69 / 112
第九章 The end
第五話 終わる足音
しおりを挟む
アルバートは春人を強く抱き締めた。その強い抱擁による幸せが一時的な物だとしても、今この瞬間を全身で楽しんだ。
言葉は何もいらない。そこにいるだけで、肌を触れ合わせるだけで全てが伝わる。
好き。
愛している。
逢いたかった。
そして熱い抱擁の後、アルバートが春人の頬を包み込み、唇を寄せる。
初めてのキスと同じように心臓が高鳴る。初々しく感じるのはそれだけ二人の時間が空いていたから。
そしてそれを埋めるかの様に余裕なく舌を絡ませあった。
「ふあ……んッ……んん」
糸を引き、それも逃がさないと舐めとり、また咥内で激しく動く。呼吸をいつしたか分からい程隙のないキスは春人の頬を紅潮させる。
「君の唇は柔らかいね」
と、感触を楽しんだアルバートが春人の苦しい表情を助けるかのように、唇を離した。
その優しさにアルバートの存在を再認識し、跳ねながら首に抱き着く。
足が浮き、その足を抱えられ、お姫様抱っこでベッドへ連れて行かれた。
──ギシッ
沈むスプリング、舞い上がる薔薇の香りはアルバートのものかそれとも昨日の残り香か……どちらにしても同じそれは春人の瞳を恍惚にさせる。
それを楽しむだけの理性はアルバートに残っていない。その瞳に誘われ、春人の釦を外していく。
「ああッ」
外しながら人差し指を肋骨の隙間に這わせ、春人の声と肌を震わせる。下りていく指とは逆に、背筋に突き上げられるような悦の旋律が走った春人はアルバートの背中に爪を立てた。
「ああ、春人がいる」
背中に感じる痛みを嬉しそうに受け入れるアルバートの安堵した声に、春人はハッと彼を見た。
その何か言いたげな視線にアルバートは微笑み、耳元で「寂しかったよ」と囁いた。
今まで2人が交わすのを躊躇っていた単語。
先にプライドを捨て去ったアルバートに春人の我慢も弾けた。
「僕も、僕も寂しかった」
春人の今まで我慢していた気持ちが口から、そして瞳からも溢れ出る。
「毎日、毎日寂しくて、悲しくて、辛くて……」
瞳が涙で沈み、底で揺れる漆黒がとても幻想的だ。黒い湖面に浮かぶ月は、プラチナブロンドで和と洋の融合──やっとお互いの気持ちを言い合えた2人を表しているようだ。
春人の睫毛がお辞儀をして濡れる。そして漆黒の湖は消え、代わりに湖の主が真っ直ぐにアルバートを見つめていた。
「別れ際が辛いって言ったけど、本当はずっと辛いんだ。別れも、別れた後もどんな時もずっと辛くて、寂しい。でもアルが大好きだから会いたい気持ちもあって……どうしたらいいか分からなくて……」
必死に言葉を繋げる間、アルバートは春人の頭を撫でた。それに助けられながら「寂しい」「辛い」そして「大好き」と半年以上溜め込んだ想いを放つ。
それと同時に
「アルバート、抱いて」
と恋人を求め、溢れて空いた隙間を快楽で埋めようとする。
服を脱がせている途中だったアルバートも「私も我慢できない」と指をベルトに引っかけた。
その後は喘ぎ声とスプリングが軋む音、絡まりあう水音の三重奏だった。アルバートの吐息も混ざり四重奏になる事には春人が朦朧とする脳内で言葉を組み立て、再び想いの丈を発散し始めた。
「ひう、ああ……あ、あ、あッ……もっとして……もう、ああ、寂しくならないくらい」
そんな事は不可能だ。
どれほど抱いても結局別れがくれば寂しくなる。
しかしアルバートはそれに応えようと激しく腰を振り、前立腺を擦り上げる。
「あぁぁ! ……はあ、はん、んあ、ん、んん‼」
激しい快楽にもう何が何だか分からない。口は開きっぱなしで、口元を伝う液と、頬を伝う雫を何度も舐め上げるアルバート。
「ほっぺだけじゃ足りない。キスしてよ」
と強請る春人の唇はキスではなくもっと深い物を求めている。
——グチュグチュ、ピチャッ
と脳を蕩けさせる甘いディープキスは、どんどん春人を落としていく。
そして……
「お願い……もうどこにも行かないで」
一番相手が困るであろうことを口にしてしまう。
「ずっとそばに居てよ。帰らないで」
言葉を変えても、意味は同じ。
それを何度も何度もアルバートに言うが、彼は抱きしめるだけ。
最後は黙らせるように腰を打ち付け、後孔だけで春人を絶頂に誘った。
「んあ! はあ、ひゃあ、だめぇぇ……ああんッ‼」
と白濁の欲がアルバートの腹部を汚す。肩で息をし、最後にもう一度
「どこにも行かないで、アルバート」
と消え入りそうな声で告げた後、掬い損ねた雫が頬を伝う。
そして先ほどの激しさを感じさせない穏やかな表情で目を閉じた。
「春人……」
もう伝って跡だけを残す悲しみの軌跡を指でなぞる。
「君のそばに居るよ」
そう言ってアルバートも春人を抱き締め、目を閉じた。
◇ ◇ ◇
「やばーい‼ 遅刻する‼」
春人は隣でアルバートが寝ているのもお構い無しに飛び起きた。その声で起きたアルバートも目を擦りながら身体を起こす。
「ごめん、アル! 僕もう会社行くね!」
バタバタと用意をする春人を見て、アルバートも散乱した服から自分の物を救いだす。
「うわあ、やばい。今日会議なのに!」
玄関で急いで靴を履き、一気に仕事モードに切り替えるが、アルバートに顎をとられその顔は緩む。
しかしアルバートの表情は真剣そのもの。
「昨夜は君の気持ちを聞けて嬉しかった。ありがとう。でも私の話をしていない。もしよければ今夜にでも聞いて欲しい」
(寂しい以外にアルが抱えている気持ちって何だろう?)
聞くのが少し怖い。
「……うん。早めに帰る。とりあえずもう行くね! 行ってきます!」
引き寄せられ「行ってらっしゃい」とキスをされた後、会社まで猛ダッシュで駆ける。
会社が近くなり、スピードを緩める。ようやく覚醒した脳内が昨夜の奇行を鮮明に思い出させる。
(無理させた)
気持ちを言えてすっきりしたはずなのに、一夜明ければ罪悪感に苛まれる。
気持ちだけでなく、願望まで伝えてしまった自分を責める。
(絶対にアルを困らせた)
歯止めの効かない告白は「ずっと居たい」などという不可能な願望までも相手に伝えてしまった。
夢に完璧に吸い込まれる間際にアルバートが言った「君のそばに居るよ」という言葉が再生される。
(最悪だ。無理に言わせちゃった。そんなつもりじゃなかったのに)
もし帰った時にアルバートの話しが昨日の事だったらどうしようと頭を抱える。
(結局こうなるなら言わなきゃよかったのかな……)
など努力を無駄にする考えまで浮かんだところで会社に着く。重い足取りのままオフィスへの階段を登り、そしてデスク上の資料で会議の事も思い出し、更に気分が滅入る。
何故なら今日の会議は春人の来年度の運命を決める会議だからだ。
「おはようございます」
「おはよう! どうした月嶋、げっそりして」
松田の心配そうな声に適当に返し椅子に身を預ける。会議は昼過ぎ、それまでは会議で時間がとられる分、急ピッチで仕事を進めなければならない。
「よし」
村崎に頼まれた新企画のファイルを開き、春人を仕事に集中した。
しかし前半はなかなか集中できず、ようやく軌道にのり始めた時には会議の時間になり、松田に声をかけられるまでずっと資料に没頭していた。
「やべえ、遅れる!」
「すみません!」
本日二度目の遅刻未遂になりながら、大会議室に入室するとほとんどの社員は来ていた。会社全体の会議ともあって、知らない人ばかりだ。佐久間ですら見つからない。
空いている後ろの席に松田と着席し、始まるのをひたすら待つ。
そして司会進行を担当している総務部の女性社員の声がし、みな静まり返る。
「では、ただいまより会議を始めます。事前にお知らせしていますが、今日の内容は来年度の人事に関するものです」
(き、来たあ……)
春人は俯き、拳を握った。汗が滲み、前から回される資料の擦れる音が恐怖にしか聞こえない。
(絶対に化学事業部にだけは行きたくない)
春人の気が重い理由はこれだ。
あれ以降、田中から直接のアプローチはなく、逆にそれが恐ろしかった。何もないまま迎えたこの会議、目の前でふんぞり返っているだろう田中を見れば自分の運命をあのいやらしい顔に告げられてしまいそうで視線を上げる事ができなかった。
——カサッ
と前から回ってきた資料に「お願いします」と祈りながら受け取る。
そしてインテリア事業部の欄を、心臓をバクバクさせながら指でなぞる。
(つ……つ……つ……あっ)
指が震えながら止まる。
——インテリア事業部 月嶋春人
(よかったあ……来年度もインテリア事業部だ‼)
「よろしくな月嶋」
こそっと耳打ちする隣の松田も一緒だ。
「はい!」
ほっと一安心したのも束の間、社員が落ち着いたのを確認して進行役が勧める。
「では来年度の人事に関して、人事・広報部部長の近藤から話があります」
広い会議室に必須なマイクが近藤の手に渡る。
「では来年度の管理職の公表から。一か所を覗き、ほとんどの部署で管理職の変更はありません」
来年度も村崎のもとで仕事ができると、春人と松田はテーブルの下でガッツポーズをした。
「異動があるのは人事・広報部。僭越ながら私、人事・広報部部長近藤は来年度本社へ転勤となりました」
会議室がざわつく。近藤が異動という事は新しい部長のポストには誰が付くのか、皆の頭が異動の資料を見る為に下がる。
だが、わざわざ見つけなくても本人が立ち上がった。
(嘘でしょ……)
春人は手にしていたボールペンを落とした。カラカラと転がり、動けななくなった肘に引っかかり止まる。
ざわつく室内を制するように姿勢よく立ち上がったのは……
「来年度から人事・広報部長に就きます赤澤修一です」
前方で立ち上がった赤澤が社員の方を振り返り一礼をする。みな「赤澤さんだ」「部長に昇進したんだ」とヒソヒソ声を飛ばし合う。
しかし春人は固まったまま。
(なんで……)
近藤からマイクを受け取った赤澤が「新部長の赤澤です。そして……」と言いながら横を向く。
そこには……
「こちらは新しく設けた人事・広報部副部長に就きます……」
赤澤の横で彼より背の高い男が頭を下げる。
そして赤澤からマイクを受け取り一言
「アルバート・ミラーです。よろしくお願いします」
と、春人の大好きな低い声で挨拶をした。
衝撃で肘で止まっていたボールペンがカランと揺れる。
言葉は何もいらない。そこにいるだけで、肌を触れ合わせるだけで全てが伝わる。
好き。
愛している。
逢いたかった。
そして熱い抱擁の後、アルバートが春人の頬を包み込み、唇を寄せる。
初めてのキスと同じように心臓が高鳴る。初々しく感じるのはそれだけ二人の時間が空いていたから。
そしてそれを埋めるかの様に余裕なく舌を絡ませあった。
「ふあ……んッ……んん」
糸を引き、それも逃がさないと舐めとり、また咥内で激しく動く。呼吸をいつしたか分からい程隙のないキスは春人の頬を紅潮させる。
「君の唇は柔らかいね」
と、感触を楽しんだアルバートが春人の苦しい表情を助けるかのように、唇を離した。
その優しさにアルバートの存在を再認識し、跳ねながら首に抱き着く。
足が浮き、その足を抱えられ、お姫様抱っこでベッドへ連れて行かれた。
──ギシッ
沈むスプリング、舞い上がる薔薇の香りはアルバートのものかそれとも昨日の残り香か……どちらにしても同じそれは春人の瞳を恍惚にさせる。
それを楽しむだけの理性はアルバートに残っていない。その瞳に誘われ、春人の釦を外していく。
「ああッ」
外しながら人差し指を肋骨の隙間に這わせ、春人の声と肌を震わせる。下りていく指とは逆に、背筋に突き上げられるような悦の旋律が走った春人はアルバートの背中に爪を立てた。
「ああ、春人がいる」
背中に感じる痛みを嬉しそうに受け入れるアルバートの安堵した声に、春人はハッと彼を見た。
その何か言いたげな視線にアルバートは微笑み、耳元で「寂しかったよ」と囁いた。
今まで2人が交わすのを躊躇っていた単語。
先にプライドを捨て去ったアルバートに春人の我慢も弾けた。
「僕も、僕も寂しかった」
春人の今まで我慢していた気持ちが口から、そして瞳からも溢れ出る。
「毎日、毎日寂しくて、悲しくて、辛くて……」
瞳が涙で沈み、底で揺れる漆黒がとても幻想的だ。黒い湖面に浮かぶ月は、プラチナブロンドで和と洋の融合──やっとお互いの気持ちを言い合えた2人を表しているようだ。
春人の睫毛がお辞儀をして濡れる。そして漆黒の湖は消え、代わりに湖の主が真っ直ぐにアルバートを見つめていた。
「別れ際が辛いって言ったけど、本当はずっと辛いんだ。別れも、別れた後もどんな時もずっと辛くて、寂しい。でもアルが大好きだから会いたい気持ちもあって……どうしたらいいか分からなくて……」
必死に言葉を繋げる間、アルバートは春人の頭を撫でた。それに助けられながら「寂しい」「辛い」そして「大好き」と半年以上溜め込んだ想いを放つ。
それと同時に
「アルバート、抱いて」
と恋人を求め、溢れて空いた隙間を快楽で埋めようとする。
服を脱がせている途中だったアルバートも「私も我慢できない」と指をベルトに引っかけた。
その後は喘ぎ声とスプリングが軋む音、絡まりあう水音の三重奏だった。アルバートの吐息も混ざり四重奏になる事には春人が朦朧とする脳内で言葉を組み立て、再び想いの丈を発散し始めた。
「ひう、ああ……あ、あ、あッ……もっとして……もう、ああ、寂しくならないくらい」
そんな事は不可能だ。
どれほど抱いても結局別れがくれば寂しくなる。
しかしアルバートはそれに応えようと激しく腰を振り、前立腺を擦り上げる。
「あぁぁ! ……はあ、はん、んあ、ん、んん‼」
激しい快楽にもう何が何だか分からない。口は開きっぱなしで、口元を伝う液と、頬を伝う雫を何度も舐め上げるアルバート。
「ほっぺだけじゃ足りない。キスしてよ」
と強請る春人の唇はキスではなくもっと深い物を求めている。
——グチュグチュ、ピチャッ
と脳を蕩けさせる甘いディープキスは、どんどん春人を落としていく。
そして……
「お願い……もうどこにも行かないで」
一番相手が困るであろうことを口にしてしまう。
「ずっとそばに居てよ。帰らないで」
言葉を変えても、意味は同じ。
それを何度も何度もアルバートに言うが、彼は抱きしめるだけ。
最後は黙らせるように腰を打ち付け、後孔だけで春人を絶頂に誘った。
「んあ! はあ、ひゃあ、だめぇぇ……ああんッ‼」
と白濁の欲がアルバートの腹部を汚す。肩で息をし、最後にもう一度
「どこにも行かないで、アルバート」
と消え入りそうな声で告げた後、掬い損ねた雫が頬を伝う。
そして先ほどの激しさを感じさせない穏やかな表情で目を閉じた。
「春人……」
もう伝って跡だけを残す悲しみの軌跡を指でなぞる。
「君のそばに居るよ」
そう言ってアルバートも春人を抱き締め、目を閉じた。
◇ ◇ ◇
「やばーい‼ 遅刻する‼」
春人は隣でアルバートが寝ているのもお構い無しに飛び起きた。その声で起きたアルバートも目を擦りながら身体を起こす。
「ごめん、アル! 僕もう会社行くね!」
バタバタと用意をする春人を見て、アルバートも散乱した服から自分の物を救いだす。
「うわあ、やばい。今日会議なのに!」
玄関で急いで靴を履き、一気に仕事モードに切り替えるが、アルバートに顎をとられその顔は緩む。
しかしアルバートの表情は真剣そのもの。
「昨夜は君の気持ちを聞けて嬉しかった。ありがとう。でも私の話をしていない。もしよければ今夜にでも聞いて欲しい」
(寂しい以外にアルが抱えている気持ちって何だろう?)
聞くのが少し怖い。
「……うん。早めに帰る。とりあえずもう行くね! 行ってきます!」
引き寄せられ「行ってらっしゃい」とキスをされた後、会社まで猛ダッシュで駆ける。
会社が近くなり、スピードを緩める。ようやく覚醒した脳内が昨夜の奇行を鮮明に思い出させる。
(無理させた)
気持ちを言えてすっきりしたはずなのに、一夜明ければ罪悪感に苛まれる。
気持ちだけでなく、願望まで伝えてしまった自分を責める。
(絶対にアルを困らせた)
歯止めの効かない告白は「ずっと居たい」などという不可能な願望までも相手に伝えてしまった。
夢に完璧に吸い込まれる間際にアルバートが言った「君のそばに居るよ」という言葉が再生される。
(最悪だ。無理に言わせちゃった。そんなつもりじゃなかったのに)
もし帰った時にアルバートの話しが昨日の事だったらどうしようと頭を抱える。
(結局こうなるなら言わなきゃよかったのかな……)
など努力を無駄にする考えまで浮かんだところで会社に着く。重い足取りのままオフィスへの階段を登り、そしてデスク上の資料で会議の事も思い出し、更に気分が滅入る。
何故なら今日の会議は春人の来年度の運命を決める会議だからだ。
「おはようございます」
「おはよう! どうした月嶋、げっそりして」
松田の心配そうな声に適当に返し椅子に身を預ける。会議は昼過ぎ、それまでは会議で時間がとられる分、急ピッチで仕事を進めなければならない。
「よし」
村崎に頼まれた新企画のファイルを開き、春人を仕事に集中した。
しかし前半はなかなか集中できず、ようやく軌道にのり始めた時には会議の時間になり、松田に声をかけられるまでずっと資料に没頭していた。
「やべえ、遅れる!」
「すみません!」
本日二度目の遅刻未遂になりながら、大会議室に入室するとほとんどの社員は来ていた。会社全体の会議ともあって、知らない人ばかりだ。佐久間ですら見つからない。
空いている後ろの席に松田と着席し、始まるのをひたすら待つ。
そして司会進行を担当している総務部の女性社員の声がし、みな静まり返る。
「では、ただいまより会議を始めます。事前にお知らせしていますが、今日の内容は来年度の人事に関するものです」
(き、来たあ……)
春人は俯き、拳を握った。汗が滲み、前から回される資料の擦れる音が恐怖にしか聞こえない。
(絶対に化学事業部にだけは行きたくない)
春人の気が重い理由はこれだ。
あれ以降、田中から直接のアプローチはなく、逆にそれが恐ろしかった。何もないまま迎えたこの会議、目の前でふんぞり返っているだろう田中を見れば自分の運命をあのいやらしい顔に告げられてしまいそうで視線を上げる事ができなかった。
——カサッ
と前から回ってきた資料に「お願いします」と祈りながら受け取る。
そしてインテリア事業部の欄を、心臓をバクバクさせながら指でなぞる。
(つ……つ……つ……あっ)
指が震えながら止まる。
——インテリア事業部 月嶋春人
(よかったあ……来年度もインテリア事業部だ‼)
「よろしくな月嶋」
こそっと耳打ちする隣の松田も一緒だ。
「はい!」
ほっと一安心したのも束の間、社員が落ち着いたのを確認して進行役が勧める。
「では来年度の人事に関して、人事・広報部部長の近藤から話があります」
広い会議室に必須なマイクが近藤の手に渡る。
「では来年度の管理職の公表から。一か所を覗き、ほとんどの部署で管理職の変更はありません」
来年度も村崎のもとで仕事ができると、春人と松田はテーブルの下でガッツポーズをした。
「異動があるのは人事・広報部。僭越ながら私、人事・広報部部長近藤は来年度本社へ転勤となりました」
会議室がざわつく。近藤が異動という事は新しい部長のポストには誰が付くのか、皆の頭が異動の資料を見る為に下がる。
だが、わざわざ見つけなくても本人が立ち上がった。
(嘘でしょ……)
春人は手にしていたボールペンを落とした。カラカラと転がり、動けななくなった肘に引っかかり止まる。
ざわつく室内を制するように姿勢よく立ち上がったのは……
「来年度から人事・広報部長に就きます赤澤修一です」
前方で立ち上がった赤澤が社員の方を振り返り一礼をする。みな「赤澤さんだ」「部長に昇進したんだ」とヒソヒソ声を飛ばし合う。
しかし春人は固まったまま。
(なんで……)
近藤からマイクを受け取った赤澤が「新部長の赤澤です。そして……」と言いながら横を向く。
そこには……
「こちらは新しく設けた人事・広報部副部長に就きます……」
赤澤の横で彼より背の高い男が頭を下げる。
そして赤澤からマイクを受け取り一言
「アルバート・ミラーです。よろしくお願いします」
と、春人の大好きな低い声で挨拶をした。
衝撃で肘で止まっていたボールペンがカランと揺れる。
0
お気に入りに追加
202
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
食事届いたけど配達員のほうを食べました
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか?
そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
そばにいてほしい。
15
BL
僕の恋人には、幼馴染がいる。
そんな幼馴染が彼はよっぽど大切らしい。
──だけど、今日だけは僕のそばにいて欲しかった。
幼馴染を優先する攻め×口に出せない受け
安心してください、ハピエンです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる