分だってちょっと立ち寄っただけのコンビニの店員の顔なんて、憶えている方が珍しいくらいなんだから、当然と言えば当然かもしれない。

 俺はあっさり思い直すと、とにかく抱えていた紙袋を真っ直ぐ差し出した。

「これ、アンタ――や、お兄さんの忘れ物。お釣りも一緒に入れてあるから」
「忘れ物? …釣り?」
「そう。あ、ちょっと濡れちゃったけど、中身は無事なはず」

 不審そうに、すぐには受け取ってくれない紙袋が、更にぽつぽつと水滴の染みを広げていく。

 俺は焦れた風に再度僅かに手を掲げ、

「…あー」

 漸く何かに思い至ったらしい彼がそれを受け取ると、早速空いた手を外套のポケットに突っ込んだ。
 雨に濡れていた所為か、指先は案外冷えていた。

「とりあえず、渡したからな」

 ダメかと思っていた用も無事済んで、俺は改めてほっとする。

 ほっとすると、思い出したように時間が気になって、携帯を取り出そうとするが、

「あ、あのさ、携帯……どうも」

 そう言えば落としかけたのを受け止めてもらったきり、返して貰ってなかったことを思い出す。

 ついでに、何を考え込んでいるのか、急に無言になってしまった彼の顔を、そっと覗きこんでみる。

 肩に引っ掛けていた傘を持ち直し、ポケットに入れていた手を再び差し出して、

「…ちょっと、お兄さん?」

 促すように、もう一度声をかけながら。

「……え、な、なに」

 と、今度は急にばちりと目が合う。

 彼の挙動が読めなくて、俺は僅かにたじろいだ。

「礼がしたいから番号よこせ」
「は……?」

 しかも、やっと口を開いたかと思えばそんな言い方で、俺は一瞬呆気に取られる。

 するとその隙に彼は、勝手に俺の携帯を使って、自分の携帯をワンコールだけ鳴らして切った。

 そこに到るまでの動作は、本当にあっと言う間だった。
 あまりの手馴れた様子に、うっかり口を挟むこともできなかったくらいに。

「え…っ、いや、何して…っていうか、礼なんてホントいらねーから!」

 が、やがてもう用済みだとばかりに携帯を差し出されれば、さすがに俺だって我に返る。

 慌てて奪うようにそれを受け取ると、俺は小さく頭を下げて、くるりと背を向けた。

「じゃ、じゃあな!」

 そしてそのまま、逃げるように走り出した。

 当初の目的の通り、学校に向かって、ただひたすらに。
 未だ勢いの止まないどしゃぶりの雨の中、一度も振り返ることなく、それこそ息が続く限りに。





 学校に着くと、こんな日に限って次の講義は休みだった。

 休講なら休講だと先に連絡をくれればいいものを、今日になって急に変更になったらしく、授業に出る予定だった生徒からはあからさまに不満の声が上がっていた。

 まぁそれはそうだろう。
 晴れた日ならともかく、こんな天気が悪い日に、苦労して来てみたらいきなり休講でしたなんて、正直俺だってちょっとむかついた。

 むかついたからって、別に何をするわけでもないんだけど。

「あーもう…。つか、もう今日は帰ろうかな」

 一応、更にその後の講義も、受けるつもりはあったんだけど……なんだか急にやる気がなくなった。

 出席日数は足りているし、提出しなければならない課題があるわけでもない。

(いいや、帰ろ)

 そう思った俺は、掲示板の前からふらりと踵を返し、ビニール傘を片手に再び雨の中に踏み出そうとした。

「あ、丁度良かった! ちょっと待って下さいよ、三木先輩!」

 と、不意にその背後から聞き憶えのある声が響き、俺はその寸前で足を止める。

 振り返ると、先にある図書館の玄関から、片手を頭上に走ってくる人影が一つ目に入った。

「なんだ、相原じゃん」

 彼は相原真琴と言って、たまたま出身校が同じだった一つ下の後輩だ。

 だからと言って、高校時代は特別親しかったわけでもないが、彼が俺の現在のバイト先に短期で入っていた時期があり、それをきっかけにそこそこ話をするようになっていた。

「本当は、もう帰ろうと思って一度学校出てたんですけど…通りで学校(こっち)に向かう先輩を見かけて、戻ってきたんです」
「へ、あ、そうなの?」
「はい、久しぶりに、お話できたらいいなぁって思って」

 だから、これからもし時間があるなら、軽く飯でも食べに行きませんかと誘われて、断る理由もない俺はあっさり頷く。

 向かった先は、近所のファミレスだった。俺の希望で。移動手段は相原の車。

 彼は十八歳で免許を取るなり、すぐに親から車を与えられていて、二十歳の誕生日には早くも三台目の愛車を所有していた。

 そう、早い話が彼の実家は裕福なのだ。俺みたいなごくごく普通の一般家庭とは一線を画すような。

 それでも、彼は何だか憎めないキャラだった。その境遇を、単純に羨ましがられることはあるにしても。
 理由はそのあどけなさの残る表情や、屈託の無さそうな雰囲気の所為かもしれない。

 ともあれ、俺は促されるまま彼の車に乗り込んで、早々に構内を後にした。

「俺、少し前から、ジムに通い始めたんですけどね」

 そして店に着き、注文した料理がテーブルに並ぶと同時。
 彼はいつもと変わらない幼げな笑顔で、そんなことを言い出した。
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