瓶詰めの神

東城夜月

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第十六話 幼き日の記憶

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 夜明け前に川崎安奈かわさき あんなは部室棟に向かっていた。二木にきの話の真偽はわからない。だが、事実であった場合儀式は崩壊してしまう。それに、事実でなくとも自分と都丸とまるが戦うことで儀式が進むのだから、なにも問題はない。あの話を戯れ言と放置することの方が危険だった。
 しかし、一つ懸念があった。体がうまく動かないことだ。綾部拓巳あやべ たくみと交戦して揉み合った際に、彼の刃を腹部に受けてしまった。急所は外れたが、この傷のせいで発熱してしまったのか体が熱く、頭がぼんやりとする。儀式の遂行を見届けるにあたり、状況に対する体の反応が鈍っているという状態は不安要素であった。しかし、漫然と休んではいられない。
 二木の言っていたとおりなら、都丸はまだ部室棟で休んでいるかもしれない。川崎は足音を殺して部室棟に侵入した。部室棟で休める場所と言えば、茶道部の和室ぐらいしか思いつかない。階段を昇るだけで息が上がるのがもどかしい。茶道部の和室は三階の西端だ。階段を昇り切った瞬間、空気を切る音がした。
 咄嗟に鉈を振り上げると、腕に強い衝撃を感じると共に、耳障りな金属音が響いた。鉈に防がれた金属バットの向こう側に、都丸の顔があった。どうやら申し開きを聞く余裕はないようだ。鉈でバットを払い、一度距離を取る。
 お互いが振りかぶった得物同士が音を立ててぶつかり合う。互いに弾かれ、また激突する。川崎は怪我を悟られないよう慎重に立ち回る。弱味を見せた瞬間、そこに一気に付け入られるのは目に見えているからだ。
 都丸が川崎の頭部目掛けてバットを振り下ろせばひらりと躱し、川崎が都丸の胴体を狙って水平に鉈を振るえばバットで受け止められる。薄氷を踏むかのような遣り取りが続く。
 左斜め上から振り下ろされたバットを、鉈を縦に構えて受け止める。瞬間、僅かに右足が滑り、体勢が崩れそうになる。
 咄嗟に踏みとどまったとき、川崎の腹部に鋭い痛みが走った。右の太腿を血が伝っていく。綾部に刺された傷が開いたのだ。
 一つ綻びが生じると、糸が解けるように次々と状況が悪くなっていく。意識しないようにしていた熱で、意識が朦朧とし始めた。眩暈がする。
 歪む視界の中で、都丸が口角を吊り上げて、さながら化け猫のようにニタリと笑った。素早く体を捻るのが見える。このままフルスイングして、川崎の頭を吹っ飛ばす算段だろう。思わず固く目を閉じる。
 刹那、都丸の呻き声がしたかと思うと、川崎の体がふわりと浮いた。目を開けると、床には崩れ落ちた都丸と、野球の硬球が転がっていた。そして川崎は、儀式の参加者の一人──森山圭もりやま けいに抱えられていた。
 何を余計なことを、と言おうとしたが、意識が朦朧として舌が回らない。体温はますます上がっているようだ。視界が歪んで、ぼやけて、見えなくなった。

 森山が川崎と出会ったのは小学五年生の時だった。
 なんだか母親の様子がおかしいということには、子供ながらに気がついてはいた。やたら誰かと長電話をしていたり、祈り始めたり。そんなことが一年続いた頃、突然「集会」とやらに連れて行かれた。そこには自分達のような親子が沢山いて、休日の陽気さもあって学校のバザーのような空気さえ漂っていた。
 しかし、「祈りの時間」になると話は変わった。そもそも遊びたい盛りの子供が、神に祈れと言われて大人しくしていられるはずもない。すぐに飽きてしまった幼い森山は、それを知らない男に見咎められて、靴べらのような板で背中を叩かれた。
 その日家に帰るなり、母親に正座させられ延々と詰られた。お前のせいで恥をかいた、静かに祈れるように練習しろ、と怒り狂う母親は、今までどんな悪戯をしたときよりもヒステリックだった。
 それから週末は友達と遊ぶことも禁止され、どれだけ嫌がっても集会に引きずって連れて行かれ、その度に板で背中を叩かれ、母親に詰られた。
 ある日、あまりにもお祈りができないからと、最前列に引っ張られて座らされた。その時、隣の少女と目が合った。前髪が長く、隠れ気味ではあったが、つぶらな、大きな瞳だった。
 祈りの時間が始まると、少女は熱心に、微動だにせずに祈り始めた。それはさながら彫刻のような、あるいは精巧な人形のような姿だった。目を離すことができなくて、祈る振りをしながら薄目でずっと彼女の姿を見ていた。その日は、叩かれることはなかった。
 祈りの時間が終わると、彼女は俯いたまま、逃げるように広間を出て行ってしまった。
 その日から、森山は祈りの時間には最前列に座る様にした。彼女はいつも同じ位置に座っていて、彼女を見ていると、叩かれることなく祈りの時間を終えることができた。真面目にお祈りをするようになったからと、母親の機嫌も目に見えて良くなった。
 日に日に、彼女のことが気になってしまって仕方なくなった。いつからか、教団の集まりの度に彼女の姿を目で探すようになっていた。
 教団はクリスマスなどの行事を禁じていたが、事あるごとに独自の行事を設けていた。あれは教祖の誕生日だったか──晩餐会が催されたことがあった。教団施設の庭園に大鍋でカレーが煮込まれ、テーブルにはいかにも子供の喜びそうな食事が用意された。勿論子供達は教祖の誕生日などそっちのけで、食事の方に夢中だった。
 子供達の輪の中に川崎の姿が見当たらず、視線を巡らす。
 彼女は庭園の隅に佇んでいる、大きな石に腰掛けて俯いていた。自分と彼女の分のカレーを貰い、森山は彼女の元に向かった。
「食べないのか?」
 俯いている彼女に器を差し出すと、彼女はびくりと大きく体を震わせた。
「どうして、私に話しかけたの?」
「いつも、祈りの時間に隣に座ってるだろ」
 森山がそう答えると、彼女はおずおずと器を受け取った。
「ごめんなさい、嫌だとかじゃないの。私、人と話すのが下手で。大勢の人とご飯を食べるのも苦手なの、給食みたいで」
「給食、嫌いなのか?」
「給食っていうより、学校が苦手なの」
 森山も彼女の横に座って、一緒にカレーを口にした。
「いじめられてるのか?」
「うん……前の学校でね。だから転校してきたんだけど、まだ学校に行くのが怖くて」
 彼女は、本当は話を聞いてくれる人を求めていたのかもしれない。カレーを口にしながら、ぽつりぽつりと話し出した。入学当初から学校に馴染めなかったこと、上手く集団生活に合わせられず、担任から厳しく当たられるようになったこと。そして、いつからか生徒達にもいじめられるようになったこと。
「それで、お母さんが比名川ひながわ学園を見つけてきてくれたの。ここはそういう子も受け入れてくれる学校だからって。森山君は何組なの?」
「俺、まだ比名川に入ってないんだ。中学から入ることになってる」
「そうなんだ」
 彼女は最後の一口を口にして、ようやく少しだけ笑った。
「カレー、美味しいね」
「おかわり食べるか? 唐揚げとかもあったぞ、取ってきてやる」
「ありがとう」
 その晩餐会を境に、森山は川崎と度々言葉を交わすようになった。それにつれて、母親同士も交流するようになったようだ。よく長電話をして、真剣そうに何かを話し込んでいた。
 一度、電話の内容が聞こえてきたことがある。
「安奈ちゃんが元気になってくれたなら嬉しい限りですわ。うちの子、瞑想もちゃんとできない子だったのに、こんな風に徳を積めるようになるなんて。それに、うちとしても教団内の女の子と仲良くなってくれれば色々と安心ですから……」
 別にその徳とやらを積むために彼女に話しかけたわけじゃない、と腹が立ったが、また面倒なことになるのがわかりきっていたので、怒りを飲み込んで自分の部屋に戻った。
 母親はもう寝ても覚めても宗教のことしか考えていなかった。いつしか、森山は母親に一切の期待をしなくなった。
 中学生になり、森山は予定通り比名川学園の中等部に入学した。見知った友達が一切いない、全くの新しい生活に対して不安がないと言えば嘘だった。しかし、不登校だと言っていた川崎が入学式から姿を見せ、その後毎日登校してくるのを見て、自分だけ弱気になってはいられないと思った。今思えば、彼女と同じクラスだったのはなんらかの忖度があったのだろうが。
 川崎は成績優秀で、中学生になっても変わらず教団の活動に熱心であった。そのため、教団の子供達の中における彼女の地位は高まっていくばかりであった。
 一方森山はと言うと、退屈な学園生活に辟易していた。刺激が欲しくて自転車競技部に入部したが、運動部は軒並み学園の広告塔としか扱われておらず、競技に対するリスペクトなど欠片もなかった。同じ退屈を感じていた生徒達とつるんで、隠れて禁忌とされている流行りのスナック菓子を食べながら、禁止されているカードゲームに興じるようになるのは、当たり前の事だった。
 とある放課後、誰もいなくなった教室でカードゲームに興じていた時、川崎が入ってきたことがあった。忘れ物を取りに来たようだった。
 一緒にいた仲間達は森山を置いてさっさと逃げ出してしまい、教室には森山と川崎だけが残された。
「それ、全部禁止されてるものでしょう? どうしてそんなものを持っているの?」
 責めるような口調で、彼女は言った。
「退屈なんだよ、この学校は」
「なにが退屈なの? やることなんて沢山あるじゃない」
「やらなきゃいけないこと、はな」
 森山は吐き捨てた。
「俺はもう嫌だよ、こんな生活。お前はそれでいいのか?」
「私は満たされてる、教団内で昇進できたし、学校にもちゃんと来れるようになった!」
「いくら褒められたって、結局教団内だけのことだ。外に出たら、俺もお前も他の子供と何も変わらない。もしかしたら、俺達は禁止されてることが多すぎて、外の子供達より劣ってるかもな」
「そんなわけない!」
 彼女はヒステリックに叫び、机を叩いた。
「私が、私をいじめてた奴等より劣ってるなんてありえない! ずっとお祈りをして、阿威封斗神あいほうとしんの加護を与えられているんだから!」
「祈るだけで過去を乗り越えられるわけじゃない」
「どうしてそんなこと言うの? 私がこうやって学校に来られるようになったのは、森山君のおかげなのに!」
 頭を殴られたような衝撃を感じた。
「森山君があの晩餐会で話しかけてくれたから、私と話してくれるようになったから、私も学校に行って頑張ろうって気持ちになれたのに! なのに、その森山君が教団を否定するなんて、おかしいじゃない!」
 そう叫ぶ川崎は、まるで迷子になった幼児のような顔をしていた。
 自分が彼女と交流をしたから、彼女はより教団にのめり込むようになったのか。あの晩餐会で彼女に話しかけなければ、彼女は自分の意志や思考を保つことができたのだろうか。部屋の中で一人で、辛い記憶による苦痛を抱きながら?
 だとしたら、自分が責任を持って、彼女を外の世界に連れ出さなければならない。彼女がまだ見たことのない景色を見せて、意志を取り戻してやらなければならない。
 荷物を引っ掴んで教室から飛び出した川崎を呼び止める言葉が、今は見つからなかった。けれど、いずれ彼女に外の世界を見せて、教えてやらねばならない。
 彼女を笑いものにした掃き溜めも、彼女を褒めそやす仮初めの楽園も、所詮ちっぽけな世界の話でしかないのだということを。
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