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第三話
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例のごとく石原は記憶を飛ばしていた。覚えているのは、桐生の意志を組み、交換条件つきの同意の性行為を承諾したところまで。その後、記憶は飛んでいる。最中の記憶は全く存在せず、身体に残る痛みだけが確かな証拠だった。
「何時だ……」
腕時計を見る。時刻は日付を跨ぎ、朝日が登る数字を指している。今日は日曜日。石原には部活動指導がある。
「桐生さん、今日は仕事じゃないのか?」
返事がない。石原は部屋に桐生がいないことに気がついた。
「嘘だろ?!」
トイレにも風呂場にもいない。クローゼットの中も確認したがそこにもいなかった。買い物の可能性も考えたが荷物一式まるっと消えていた。
「そもそも桐生さんと会う約束なんてなかったのかも」
しかし腰の痛みは真実を告げている。
「……やってるよな、これは。まさか、やり逃げか?」
サイドテーブルに一枚のメモを見つける。そこには「悪い。仕事が入った。先に出る」と走り書きがしてあった。やはり律儀な男だと、石原はそのメモをヒラヒラさせる。
「とりあえず帰るか」
腰を回し、痛みを和らげる。二日連続で酷使した下半身は重たい。それでも定刻には部活に精を出し、桐生とのことなど頭の隅においやって一日が終わり、月曜日が来た。いつもと変わらない一日が過ぎ、気付けば21時をとっくに過ぎていた。「月曜日から働きすぎですよ」という後輩教員の声に促され石原は帰路につく。
アパートの階段を上り、家の鍵を取り出そうとした石原の手がジャケットのポケットの中で止まる。
ドアの前に煙草を吸いながらもたれている男がいたのだ。男は視線だけ石原に向けた。
「よお、先生。夜遅くに悪いな」
桐生は靴底で煙草を綺麗に消し、吸殻をレザーの携帯灰皿に捨てた。
「この前悪かったな。先に帰ちまって。急に仕事が入ったもんで起こさずに出ちまった」
「やり逃げ男」
「メモ見なかったのか」
「見たよ」
「先生が聞きたいことにまだ答えてないだろ」
「そうだな。そのうち来るとは思ってたけど。もう仕事はいいのか?」
「……あんた、お人好しだよな」
「は?」
「本当に逃げられたとか思わないのか?」
「桐生さんのことは嫌いだけど、あんた自身は嘘をつくような人間じゃないだろ」
たった二回、プライベートで関係を持っただけで、石原はそう言い切った。
「信じてくれるのは有り難いけど、その性格、心配だな」
桐生の口から「心配」などという言葉が飛び出し、石原は桐生を睨みつけた。
「何かおかしくないか? いつもの桐生さんじゃない」
「失礼だな。俺はいつもこんなんだ」
「違うだろ。嫌味の一つや二つ必ず返してくる」
「今日はやめとく。さすがに勝手に帰った件がある」
律儀で責任感のある桐生の一面に石原は反撃の言葉を失った。
そして、黙ってドアを大きく開く。入ってもいいという答えだときちんと受け取った桐生はこれまた律儀に「おじゃまします」といって石原の家に足を踏み入れた。
石原は黙ってコーヒーを入れる。桐生は刑事の癖なのか部屋中をぐるりと見渡した後、食器棚を凝視していた。
「見るなよ。自分の家なのに居心地悪くなるだろ。ブラックでいいか?」
差し出したマグカップに揺らめく黒い液体。桐生はそれを受け取った。
「どうも」
口をつけながら、また桐生はキッチンを視線で物色する。
「……なんかやばいもんでもありますかね?」
語尾を強めて聞くと、桐生は石原を見た。
「本当に未婚なんだな。恋人もいないだろ?」
桐生はキッチンのシンクに放られている昨日の食器や、柄のそろっていないコップを見てそう推理した。
「そんなことよりゲーセンの話をしてくれ」
「そうだったな」
桐生はコーヒーをぐいっと飲みほし、ようやく先日の話をした。
「連絡会で相変わらず食ってかかってきたのは覚えているな?」
「そっちもね」
「そこの記憶ははっきりしてんだな。その後、二次会に行く声があったのは覚えているか?」
「……」
「なるほど。そこからか。あの後、二次会に行くことが決まった。優しいかな、先生は後輩教師を全員帰らせた。あそこに残っていた警察官は酒癖が悪い奴ばかりだったからな。先生と警察官数名で二次会、でもその途中、あんたは血相を変えて繁華街のゲーセンに向かった。他の奴らは前を歩いていたから気が付いていなかった。俺は相変わらず先生と軽口の応戦をしていたから、あんたの異変に気がついて後をおったわけだ」
話が長くなると、桐生はカップを持った手でリビングを差した。場所を移動し、桐生はまた口を開く。
ようやく無くなった記憶のピースを埋める時が来た。
***
石原は酒を飲んでいるにも関わらずゲームセンターへ走った。青鳥高校の制服を見つけたからだ。昼間以上の明かりと騒音にあと少しで手が届くというところで背中を羽交い絞めにされる。そして建物と建物の隙間へ連れ込まれた。
「離してくれ!」
石原はじたばたもがいた。彼を羽交い絞めにしている桐生は「落ち着けよ」と宥めた。
「落ち着いていられるか! うちの生徒が深夜徘徊しているんだぞ!」
「確かにあれは青鳥の制服だったな。ほっとけ。パトロールの警察官が補導すんだろ」
落ち着き払っている桐生とは逆に石原は威嚇するように呼吸が荒い。呼気にはアルコールの匂いが混じっている。
「それに飲酒した状態で生徒の前に行く気か?」
「?!」
悔しそうに俯いた石原。羽交い絞めを解くと、その場にへたり込んだ。小石が散らばる整備の行き届いていないアスファルトを虚ろな目で見つめていた。それは酔いからくるものではなく、自分の不甲斐なさを悔いる色。
桐生はそれを見下ろしながら頭を掻いた。
「ここにいろ。俺が行く」
「そっちも飲んでるだろ」
「警察官ってことは隠す。家に帰るよう言えばいいんだろ」
「それだと桐生さんが職務放棄になるだろ」
「俺のことまで考えてくれるなんて優しい先生だな。だが、俺も飲んでいる以上仕事はできない。一般人として近づくさ。ここで休んでろ。顔が真っ赤だぞ」
石原は頬に触れた。熱い、そして脳の中が空っぽになったみたいにふわふわし始めた。
「急に走るから酔いが回ったんだろ。ここで休んでな」
桐生は石原を置いて、ゲームセンターへ向かった。メダルゲームのところでバスケットボールのキーホルダーをつけた青鳥高校の男子が生気の籠っていない目でゲームに興じていた。
桐生は躊躇いなく話しかけた。
「おい、ガキ」
振り向いた男子高校生は切羽詰まったような表情をしている。
「高校生だろ。何時だと思ってる」
「おっさんには関係ないだろ」
桐生は警察官として見逃せないという使命より、外で悔しがっている石原の顔が真っ先に浮かんだ。
「補導されたら先生や家の人が悲しむだろ」
「知るかよ」
男子高校生はまたメダルゲームに視線を戻す。小さな声で「その先生のせいでこんな目にあってんのに」と悪態をついたのを桐生は聞き逃さなかった。
「何かあったのか」
男子高校生の横に座る。見ず知らずの男に話すわけがないのに、男子高校生はよほどストレスが溜まっていたのか、ゲーム機のボタンを乱暴に押しながら吐露した。
「うち、不祥事起こした教師がいるんだよ。そのせいで受験に落ちるって塾で周りからからかわれるんだ。推薦には絶対通らないって」
今回の不祥事は新聞に高校名と教師名が大々的に報じられた。その被害を男子高校生は受けていたのだ。
「そんなことで落ちないだろ」
「そうだとしても、受験のこの時期に「落ちる」「受からない」って何度も言われるこっちの身にもなれ!」
未成年の精一杯の威嚇。鋭い視線を向けられた桐生の頭にはまた石原の顔が浮かんでいた。
「でもな。ここにいることで悲しむ先生がいることも忘れんなよ」
それだけ言って桐生は席を立った。
「俺にはこういうの向いてないな」
そういって店員に高校生がいることを伝える。店員のしつこい警告でようやく男子高校生はゲームセンターをあとにした。それを遠くから見送った桐生は石原のもとに戻る。
「帰ったぞ」
石原から返事はない。酒のせいで深い眠りについていた。
放置するわけにもいかず、桐生は石原をビジネスホテルに運び込んだ。
「何時だ……」
腕時計を見る。時刻は日付を跨ぎ、朝日が登る数字を指している。今日は日曜日。石原には部活動指導がある。
「桐生さん、今日は仕事じゃないのか?」
返事がない。石原は部屋に桐生がいないことに気がついた。
「嘘だろ?!」
トイレにも風呂場にもいない。クローゼットの中も確認したがそこにもいなかった。買い物の可能性も考えたが荷物一式まるっと消えていた。
「そもそも桐生さんと会う約束なんてなかったのかも」
しかし腰の痛みは真実を告げている。
「……やってるよな、これは。まさか、やり逃げか?」
サイドテーブルに一枚のメモを見つける。そこには「悪い。仕事が入った。先に出る」と走り書きがしてあった。やはり律儀な男だと、石原はそのメモをヒラヒラさせる。
「とりあえず帰るか」
腰を回し、痛みを和らげる。二日連続で酷使した下半身は重たい。それでも定刻には部活に精を出し、桐生とのことなど頭の隅においやって一日が終わり、月曜日が来た。いつもと変わらない一日が過ぎ、気付けば21時をとっくに過ぎていた。「月曜日から働きすぎですよ」という後輩教員の声に促され石原は帰路につく。
アパートの階段を上り、家の鍵を取り出そうとした石原の手がジャケットのポケットの中で止まる。
ドアの前に煙草を吸いながらもたれている男がいたのだ。男は視線だけ石原に向けた。
「よお、先生。夜遅くに悪いな」
桐生は靴底で煙草を綺麗に消し、吸殻をレザーの携帯灰皿に捨てた。
「この前悪かったな。先に帰ちまって。急に仕事が入ったもんで起こさずに出ちまった」
「やり逃げ男」
「メモ見なかったのか」
「見たよ」
「先生が聞きたいことにまだ答えてないだろ」
「そうだな。そのうち来るとは思ってたけど。もう仕事はいいのか?」
「……あんた、お人好しだよな」
「は?」
「本当に逃げられたとか思わないのか?」
「桐生さんのことは嫌いだけど、あんた自身は嘘をつくような人間じゃないだろ」
たった二回、プライベートで関係を持っただけで、石原はそう言い切った。
「信じてくれるのは有り難いけど、その性格、心配だな」
桐生の口から「心配」などという言葉が飛び出し、石原は桐生を睨みつけた。
「何かおかしくないか? いつもの桐生さんじゃない」
「失礼だな。俺はいつもこんなんだ」
「違うだろ。嫌味の一つや二つ必ず返してくる」
「今日はやめとく。さすがに勝手に帰った件がある」
律儀で責任感のある桐生の一面に石原は反撃の言葉を失った。
そして、黙ってドアを大きく開く。入ってもいいという答えだときちんと受け取った桐生はこれまた律儀に「おじゃまします」といって石原の家に足を踏み入れた。
石原は黙ってコーヒーを入れる。桐生は刑事の癖なのか部屋中をぐるりと見渡した後、食器棚を凝視していた。
「見るなよ。自分の家なのに居心地悪くなるだろ。ブラックでいいか?」
差し出したマグカップに揺らめく黒い液体。桐生はそれを受け取った。
「どうも」
口をつけながら、また桐生はキッチンを視線で物色する。
「……なんかやばいもんでもありますかね?」
語尾を強めて聞くと、桐生は石原を見た。
「本当に未婚なんだな。恋人もいないだろ?」
桐生はキッチンのシンクに放られている昨日の食器や、柄のそろっていないコップを見てそう推理した。
「そんなことよりゲーセンの話をしてくれ」
「そうだったな」
桐生はコーヒーをぐいっと飲みほし、ようやく先日の話をした。
「連絡会で相変わらず食ってかかってきたのは覚えているな?」
「そっちもね」
「そこの記憶ははっきりしてんだな。その後、二次会に行く声があったのは覚えているか?」
「……」
「なるほど。そこからか。あの後、二次会に行くことが決まった。優しいかな、先生は後輩教師を全員帰らせた。あそこに残っていた警察官は酒癖が悪い奴ばかりだったからな。先生と警察官数名で二次会、でもその途中、あんたは血相を変えて繁華街のゲーセンに向かった。他の奴らは前を歩いていたから気が付いていなかった。俺は相変わらず先生と軽口の応戦をしていたから、あんたの異変に気がついて後をおったわけだ」
話が長くなると、桐生はカップを持った手でリビングを差した。場所を移動し、桐生はまた口を開く。
ようやく無くなった記憶のピースを埋める時が来た。
***
石原は酒を飲んでいるにも関わらずゲームセンターへ走った。青鳥高校の制服を見つけたからだ。昼間以上の明かりと騒音にあと少しで手が届くというところで背中を羽交い絞めにされる。そして建物と建物の隙間へ連れ込まれた。
「離してくれ!」
石原はじたばたもがいた。彼を羽交い絞めにしている桐生は「落ち着けよ」と宥めた。
「落ち着いていられるか! うちの生徒が深夜徘徊しているんだぞ!」
「確かにあれは青鳥の制服だったな。ほっとけ。パトロールの警察官が補導すんだろ」
落ち着き払っている桐生とは逆に石原は威嚇するように呼吸が荒い。呼気にはアルコールの匂いが混じっている。
「それに飲酒した状態で生徒の前に行く気か?」
「?!」
悔しそうに俯いた石原。羽交い絞めを解くと、その場にへたり込んだ。小石が散らばる整備の行き届いていないアスファルトを虚ろな目で見つめていた。それは酔いからくるものではなく、自分の不甲斐なさを悔いる色。
桐生はそれを見下ろしながら頭を掻いた。
「ここにいろ。俺が行く」
「そっちも飲んでるだろ」
「警察官ってことは隠す。家に帰るよう言えばいいんだろ」
「それだと桐生さんが職務放棄になるだろ」
「俺のことまで考えてくれるなんて優しい先生だな。だが、俺も飲んでいる以上仕事はできない。一般人として近づくさ。ここで休んでろ。顔が真っ赤だぞ」
石原は頬に触れた。熱い、そして脳の中が空っぽになったみたいにふわふわし始めた。
「急に走るから酔いが回ったんだろ。ここで休んでな」
桐生は石原を置いて、ゲームセンターへ向かった。メダルゲームのところでバスケットボールのキーホルダーをつけた青鳥高校の男子が生気の籠っていない目でゲームに興じていた。
桐生は躊躇いなく話しかけた。
「おい、ガキ」
振り向いた男子高校生は切羽詰まったような表情をしている。
「高校生だろ。何時だと思ってる」
「おっさんには関係ないだろ」
桐生は警察官として見逃せないという使命より、外で悔しがっている石原の顔が真っ先に浮かんだ。
「補導されたら先生や家の人が悲しむだろ」
「知るかよ」
男子高校生はまたメダルゲームに視線を戻す。小さな声で「その先生のせいでこんな目にあってんのに」と悪態をついたのを桐生は聞き逃さなかった。
「何かあったのか」
男子高校生の横に座る。見ず知らずの男に話すわけがないのに、男子高校生はよほどストレスが溜まっていたのか、ゲーム機のボタンを乱暴に押しながら吐露した。
「うち、不祥事起こした教師がいるんだよ。そのせいで受験に落ちるって塾で周りからからかわれるんだ。推薦には絶対通らないって」
今回の不祥事は新聞に高校名と教師名が大々的に報じられた。その被害を男子高校生は受けていたのだ。
「そんなことで落ちないだろ」
「そうだとしても、受験のこの時期に「落ちる」「受からない」って何度も言われるこっちの身にもなれ!」
未成年の精一杯の威嚇。鋭い視線を向けられた桐生の頭にはまた石原の顔が浮かんでいた。
「でもな。ここにいることで悲しむ先生がいることも忘れんなよ」
それだけ言って桐生は席を立った。
「俺にはこういうの向いてないな」
そういって店員に高校生がいることを伝える。店員のしつこい警告でようやく男子高校生はゲームセンターをあとにした。それを遠くから見送った桐生は石原のもとに戻る。
「帰ったぞ」
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