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第三十話
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石原はカンニング事案の処理を終わらせると、研修へ向けて学校を後にした。ハンドルを握る手が震える。桐生から電話をもらった時、関係修復を望めると思った。しかし、「会いたい」「話したいことがある」という言葉を言われ、一抹の不安がよぎった。抱きたいとしか言わない男の急な言葉の変化に揺さぶられる。
「話って……あれだよな……」
身体だけの関係の終わり。桐生の性格からすると、自然消滅はありえない。きちんと白黒はっきりけりをつけたがる男だ。最近の不可解なメッセージに、慣れた手つきでホテルに入る姿。どうしても他の人間の影がちらついてしまう。それに、自分も魔が差して教え子に隙を見せてしまった。
「これでいいんだ。桐生さんには、先がある」
桐生の先日の発言から、自分より年下だと知った。いくつ離れているかは分からないが、予想では30代。それでいて、警察官という安定した女性に人気の職業。自分のような独身の中年がいつまでも相手をしてもらえないことは頭では分かっている。しかし、心がついていかないのだ。
「手放したくない。でも、2番目でもいいなんて、浅はかだ」
自分でも気付かぬうちに、桐生と過ごす時間が心地よくなっていた。
警察署が近くなる。すでに事故処理が終わり、桐生がロータリーで待っていた。何を言われるか不安でたまらない。しかし、引導は早く渡して貰った方がいい。できれば研修前に決着をつけ、研修で気を紛らわすつもりで、石原は桐生を迎えた。
桐生が運転席の窓を軽く叩いた。窓を開けた石原は「早く乗れ」と言う。
「運転する」
「は?」
「いいから変わってくれ」
時間も迫っている。石原は助手席に、そして桐生が運転席に乗った。石原がシートベルトを装着したのを確認すると、桐生はハンドブレーキの解除とギアチェンジをすばやく行った。そしてシートベルトをつけながらハンドルを掌で回す。一瞬にして警察署をでた桐生を石原はぼうっと眺めていた。こういう姿は腹が立つほど魅力的だ。
「何だ?」
「え? いや……俺の車を覆面かなんかと勘違いしてんのかなと」
「癖だよ」
「慌ただしいな」
「今日はこれくらい急いでもいいだろ」
桐生は細い道の方へ曲がった。
「そっちから行くのか?」
「ああ、大通りはネズミ獲りしてるからよ。こっちなら捕まることもねえからスムーズだ」
「なるほど。それで変われっていったのか」
「速度は守ってるから問題ないだろ」
石原は初めて通る道を眺めながら、時折桐生を盗み見た。ギアのところに手がずっと添えられている。片手で狭い住宅地の道を縫っていく。すばやく曲がっていくのに不快感はない。鋭い目つきで前をじっと見ている。目が更に細くなる。大きな手、太い腕はスーツの上からでも筋肉が隆々としてるのが分かる。いつも石原を射抜く目も、うっすらと浮かぶ顔の皺も、どこを見ても石原は胸が苦しくなる。
「はあ」
自分自身でも気づかずに小さく溜息を吐いた。また窓の外を見る。
「酔ったか?」
窓が開く。桐生が運転席から開けたのだ。冷たい空気が入ってきて、石原の前髪をかき上げた。
「大丈夫だ」
「体調悪そうだぞ」
石原は桐生と目を合わせない。
桐生はギアに乗せていた手を石原の右手に重ねる。
「!?」
石原はいきおいよく弾こうとしたが、先に手を握られてしまい逃げ遅れた。
「無理に誘っちまったか? 悪かった。カンニングが起こることまで気が回らなくて」
「別に桐生さんのせいじゃないだろ」
「でも予測できる範囲内だった」
「刑事さんらしいな」
住宅街の交差点にさしかかる。点滅信号は黄色。桐生は優先道路を走っていても減速した。
桐生はもう一度手を握った。石原の手は熱い。
「やっぱり体調悪いんだろ?」
「大丈夫だって」
「なら……」
赤信号で車が停車する。桐生は手を離すと、身を乗り出して石原の肩に手を伸ばし、引き寄せた。
「どうしてそんな暗い顔してんだ」
桐生の顔が近い。あと少しで唇が触れ合ってしまうくらいの距離。心臓の音が口から漏れ聞こえてしまいそうだ。石原は唾を飲みこみゆっくり口を開いた。
「疲れているだけだ。運転変わってくれてありがとう……青だぞ」
桐生は石原を開放し運転を再開した。
「……話ってなんだ」
「今、話すことじゃない」
「長くなるのか?」
「あんた次第だ」
石原次第。もう何を言っても関係の終わりしか見えてこない。結局、桐生は話してくれなかった。
研修には間に合った。開始5分前に到着し、受付で資料をもらったあと、指定された場所に着席した。資料の表紙には座席表が書かれており、桐生と石原は席が前後ながらも同じ枠線で囲まれていた。線の隣には「E」と記載されている。次の行程表には研修の後、質疑応答、そしてグループディスカッションと続いていた。「E」の正体が分かり、石原はまた溜息をつきそうになった。こんな気持ちで、桐生とグループディスカッションなんてできる気がしないからだ。気を紛らわすために、もう既に実践済みのことだろうと、石原は配布された資料の隅に取り憑かれたように書き込んだ。
「話って……あれだよな……」
身体だけの関係の終わり。桐生の性格からすると、自然消滅はありえない。きちんと白黒はっきりけりをつけたがる男だ。最近の不可解なメッセージに、慣れた手つきでホテルに入る姿。どうしても他の人間の影がちらついてしまう。それに、自分も魔が差して教え子に隙を見せてしまった。
「これでいいんだ。桐生さんには、先がある」
桐生の先日の発言から、自分より年下だと知った。いくつ離れているかは分からないが、予想では30代。それでいて、警察官という安定した女性に人気の職業。自分のような独身の中年がいつまでも相手をしてもらえないことは頭では分かっている。しかし、心がついていかないのだ。
「手放したくない。でも、2番目でもいいなんて、浅はかだ」
自分でも気付かぬうちに、桐生と過ごす時間が心地よくなっていた。
警察署が近くなる。すでに事故処理が終わり、桐生がロータリーで待っていた。何を言われるか不安でたまらない。しかし、引導は早く渡して貰った方がいい。できれば研修前に決着をつけ、研修で気を紛らわすつもりで、石原は桐生を迎えた。
桐生が運転席の窓を軽く叩いた。窓を開けた石原は「早く乗れ」と言う。
「運転する」
「は?」
「いいから変わってくれ」
時間も迫っている。石原は助手席に、そして桐生が運転席に乗った。石原がシートベルトを装着したのを確認すると、桐生はハンドブレーキの解除とギアチェンジをすばやく行った。そしてシートベルトをつけながらハンドルを掌で回す。一瞬にして警察署をでた桐生を石原はぼうっと眺めていた。こういう姿は腹が立つほど魅力的だ。
「何だ?」
「え? いや……俺の車を覆面かなんかと勘違いしてんのかなと」
「癖だよ」
「慌ただしいな」
「今日はこれくらい急いでもいいだろ」
桐生は細い道の方へ曲がった。
「そっちから行くのか?」
「ああ、大通りはネズミ獲りしてるからよ。こっちなら捕まることもねえからスムーズだ」
「なるほど。それで変われっていったのか」
「速度は守ってるから問題ないだろ」
石原は初めて通る道を眺めながら、時折桐生を盗み見た。ギアのところに手がずっと添えられている。片手で狭い住宅地の道を縫っていく。すばやく曲がっていくのに不快感はない。鋭い目つきで前をじっと見ている。目が更に細くなる。大きな手、太い腕はスーツの上からでも筋肉が隆々としてるのが分かる。いつも石原を射抜く目も、うっすらと浮かぶ顔の皺も、どこを見ても石原は胸が苦しくなる。
「はあ」
自分自身でも気づかずに小さく溜息を吐いた。また窓の外を見る。
「酔ったか?」
窓が開く。桐生が運転席から開けたのだ。冷たい空気が入ってきて、石原の前髪をかき上げた。
「大丈夫だ」
「体調悪そうだぞ」
石原は桐生と目を合わせない。
桐生はギアに乗せていた手を石原の右手に重ねる。
「!?」
石原はいきおいよく弾こうとしたが、先に手を握られてしまい逃げ遅れた。
「無理に誘っちまったか? 悪かった。カンニングが起こることまで気が回らなくて」
「別に桐生さんのせいじゃないだろ」
「でも予測できる範囲内だった」
「刑事さんらしいな」
住宅街の交差点にさしかかる。点滅信号は黄色。桐生は優先道路を走っていても減速した。
桐生はもう一度手を握った。石原の手は熱い。
「やっぱり体調悪いんだろ?」
「大丈夫だって」
「なら……」
赤信号で車が停車する。桐生は手を離すと、身を乗り出して石原の肩に手を伸ばし、引き寄せた。
「どうしてそんな暗い顔してんだ」
桐生の顔が近い。あと少しで唇が触れ合ってしまうくらいの距離。心臓の音が口から漏れ聞こえてしまいそうだ。石原は唾を飲みこみゆっくり口を開いた。
「疲れているだけだ。運転変わってくれてありがとう……青だぞ」
桐生は石原を開放し運転を再開した。
「……話ってなんだ」
「今、話すことじゃない」
「長くなるのか?」
「あんた次第だ」
石原次第。もう何を言っても関係の終わりしか見えてこない。結局、桐生は話してくれなかった。
研修には間に合った。開始5分前に到着し、受付で資料をもらったあと、指定された場所に着席した。資料の表紙には座席表が書かれており、桐生と石原は席が前後ながらも同じ枠線で囲まれていた。線の隣には「E」と記載されている。次の行程表には研修の後、質疑応答、そしてグループディスカッションと続いていた。「E」の正体が分かり、石原はまた溜息をつきそうになった。こんな気持ちで、桐生とグループディスカッションなんてできる気がしないからだ。気を紛らわすために、もう既に実践済みのことだろうと、石原は配布された資料の隅に取り憑かれたように書き込んだ。
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