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第六章 Another Sky

第六話 米とパン

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 電話越しに1人でしてしまった翌日、早めに出社した春人はオフィスの扉を開けるのを躊躇った。しかし、既に来ていた村崎に「大丈夫だ」と合図を送られ、入室する。

(近藤部長と田中部長だ)

 村崎のデスクを取り囲んでいたのは、人事・広報部部長の近藤と化学事業部部長の田中だった。
神妙な面持ちで、ピリピリと空気が張りつめている。まだ誰かを待っている様子だが時折田中の苛立った声が聞こえる。

「どうするんだ! 人事でどうにかできないのか?」
「そんな事言われても、うちと総務は貿易実務に長けている人がいませんからね」
「うちかインテリア事業部に押し付ける気か」
「まあまあ田中部長、あっおはようございます佐竹部長!」

タイミングよくやって来た経理部部長の佐竹のお陰で言い合いは中断する。

「遅くなってすまない。何があった」

手で顔を仰ぐ佐竹に村崎が事の次第を説明した。

「福岡空港支社で欠員が出たそうです」
「あのイギリス人か」
「違います。重要な取引をしていた社員が病気で入院するそうです。それで補充の要請が来たんですよ。」

皆押し黙る。

「福岡空港支社は、元々人数が少ないから一人減るだけでも大事おおごとだ。経理の人間が必要ならうちから出そう」

佐竹の気遣いに噛みつく様に田中が口を開く。

「貿易実務をこなす社員が必要だそうだ。つまりうちか、インテリア事業部。それが無理なら経理だ。総務と人事は役にたたんからな」

相変わらずの嫌味。だが、今はそれにかまっている暇は無かった。
 後藤が「今、化学事業部もインテリア事業部も暇とは言い難い……どうしたものか」と頭をかく。
 
ため息をつく管理職に恐る恐る春人は近寄った。

「すみません。お話が聞こえてしまって」

村崎が顔を上げる。

「どうした月嶋」
「あの、僕で良ければ行かせてください。2か月先までの仕事は既に終わっています。なので僕に任せて貰えませんか?」

近藤の顔が晴れる。

「本当かい? ああ確か君は月嶋君だっけ? 噂は去年から聞いているよ。研修生の指導も新人ながら大したものだった」

 急に褒められ照れる春人の仕事が終わっているのは本当だ。アルバートのいない寂しさを埋めるために詰め込んだ仕事が今になって役に立った。
 
「すまない。頼まれてくれるか月嶋。もし急な仕事が入れば松田に任せておくよ」
「よろしくお願いします!」

問題解決で和んだ空気、その中で1人、眉間に皺を寄せる男がいた。

「……よし、化学事業部からも誰か一人だそう。」

田中が提案する。

「しかし化学事業部は手が空いていないのでは? だからできればうちから出してほしいと言ったのは田中部長ですよ?」

春人が出社する前に田中がどんな会話をしていたのかが分かる。

「暇な人間が1人いるのを思い出したのだよ。うちからは佐久間を出す。」

春人が名乗り出た事で対抗心を燃やしたのだろう。

「佐久間はうちのできる営業だ。月嶋君も学ばせてもらうといいよ」

といやらしい笑みを浮かべる。
ここで「1人で十分だ」と言い出せばまた面倒になる。皆心に渦巻く本音を抑えこむ。
そして後藤がデスクの受話器を上げた。

「借りるよ。じゃ、月嶋君と佐久間君が行く事を伝えておこう」

後藤が電話をかけ始め、部長たちは各部署へと戻り始める。
 春人も慌てて準備をし、村崎とロビーへ向かった。既に待ち構えていた田中と横にいる佐久間。

「では、行ってきます!」
「よろしく月嶋。佐久間、まだ2年目で学ぶことが多い子だけどよろしく頼む」
「本当にその通りだ。頼んだぞ、佐久間」

田中が顎を掻きながら村崎を見るが、本人は無視を決め込んだ。

「月嶋君と役目を果たしてきます」

と佐久間も当たり触りのない返事をする。
 そして2人の部長に見送られ門司支社をあとにした。

「佐久間さんで良かった!」
「俺も田中部長から話が来た時は、嘘だろ?って思ったけど、月嶋君と一緒なら心強いな」
「色々学ばせてください!」
「俺で良ければたくさん仕込んであげるよ」

妙に色っぽい声を出す佐久間。しかし、横を通り過ぎた自動車の音でそれは聞こえなかった。

 社用車を飛ばし、窮地に陥った支社に到着する。

「こんにちは! 門司支社から来ました月嶋と佐久間です!」

佐久間の声に社員が安堵の表情を浮かべて2人を見た。その中には赤澤とまだ残る2人の研修生もいた。

「近藤部長から話は聞いているよ! 本当に助かった。実はうちの社員と赤澤君が担当していた仕事の引継ぎをお願いしたい!」

赤澤が申し訳なさそうに近づいて来る。

「仕事の説明をするからちょっといいか?」

その目元には隈が出来ていた。
疲労を滲ませた背中についていく。
通されたミーティング室は門司支社より狭い。そこでいくつかの資料を渡される。

「急に悪いな。早速だが仕事の話だ。この支社は最初から最後まで一人の担当が仕事をもつ。俺が受け持っていたのはヨーロッパ諸国に……」

赤澤が仕事の説明をする。春人にとっては初めての欧州方面だ。しかも相手は一か国ではない。英語さえあれば問題ないが対応の仕方がアジアとは異なってくる。

「あとは経路の確保、そして問題は次だ。倉庫の確保だ」

赤澤が資料をトントンと叩く。

「倉庫の確保まで相手側から委託された。こればかりは次につなげるサービスとでも思ってくれ。この倉庫の場所に困っている」

品物はヨーロッパの複数の国に渡る。その前に品物の保管場所を確保する必要がある。日本から数か国に送るより、一度に送ってしまい、そこからはヨーロッパの運送業者に委託する方が今回はコストが安くなる。

「倉庫が決まらないと運送経路も決まらない」

困ったように赤澤は頭を抱えた。
そこへ資料に目を通していた佐久間が口を開く。

「イギリス、フランス、ベルギー、イタリア、ドイツか。……これ、門司支社の化学事業部がコンテナを共有しているアンリスクロス貿易会社と内容が似ていますね。その会社にコンタクトをとって助言を聞くのも一つの手です」
「アンリスクロス貿易会社なら……」

赤澤が春人に視線を送る。だが、その意味が理解できず春人は目を見つめ返すだけだった。その横で佐久間が話を続ける。

「倉庫の確保は俺がします。その後、経路の確保は月嶋君に任せてもいい? いくつか予定地を決めるからほぼ同時進行で使用経路と手段のモデルをいくつか作ってほしい。折角調べて貰ったのに使わないモデルも出てくるのが申し訳ないけど……どうかな?」

佐久間の的確な指示に月嶋は頷き、赤澤も「方法は2人に任せる」と肩の荷が下りた表情になった。

 オフィスに戻り、与えられた席でファイルを開き、あれこれと漁る。その最中、春人はグルリと室内を見渡した。

(ここのどこかにアルバートがいたんだ)

彼の匂いが漂っている気がする。
でもそれは佐久間の煙草の匂いだった。

 そして2人で作業の確認をし、「月嶋君は今後に備えて」と佐久間が残業をしようとしている春人に声をかけた。
佐久間の事もあるがこのまま家に帰っても、一人でヤって虚しくなるか、寂しさで押し潰されそうになるかのどちらかだ。

「いえ、残ります!」

しかし佐久間は困ったように笑う。

「じゃ、ちょっとお使い頼んでもいい?」
「はい! 勿論です!」
「晩御飯買ってきてもらってもいい? 月嶋君チョイスで! 仕事に精が出るようなのがいいな」

と伝えると春人はパアと笑顔になり、「はい!」と返事をする。そして財布を持って佐久間1人をオフィスに残し出て行った。

「可愛いな。……これでしばらくは帰ってこないかな?」

そして時間を確認してデスクの受話器を持ち上げた。


◇      ◇              ◇

アンリスクロス貿易会社 日本専門部

「こりゃ、やばいな」

と苦笑いをするビクトールの前にはオフィスに転がる酒瓶と仕事の仲間達。

「窓を開けるか」

と後ろから来たアルバートがオフィスの窓を開ける。

「アルバートは昨日のお祭り騒ぎに何時までいたんだ?」
「21時には帰ったよ。まだ仕事が残っていたからね」
「まさかここで仕事をしたのか? サッカーの優勝パレードのど真ん中みたいな場所で?」

と肩を竦めるビクトールだが、冗談を飛ばしているのは顔に出ている。

「持って帰ったよ。君こそ、何時までいたんだ?」
「僕は君より前に帰ったよ。覚えてないのかい? ああ、でも確かに昨日のアルバートの顔は少し浮かれていたよ。さすがのアルバートでもあれだけ大きな仕事を片付けたなら小躍りもしたくなるだろうね」
「踊っていたのか? 私が?」
「ジョークだよ。で、これはどうする? もう少しで始業の時間だ」

ビクトールが口をへの字に曲げ見渡す。

「今日くらいいいだろ。昼にはみな起きてくる。とりあえず冷蔵庫にサンドイッチでも入れておこう」
「僕が買ってくるよ。下のカフェの美しいレディーに挨拶をしなきゃね。朝、いってきますのキスを忘れたからご立腹なのさ」

ビクトールがオフィスビルの一階で働く妻の御機嫌取りに向かい、アルバートはその背中に無事を祈った。
 そして自分のデスクへ向かう。

(浮かれていたか……)

頬を撫でる。
浮かれていた理由は仕事だけではない。久しぶりに聞いた恋人の声のせいだ。しかも微かな喘ぎ声付き。
 電話をしたのは数か月ぶりで2回目。1回目は帰国した日に空港で。だが、あれも春人が仕事の前で少しだけしかできなかった。

(仕事の前に思い出すにはいささか刺激が強いな)

と昨日の事を胸にしまい込み、椅子に身を預けた。
 それと同時に電話が鳴る。
倒れ込む社員の一人が唸りながら手を伸ばしたが「私が出るから、休んで構わない」と受話器を取った。
 番号は日本だ。

「もしもしアンリスクロス貿易会社です」
『もしもし東亜日本貿易福岡空港支社の佐久間と申します』

(サクマ……しかし彼は門司支社では?)

お互い簡単な挨拶を済ませたところで佐久間が本題に入る。

『──実はそれで倉庫を探していて、何かお力を貸していただけないかと』
「分かりました。では、担当の者に折り返し連絡させます。今、席を外していますので」

この下で妻と熱いキスを交わす同期宛てのメモを走り書きする。

「それと、今受け持たれている仕事の担当は今田さんでは?」

佐久間の話す内容は、記憶を刺激してくれる仕事内容だった。

『よくご存じですね。しかし彼は体調不良で休職しています。それで門司支社から派遣されてきたんです』

(なるほど。それでそっちにいるわけだ)

疑問が解決し、最後の挨拶をしようと口を開いたその時だった。

『インテリア事業部の月嶋君と一緒に』

と告げた佐久間の声は意地悪に聞こえる。
そしてそれに胸がざわついた。

「そうか」
『知っていますよね?』
「……知っている。勿論佐久間さんの事も知っている。一度福岡空港支社であったはずだ」

佐久間が何を話したいのか先が読めない。
だが、長年の経験が言っている

(やはり私とは合いそうにない)

そして消えぬ嫌な予感は的中のカウントダウンを始める。

『お2人はどんな関係なんですか?』
「……指導員と研修生だ」
『本当ですか?』
「……」

目の前では夢の中の社員達。それでも本当の関係を言うのは躊躇ってしまう。

「他に何が?」

仕方なく逃げた。だが佐久間は諦めない。

『それ以上の関係なのかなって。じゃないと空港で月嶋君があんな顔するかな?』
「空港? あんな顔?」
『見ていたんです。長期休暇明けに、保安検査場の前で帰国するミラーさんと月嶋君を。その後でテラスにいた彼も』

心当たりがありすぎて、アルバートはビクトールに渡すメモ用紙に皺を寄せた。

「人違いでは?」
『ありえないでしょ。あんな目立つプラチナブロンドと可愛い男性を見間違う訳ない。それにテラスから出てくる月嶋君と話したんで。』
「急な帰国だったが、彼が時間を見つけて最後の挨拶に来てくれたのだ。勿論、指導員として」

最後の単語は力強く言う。
佐久間のため息を聞こえ、ようやく諦めたかと思った。だが、それはこの後の告白に向けた深呼吸だった。

『じゃ、俺が月嶋君と付き合っても問題ないですよね?』
「?!」

——予感は的中した。遠距離恋愛には最悪な結果を残して。

アルバートはもう迷ってはいられなかった。

「春人に手を出すな」

自分でも驚くほど低い声が出る。
そしてタイミング悪く戻ってくるビクトール。

「すまない。切らせてもらう」
『どうぞ』

勝ち誇った声が憎らしい。
 受話器を置き、サンドイッチを両手いっぱいに抱えるビクトールの額にメモ用紙を張り付けた。

「ちょっとキスが短いんじゃないか?」

と口を出してしまう程、アルバートは動転していた。落ち着きなく指を動かし、ポケットから春人にプレゼントされた腕時計を取り出す。

 日本時間をずっと刻むそれ。
最初は仕事中もつけていたくてイギリス時間にネジを回そうと思った。
しかし付き合った頃から時を刻むそれを過去に戻すのが嫌で、今はポケットの中でお守りのようになっている。

(春人に電話をかけようか)

しかしこちらは勤務時間中。
しかも「サンドイッチですよー!」などと機嫌よく冷蔵庫に話しかけるビクトールの声に社員が起き始めた。
もうオフィスをワーキングモードに切り替えねばならない。アルバートは胸に大きな蟠りを抱えたまま次の仕事にとりかかった。


         *

 おにぎりを買い込んだ春人がオフィスに戻った時、佐久間はいなかった。デスクには電話横のメモに「ビクトールさん 後日連絡」と走り書きがある。

「もう倉庫の件、片がつくのかな?」

身が引き締まる。
そして伸びた背筋にあのテノールが降ってくる。

「あっ、おかえり!」
「ただいま戻りました!」
「ありがとう。一服してた」

そして大量のおにぎりに佐久間は思わず笑ってしまう。

「すご! 前に飲みに行った時も居酒屋でご飯頼んでたけど、白米好きなの?」
「はい! 日本人ですからね! あっ、お菓子とサラダもありますよ!」

役割を果たしてどや顔の春人を見つめる佐久間の瞳が妖美に光る。

「月嶋君、笑うと可愛いよね」
「そ、そうですか?!」
「うん」

照れる春人に手を伸ばす。
そして人差し指が鼻を掠め額を弾いた。

「?! ……いたっ!」
「でも、その顔が続かないくらい働いてもらうからね」
「任せてください!」

額を擦りながら返事をする春人が、鼻を掠めた指先に付着した匂いに反応したのを佐久間は見逃さなかった。
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