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第七章 Break Time

第六話 背中の薔薇

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 アルバートが日本を発った翌日から、再び春人の残業漬けの毎日が始まった。
自分の上にだけ降り注ぐ蛍光灯の明かり。その下でパソコンとにらっめこしたり、書類に目を通したりと忙しい。そしてプラスで新しい事も始めた。
語学上達の為の学習とアジア市場の研究に、ヨーロッパ市場の研究も始めた。
今すぐ役には立たないかもしれない、それでもいつか役に立つと信じ、勉強を始めた。アルバートのいない日々を埋めるという目的もあるが、理由はもう一つある。

 異動の可能性だ。

「田中部長、僕をどうする気なんだろ……」

ぽつりと漏らした名前は、先日春人に暗雲をもたらした隣の部署の部長。

——来年度の話もね……

転勤か異動かは分からない。悪い方に目をつけられれば出向の可能性も否めない。
 今後迫りくる現実に直ぐに対応する為の知識は必要不可欠だ。それも理由の一つとして自分に言い聞かせ、この勉強を始めた。
 ファイルの下で苦しそうにしている語学のテキストを見下ろしていると後ろから声をかけられる。

「田中部長がどうかした?」
「うわあああ! って、佐久間さん! おどかさないで下さいよ」

 インテリア事業部には顔を出さない佐久間がケラケラと笑って春人の背後にいた。

「こっちにきて大丈夫なんですか?」
「大丈夫。うちももう誰もいないし、ここも月嶋君一人だけだから」
「徹底してますね」

確かに、インテリア事業部の人間から、田中に何らかの形で佐久間が来たと漏れる可能性はある。

「田中部長、なかなか厄介な人だからね。過剰なくらい注意していて損はないよ。で、その部長がどうかしたの?」
「何もないです! ところで佐久間さんは何をしているんですか?」
「ん? 誰かさんが寂しくて残業しているんじゃないかなと思って覗きに来たの!」

案の定、月嶋はそこにいて。かつ、誰も居なかった為、初めて足を踏み入れた。

「何も音がしなかったからびっくりしちゃいましたよ」
「声かけたよ? でも何か考え事してたみたいだから。ミラーさんの事考えているのかなって思ったけど、まさかのうちの部長だったよ」
「ははは。ちょっと色々……」

恥ずかしそうに苦笑いし首の後ろに手を当てる春人。

「っていうかデスクの上散らかってるから、あまり見ないでくださいね!」

と、慌てて語学のテキストを隠す。その時、擦れてヨレた襟元から覗く赤い印に佐久間は気づいた。

「ねえ」
「はい? うわっ!」

春人の襟に人差し指を引っかけ、佐久間の方へ引き寄せる。
 そのとき微かにできた隙間から背中に視線を滑り込ませる。
白色光がありありと見せつける赤い印に、佐久間は眉間に皺を寄せた。

「佐久間さん? どうしたんですか?」
「え? ああ、田中部長とのご飯の件、そろそろ決めたいいんだけど」

いつもより低い佐久間の声。それは春人の背中へ向けられる感情が起こしたもの。だが、向けられた本人は「まだ決めてなかった!」と焦り、慌てて手帳を取り出した。

「んー、いつがいいのかな」
「待ちくたびれているから早くね」

と催促の意味も込めて、襟をクイッと引っ張り、もう一度シャツの中をこっそり確認する。

(はいはい。分かっていますよ)

人差し指を抜く。

「また今度教えて。いつでも連絡入れてくれていいから。ついでに俺ともご飯に行こうね」

手をヒラヒラと上げ、佐久間はオフィスから出て行った。
 そして無言の挑戦状に受けて立つと言わんばかりに、相手と同じ煙草に火をつけた。

◇         ◇        ◇

 
「なななな何これ?!」

春人は帰宅後、脱衣場で焦っていた。
背中に点在する無数の痣。
一番上の痣は襟を引っ張れば見えてしまう位置にある。

「どうしよう。皮膚科に行くべきなのかな?」

上半身裸のまま、スマートフォンで皮膚病を調べる。生々しい画像に自身の痣を照らし合わせる。
丁度その時アルバートから帰国したとのメッセージが入り、一気に血の気が引く。

(もし……人に移る病気だったら……)

病室で横たわるアルバートを想像してしまい、急いで発信ボタンを押した。

『もしもし? 今イギリスに着いたよ』
「アル!」
『ん?』
「身体大丈夫?! どこかおかしなところない?!」
『しいて言えば頭が……』
「頭が?! 痛い?! 何かに脳を食われているんじゃないの?!」
『いや、ただの時差ボケだ。どうしたんだ、そんなに慌てて』
「僕、病気かも……背中に何かできてる。アル、昨日僕の背中にキスしたよね? もし、感染する病気だったら……」

春人を悲しみのどん底に起こした背中への愛撫は、本当に不幸をもたらした──そう勘違いしている春人はひたすら悲しい声をだして項垂れる。
 だが、それとは逆に愉快そうな笑い声が電話口からは発せられる。

『それはキスマークだ』
「キスマーク?」

春人の頭の中にははてなマークが浮かぶ。
春人がそれを知らなかったことに驚いたアルバートは仕方なく説明をした。

『私がつけた。春人は私のものだよ……という意味だ』

 春人は年上の恋人が見せたとんでもない独占欲に赤面する。

「こ、こんなことしなくても僕はアルのものだよ!」
『それでもつけたかったから。心配をかけてすまない。まさか君がキスマークを知らないとは思わなくて』
「もー! 驚かせないでよ! それにどうせ僕は未経験で何も知りませんよーだ!」
『それでいいのだ。君は何も知らず、純粋なままでいてくれ』
「病院行くところだったんですけど」
『それは困るな。医者には見せる必要のない代物だ』
「医者じゃなくても見せる人なんていません」

アルバートが無言になる。
電話の向こうで雑音がし、『すまないバスが来た』とようやく声がしたが、それは電話終了の合図。

「二階建てバス? 写真欲しいな!」
『君の背中の写真と交換だ。では、失礼するよ。楽しみにしている』

と、送ると言っていないのに、勝手に約束を取り付けたアルバートは電話口から消え、代わりに無機質な機械音が切断を知らせてくれる。

 しかし春人の心はどこか晴れやかだった。あの愛撫には彼の静かな燃える愛情が込められていたと思うと、「もっと楽しめばよかった」と現金な思考になってしまう。
 鏡の前で背中を向ける。そこに散らばる花はアルバートが送ってくれた薔薇の花びらの様にも見えてきた。

「ありがとう、アルバート」

 その後、予想を覆し何十枚と送られてきた背中の写真に、アルバートはバスの中で悶絶することとなる。
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