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番外編

番外編2 猫の日①

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 二月下旬。春の気配が漂い始め、昼は微かにポカポカ陽気が降り注ぐ門司も、海風のせいで夜は冬に逆戻りする。
そんな寒空の下、人の気配がない小さな公園のベンチには一人の英国人が座っていた。

「はあ……」

 小さな低い溜息は思った以上に負の感情が込められていて、濃い白となって吐き出された。窓を背に仕事をするアルバートの背中は、退勤時、陽の温もりを纏っていたが今は冷めきっている。

「あっ、ダメ……くすぐったいッ」

 逞しい背中が奥の茂みから洩れる声に反応して強張る。何度聞いても恋人の声。「待たせたから怒ってるの? でもごめんね。もう行かなくちゃいけないんだ」と茂みにいるであろうもう一人の人間に春人が名残惜しそうに話しかけ始め、アルバートは眉間の皺を深くした。
 春人のこの後の予定はアルバートの家に行く事だ。春人の発言から茂みの奥の相手とアルバートを天秤にかけた結果は明白。しかし春人を手放すという選択肢が毛頭ない男は、今夜どう春人を苛め、心と身体を奪い返そうか画策する。説教をするという選択肢が浮かばないのは相変わらずアルバートの欠点だ。

「い、痛いッ‼」

 春人の悲痛な声に、耐えていたさすがのアルバートもベンチから身を乗り出した。真っ暗な茂みからは「明日も来るから、お願い、今日はアルの所に行かせて」と涙声の春人の声がし、傾いていた天秤がアルバートの方へ沈みだす。同意の上であっても愛する男への乱暴は許すまじとアルバートは茂みをかき分けた。その先に悲惨な光景があったとしても、恋人の苦しむ声には耐えられなかった。

「春人!」

 名を呼ぶと「え? アル?!」と驚愕と焦りの音が鳴り響いた。ガサガサと慌てる音を頼りにアルバートが行きついた先には——

「ニャー」

 頭に葉っぱを乗せた春人とそれにすり寄る一匹の猫がいた。

「……CAT?」

 自分がとんでもない間違いをしていたと気付き、アルバートは日本語を忘れてしまった。



              *



 公園を出た二人。春人の腕の中には、密会の相手——白と黒の模様が凛々しい子猫がいた。

「いつからいたの?」
「数刻前からだ。厳密にいえば、君の退社時から後ろにいた。最近、君は多忙期でもないのに「仕事だ」「残業だ」と嘘をついて家に来なかっただろ? 信じてはいたが「残業がある」とメールを貰った後に、君のオフィスへいったら姿がない、かつ勤務システムで調べても退勤マークになっていたら不安になるのは当然だ」
「で、また尾行してたの?! ま、た!」
「前回のは村崎さんに付き合って彼の御息女を尾行していたのだ。そしてたまたまその先に君がいただけだ」

 春人の尊敬する村崎部長のおかしな変装を思い出し、春人は噴きだした。春人の腕の中で大きな目をクリクリさせる猫は、世話主の笑顔に吸い込まれ、春人の頬を舐めた。

「くすぐったいよ!」

 満更でもない春人は猫に頬のキスを許しながらアルバートに「何ですぐに声をかけてくれなかったの?」と尋ねた。

「あまりにもいかがわしい声が聞えたので、あそこでまぐわっているのかと」
「青姦なんてしないよ……」
「アオカン? アオカンとはなんだ?」

 純粋に意味の分からない日本語を尋ねただけなのに、アルバートに周りからの視線が痛いほど集まる。

「アアアアア、アル?! 違う! えっ……と」

 春人はアルバートが持ってくれている自分の荷物の中身を思い出した。

「ね、猫缶! そう、ネ、コ、カ、ン! 猫缶を買って行かないと! さっきなくなっちゃったから!」
「ネコカン?」
「猫のご飯が詰めてある缶!」
「いや、君は確かにアオッ」

 春人はアルバートを睨み付けた。その形相があまりにも「可愛くて」アルバートは黙った。
睨みが効いたと思っている春人は、アルバートに猫を預け、近くのコンビニに入ろうとするが猫は春人から離れない。代わりにアルバートが買い物を済ませ、コンビニの外に出ると、一人と一匹は頬をすり合わせていた。

「もふもふ、可愛いな」

 猫が春人の頬に短毛に覆われた口を押し当てる。堂々とキスをする光景に、アルバートは目を細めた。なかなかアルバートに気が付かない春人の為に革靴を鳴らすと、猫を抱き締め駆け寄ってきた。

「ありがとう! でも本当にいいの? アルの家で飼っても」
「ペット可能なマンションだから問題ない。しかし新しい飼い主が見つかるまでだ」
「ずっと飼いたいな」
「世話ができないだろ? 二人とも海外出張が入ったらどうするのだ」
「えー、アルは人事部だから入んないじゃん」
「私だって長期で千葉の本社へ行く事がある」
「その時はペットホテルとか?」
「そもそも春人が飼いたいのに、私の家でずっと飼うのはおかしな話だろ」
「そうだね……アル、怒ってる?」
「いや」

 珍しく春人を甘やかさなかったアルバートの言う事はもっともだ。そして普段冷静な彼は少し感情的になっていた。
原因は——

「撫でる?」

 春人が猫をアルバートに向ける。アルバートは骨ばっている手からは想像もできない程、母性を滲ませふわりと猫の顎下に手を伸ばした。しかし……

「シャー‼」

 猫は牙を剥き出しにした。

「あれ? 結構人懐っこいんだけどな」

 春人が抱きしめると喉を鳴らす猫。「今がチャンスだよ!」と言われ、次は「ミャウミャウ」と声を出しながら人差し指を差し出したが危うく噛まれるところだった。
そんな惨劇を目の前に春人は目を輝かせていた。

「みゃうみゃう?」
「猫の鳴き声と言えば、ミャウミャウだ」
「ニャー、ニャーじゃないんだ」
「可愛い鳴き声だな。君が言うと猫以上に愛らしさが増す」
「アルのミャウミャウも、猫だけじゃなくて人間まで惚れちゃうよ!」

 ダンディーな英国紳士が猫をあやそうとする表情や仕草は絵画のようだった。

「春人も惚れてくれたのかい?」
「……」

 春人の耳が朱色に変わっていく。

「それで十分だ」

 ようやく恋人の雰囲気に戻り始めた二人。その気配を動物の本能は鋭くキャッチし、アルバートに猫パンチを繰り出した。

「こら、チャーリー!」
「チャーリー?」
「あっ、うん、猫の名前」
「どうしてその名を?」
「え? 別に……」

 春人は先に歩いて行ってしまう。

「チャーリーは、イギリスで人気の猫の名前だ。日本では馴染みがないな」
「……ふーん、初耳」

 恥ずかしそうに丸くなった背中にアルバートは足を速めて近づいた。猫に時間を割いている間、実はアルバートの事を想っていた事を伺わせる名前に嬉しくなる。幸福を分かち合おうと、街灯のないところで春人の頬に唇を寄せた瞬間――

「シャー‼‼」

 黄色い瞳がアルバートを威嚇する。

「ごめん、何でだろ……僕の時でもこんなに威嚇しなかったのに」

 春人がチャーリーを撫でると、嘘のように癒し系小動物の顔に戻るチャーリー。

「また戻った。触る?」
「遠慮しておくよ。きっと初めてあった人に警戒しているのだろう」

 勿論それだけではない事をアルバートは理解している。春人の腕の中を独り占めにするチャーリーと、猫に恋人を奪われた気分になっているアルバートの雄同士の視線が火花を散らす。
 鼻がツンとする寒空の下、春人をめぐる英国紳士と猫の戦いが始まった。
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