一線の越え方

市瀬雪

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一線の越え方

06...転機【Side:三木直人】

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(眠い……)

 結局、帰宅してすぐ眠りに就いたものの、数時間も経たないうちに激しい雷鳴と雨の音に叩き起こされた。

 バイト中は立ったまま寝てしまいそうなほど眠たかったはずなのに、二度寝をしようにも熟睡できず、仕方なく俺はベッドを下りた。

 ワンルームの部屋の中央に置かれたテーブルには、学校に行く前にでも食べようと思っていた菓子パンが二つと、昨夜店から持って帰ってきた小さめの紙袋が一つ。

(そうだ、これを届けてやらねーと……)

 俺は欠伸をしながらそれを目に留め、改めて時計を見た。

「九時すぎか…」

 学校までの道のりは、歩いていくと三十分はかかる。

 いつもは原付で通学しているからそう遠くは感じないが、本日は生憎の雨模様。しかもどしゃぶり。雷だって、未だ止んでいない。
 それ用のレインコートは一応持っているけれど、だからってこんな日に原付に乗るのは、正直あまり好きじゃない。

 学校までならバスもあるけど、それはそれでお金が勿体無い。なんたって貧乏学生だ。歩けば歩ける距離だけに、その選択肢は容易には選べない。

 それに、例の工事現場はその途中に存在していたりする。

「しゃーねー、歩いてくかぁ」

 食べ終えた菓子パンの袋をゴミ袋に突っ込んで、俺は窓の外を眺めながら盛大な溜息を吐いた。

 とは言っても、日頃使わないだけに、うちにはまともな傘が無かった。

 唯一使えそうだったのは、以前出先で急を要して買った、小さめのビニール傘一本だけ。
 半ば使い捨てとも見えそうな貧相なそれを仕方なく開いて、俺は家を後にした。

 普段使いの鞄は斜めがけで、身体には添っている。が、素材が帆布なので防水は宛てにならない。

 なので俺はひとまず、届け物の袋だけはできるだけ濡れないようにと、胸の前で抱えて持っていた。

(…あそこ、だったよな)

 二十分ほど歩いたところで、漸く目的の工事現場が見えてくる。

 微妙に水捌けの追いついていない歩道を歩きながら、俺は雨に霞む視界に目を凝らした。

「……あ」

 だけど、その後まもなく、俺は短い声を上げた。

 工事現場でよく見かける目隠しのような衝立の隙間から、思い切って中を覗いてみると、

「や、休み…?」

 そこには誰の姿も無かったのだ。

「そりゃそうか…こんな天気じゃ……」

 どうして気付かなかったんだろう。

 この現場はどう見ても吹き曝しなんだから、素人判断でも、悪天候で作業が中止になる可能性なんて、いくらでも考えられたはずだ。

 俺は溜息と共に肩を落とした。
 視線まで落とすと、びしょ濡れになった足元が目に入る。

 ますます気鬱になってきた。

「どうするかな……つーか、もう、店に自分で取りに来いっての」

 幾度となく溜息を吐き、終いには八つ当たりめいた独り言が口をついたけれど、かと言って何の解決にもならず、俺は仕方なく再び辺りを見渡した。

 と、すぐ近くに看板のようなものを見つけ、俺はふらりとその前まで歩いて行く。

「あ、連絡先あるじゃん」

 そこに書かれた文字の羅列の中に、会社の電話番号らしきものを見つけ、俺は思わず携帯を開いた。

(…山端逸樹……やまはし?)

 ついでに、目に付いた人名も声に出さずに読んでおく。

 だけど――。

(つか、電話したところで、いったい誰を呼び出して貰うんだよ)

 ここにある名前の人だって、あの客であるとは限らないし…。

(いや…そもそもこんなもんのために、わざわざ会社に電話すんのもどうなんだ)

 すぐにそうも考えて、俺は暫く携帯の画面を見詰めたまま佇んでいた。




「――何か問題でも?」

 没頭していたつもりはなかったが、いつのまにか携帯の画面が水滴で濡れていたことにも、気付いていなかった。

 だから、車の音にも気付かなかったのかもしれない。

 俺は間近で直接声をかけられて、漸くはっとして顔を上げた。

「あ! アンタ…!」

 営業用とでも言うのか、妙に柔らかく聞こえた声は、昨夜の印象とは随分違っていたけれど、顔を見ればすぐに分かった。

 俺は不躾にも相手を指差し、うっかりその手に持っていた携帯を落としそうになる。
 雨に濡れている所為で指先が滑り、堪えようにも堪え切れない。

「…!」

 焦った俺は、慌てて手を伸ばそうとしたが、

「初対面の男にアンタ呼ばわりされる憶えはねーんだけど」

 先んじて目の前の男がそれを受け止めていた。
 先刻とは打って変わって、冷めたような声音ではっきりそう告げながら。
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