一線の越え方

市瀬雪

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一線の越え方

04...最初の逡巡【Side:三木直人】

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 ばらばらと、音を立てて小銭がカウンターに落下した。

 そのいくつかは、更に床へと転がって、そう遠くない場所で小さな弧を描いている。

 思わず取り落としてしまったのは、返す予定の釣りだった。

(…いま何言った…? この人……)

 なのに俺は動けない。

 だって直前に告げられた言葉が、あまりにわけが解からなくて。

 それにこの、耳元に吐息が掠めるような距離だって、どう考えても単なる店員と客の距離じゃない。

 本当なら、すぐにでもお金を掻き集めるか、そうでなければ、もう一度レジから同じ金額のお釣りを返さなければならなかった。散らかった硬貨はそのあと拾うことにして。

 だけど俺は、そのどちらの行動にもすぐには出られなかった。
 仕事にはもう慣れたつもりで、少なくともいつもならそれくらい何でもないことだったのに。

「あーあ、何してくれんの」

 と、そんな俺の様子に呆れたのか、目の前の男は苦笑混じりに溜息を漏らし、存外あっさり身を引いた。

 そして自らの足元に散乱している小銭を一枚だけ拾い上げると、他は全て放置して店を出て行った。

 支払いを済ませた商品だけは、いつの間にかその手にぶら下がっていた。
 だけど個別に紙袋に入れるつもりで除けていたある商品だけは、カウンターの端に残ったままだった。

「…ぅわ! ちょ、これ……っていうか釣り!」

 暫く呆然としていた俺だったが、それをふと目に留めると、途端に時間が動き出した。

 残っていたのは、例の小箱。
 彼が今夜購入したもののなかで、恐らく唯一代替品が存在しないもの。
 それに、何より釣りも返しきれていない!

「…くっそ、追いかけるしか――」

 俺は慌てて床やカウンターに残っていた小銭を拾い集めると、まだ紙袋に入れていない箱を片手に店を飛び出そうとした。

 が、俺が辿りつく前に自動ドアが再び開き、

「すみません、ちょっと急いでるんですけど、この携帯で使える充電器って……!」

 駆け込んできたホステス風の派手な女性客に、結果としてそれを阻まれてしまう。

 俺は急く気持ちを押さえ、端的に接客すると、裏手にいるもう一人の店員に向かって声をかけようとした。

「……いや、もう無理か」

 急いでいるといった女性客は、買い物を済ませるなりすぐに店を出て行ったが、それでも時間にして5分近くは経過している。

 入れ替わるようにして入ってきた客は、彼女だけじゃない。
 その後も、数回扉は開き、現在も店内にはカップルらしき二人の客が残っている。

(さすがに、もういねーよな)

 俺は彼らがまだ精算する様子がないのをいいことに、再度カウンターを抜け出した。

 自動ドアの前に立ち、一歩だけ外にでて、周囲を一望してみるが、やはり例の客の姿はどこにも見当たらない。

(…拾ってったの、500円玉かよ)

 あの客に返すはずだった釣りは、咄嗟にジーンズのポケットに突っ込んでいた。
 俺はそれを無造作に掴み出し、開いた手のひらを何気なく見詰めた。

 残っていたのは、100円以下の硬貨のみ。釣りは700円程度あったのに、500円玉だけが無い。

(案外、せこいヤツなのか……?)

 言える立場ではないけれど、考えたら思わず笑いが込み上げた。

 俺はカウンターに戻り、端の方に投げたままだった小箱を、当初の予定通り透けない紙袋に入れた。
 釣りの方も一緒にそこに放り込み、口が開かないように封をする。

(面倒だけど……仕方ねー、届けてやるか) 

 店に置いといたって、商品が商品なだけに恐らく取りには来ないだろう。
 釣りも渡し損ねているけど、結果としてはそれも心の中で謝罪をしてすませるしかない。

 そう、普段なら、確実にそうしていた。
 だけど、俺は彼が日中、どこにいるのか知っている。

 待っていれば、再びここに来店することだってあるかもしれないけど、それがいつになるかはわからないし…。

(……つーか、元はといえば向こうが悪いんじゃねーか)

 そうだ。そもそもあの客――あの男が、いきなりあんなことを言い出さなければ。

 それも、あんな近すぎる距離で、囁くみたいに言わなければ――。

 俺だってあそこまでパニくることもなかったはずだ。挙句、こんな風に頭を悩ますことも。

(いや……)

 そうじゃない。そうじゃなかった。

 俺だ。俺の方だった。最初に妙なことを口走ってしまったのは。

 あの時俺があんなことを言わなければ、あの男だって変に冗談で返すこともなく、大人しく買い物だけして帰っていただろう。

(やっぱ、明日にでも届けてやろ……)

 気がつけば、盛大な責任転嫁の上、

「やっぱもういっかー」なんて楽観し始めていて、俺は慌てて考えを改める。

(明日って……)

 6時に店を上がって、翌日の講義は午後からだから、それまでは寝るつもりでいたけど。

 早めに起きれたら午前中、起きれなかったら午後の授業をふけるとかして…。

 とりあえずあいつがいるらしい現場を、一度覗きに行ってみようと思った。
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