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第一章 Unrequited love

第五話 恋の霧

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 松田の作戦は上手くいった。
春人はあれ以降、アルバートとの距離が縮まり、前ほどストレスを感じなくなっていた。その分できた精神的余裕の行き先は勿論村崎に向けられる。
順調に仕事と指導を進める春人を村崎は褒めてくれる。それに一喜一憂し、気持ちは更に高ぶっていく。
 頑張る部下を褒めているだけだが、春人にはその単純な気持ちが桃色に膨れ上がる。
 そして今日も、同じ日常になると思っていた。
 
「アルバート、さっきの資料、村崎部長に提出しておくね!」
「それならもう……」

提出するはずの書類は既に済みになっていた。折角のチャンスが無くなってしまったと伏し目がちになる春人。
 だがそんな彼を呼ぶ優しい声がした。

「月嶋!」

 満開の笑みを咲かせながら春人は顔を上げた。
村崎はデスクから部下を口で使う事はない。必ず部下の元まで自分で来る。
今回も名前を呼ばれた時には既に腰を上げていて、こちらに向かっていた。
駆けだしそうになる足と、高鳴る鼓動をどうにか抑える。

「これ、確認したから。アルバートも」
「ありがとうございます!」
「ありがとう」

 村崎から資料を渡されるアルバートを盗み見る。赤澤と村崎の年齢は同じ、つまりそれはこの二人も同年代であるということだ。それが分かる距離感にすら嫉妬してしまう。だがそれは春人の身勝手な物。どうにかして隠そうと、受け取った資料の内容を無理矢理頭に詰め込んだ。
 しかし、何度読み返しても疑問符が浮かんでしまう。

「出張?」

 提出した覚えのない出張届だった。
まさかスケジュールチェックを怠ったかと手帳を開くが、指定の日時は空白だ。
 では誰がこの出張届を提出したのか……

「俺だよ」

赤澤だった。
突如背後に現れた男に、春人は嫌な予感がした。

「赤澤さん」
「海外研修生及びその指導員全員だ。その日、福岡空港支社に行く。急に決まったから俺がまとめて出しといた」
「ミスがあるけどな」

ポンと、村崎が赤澤に書類を押し付けた。

「えっ?」

そんな馬鹿なと赤澤は穴が開くほど書類を見つめ、「あちゃー」と声を出した。

「詰めが甘いな赤澤。自分のだけ間違えるなんて」
「これくらい直しといてくれ……下さいよ、部長様」

と、おちゃらけて赤澤は村崎の肩を組んだ。その瞬間、今までにないくらい春人の腹の底に負の感情が宿った。
 急な事に隠しきれず、とうとう顔に出てしった。青ざめたり、赤くなったりと忙しい春人に気が付いた赤澤が、その額にデコピンをした。

「おい、顔」

 デコピンを食らってもなお、春人は先ほどの表情のまま赤澤を凝視している。
その威嚇するような視線に、さすがの赤澤もデコピンでは済ませなくなった。

「月嶋、ちょっと来い」

他の社員には気づかれないように顎でミーティング室をしゃくる。
だが、その場にいた男たちには隠せなかった。「おい、今は就業中だ」と、村崎が止めに入る。

「じゃ、昼休みだ」

と、言葉の上げ足を取った赤澤が言い逃げした。それを追いかける村崎。そのまま赤澤をミーティング室に引っ張り込んだ。

「大丈夫だろうか?」
「……」

 何も知らないであろうアルバートが声をかけるが春人は立ち尽くすしかなかった。

 一方、ミーティング室に連れ込まれた赤澤は、村崎に詰め寄られていた。

「あいつはいつか諦める。それまで待てないのか?」
「ああん?」

低い同期の声に一歩下がってしまう。気分を損ねている赤澤は乱暴に椅子を引き、ドカッと座って腕を組んだ。

「いつって、いつだよ?」
「それは……でも、恋なんていつか終わるもんだろ?」
「だからそれはいつ来るんだよ。ちなみに俺は嫁さんともう二十年近く恋してるぞ」

空気を和ませるための赤澤の例えだったが、それは暗に春人との長い戦いを予感させていた。

「ああもう! お前の惚気はいい!」
「もう俺がケリつけるぞ」
「冗談はやめろ。俺の部下だぞ」

 下から見上げる赤澤の瞳には冗談の文字は全く滲んでいない。

「部下だから言えないんだろ?」
「……」
「部下と上司の良い関係でこれからもいたいなら、これが最善なんだよ。泥被るのは俺で十分だ」

 村崎を超がつくほど優しいと指摘したこの男もまた甘い人間だった。表には出さない、しかし根本的な所は村崎と変わらないのだ。
むしろ優しすぎる同期のストッパーになる為に厳しさと辛辣さをわざと被っていると言ってもいい。

「何かあってからじゃ遅いんだよ。お前にだって大切な人がいるだろ」
「月嶋が家族に何かするって事か?」
「それだけじゃねえよ。既成事実でも作られたらどうするんだ」
「男同士だぞ」
「関係ないだろ。男だって男に恋して乙女になる。だったら既成事実も十分あり得るだろ」

赤澤の口から「乙女」という言葉が出て少し変な気分になったが、今の春人にはぴったりの言葉だった。

「お前は普通に仕事してろ。いいな」

彼の言う通り、このままだと何も変わらない。そして、今後の立場を考えれば強く言う事も出来ない。

「……分かった」
「それでいいんだよ」

村崎は赤澤にこの件を託すことにした。
 ミーティングルームを出て、まさか振られる算段が取られていることを知らない春人がアルバートに指導をしていた。
 その姿を見て、やはり赤澤を止めようか悩む自分がいる。そして同時にそんな事を思ってしまった自分に、また嫌気がさした。

 その後ろからポンッと肩を叩いて出てきた赤澤が、そのまま春人の元へ向かう。
そして何やら渡すと本人も業務へ戻った。


◇                      ◇                    ◇

 赤澤から渡されたメモ用紙をこっそり開く。

  —昼休み、3階非常階段—

それだけが書かれていた。
良い事で呼び出されるわけではないと分かっている。だが、春人も赤澤に尋ねたいことが出来た為丁度良かった。
 メモ用紙をポケットの中で握り潰す。荒ぶりそうになる気持ちを押さえつけて、指導に専念するが時間は一向に進まない。
昼休みを迎えるころには仕事終わりと同じくらいの疲労感が溜まっていた。

 そして昼休み。赤澤より先に所定の場所で彼を待つ。
 重たい非常階段の扉を開けると、冷たい風に鳥肌が立った。今から始まる戦いの武者震いの様に感じてしまう。

「待ったか?」

少し遅れてやって来た赤澤。
その目はもう、春人を睨み付けるかのような鋭さだった。

「今来たところです」
「そうか。わりいな、呼び出して」

春人の革靴がコンクリートの床の上でジャリっと音を鳴らす。

「僕も赤澤さんに聞きたいことがあります」
「俺に? 何だよ」
「赤澤さんは……」

言う側、言われる側共に生唾を飲む。

「赤澤さんは村崎が好きなんですか?」
「はあああ?!」

真面目な顔でとんでもない事を言い放った春人に、赤澤は壁に後頭部をぶつけた。
答えが気になる春人に、打撲個所を擦る赤澤の心配をする余裕はなく、更に問い詰める。

「肩組んでたじゃないですか!」
「仲が良いからに決まってんだろ!」
「って事は、赤澤さんの片想いですか?」
「ふざけんな! 俺たちどっちも既婚者なんだよ! 俺とあいつはただの同期だ!」

声を荒げて、赤澤が大切な事を再度繰り返す。

「同期だ! ど・う・き!」

それでもまだ疑いの目を向ける春人。

「どうみたらそう見えるんだよ。あれか? 嫉妬か? 恋は盲目っていうけど、お前どんだけ村崎の事好きなんだよ」

呆れて頭を掻く赤澤。その目の前で春人は顔を真っ赤にしていた。

「どうして僕が村崎部長を好きだって知っているんですか?」
「あ? 顔に書いてある。分かりやすいんだよ、お前」
「え?!」

沸騰して湯気でも出しそうなほどさらに真っ赤になる春人に「てか、俺、告白の現場にいたし。千葉の本社だろ?」と赤澤が追い打ちをかける。

 春人が村崎に告白した部屋の外に赤澤はいた。新人の配属会議の打ち合わせ後、同期の顔を見て帰ろうと探した折に、告白が聞こえてきたのだった。

「村崎に断られて、走って出て行っただろ?」
「……たぶん」
「たぶんて……」

 優しく断られた春人は、告白を連投するも最後にはどうしていいか分からなくなり、部屋を飛び出したのだ。その時、赤澤は廊下にいた。気持ちの高ぶりで我を忘れていた春人にはその部分の記憶は曖昧で、赤澤がいた事実にさらに記憶が混乱する。

「月嶋」
「……」
「おい、月嶋!」
「は、はい」

ようやく目の前の赤澤に向き直る。
そして……
重いため息とともに赤澤が引導を渡した。

「村崎の事は諦めろ。迷惑だ」

 村崎に一目惚れした時と同じ衝撃が走る。しかし、いつまでたっても心は浮かばれない。それどころか血液までも冷えきったかのように背筋が凍った。
 放心状態の春人に赤澤は畳みかけた。

「あいつは優しい。だからきちんと断れないでいる。はっきり断らないのは、お前に微かな希望を持たせているわけじゃねえ。」

褒めてくれる度に抱いていた淡い気持ちに亀裂が入る。

「あいつが部下を傷つけたくないと思う優しさからだ。」

部下という単語が身体の芯まで突き刺さる。

「いいか! これだけははっきり言っとく」

亀裂と、その隙間にトドメとばかりに刺された「部下」という矢が、亀裂を大きくしていく。

「村崎はお前の事を部下としか思っていない! もう無謀な片想いは捨てるこったな」

 音を立てて全てが壊れた。
破壊の衝撃は胸に激痛をもたらし、見えない痛みに立っている事すら辛い。

「でも……」

その先の言葉が出てこない。
恋の霧を赤澤によって剥がされ、本当は奥底に隠していた「無謀」という真実が鮮明に存在を主張している。
 分かりきっていた事だったのに、いざ目の前に突き付けられると何も言えなかった。覚悟していてもその衝撃は春人の心を粉々にし、言葉を取り上げてしまった。
 一度開いた口を閉じる春人。
それを幕引きだと理解した赤澤が背中を向ける。

「それだけだ」

全ての終わりを告げる鐘の様に、重厚な音を立ててしまった非常階段の扉。
 恋を隔てた扉の様に見えるその向こうに赤澤は消えて行った。

「でも……」

先程と同じ言葉を零す。
扉の向こうに想い人がいるかのように、泣きそうな声で続きを振り絞った。

「でも、それでも、僕は村崎部長が好きなんだ」

非常階段を駆け抜ける風に攫われそうな程小さな最後の告白。
それに返事をするかのように、ほろ苦い香りが春人の鼻を掠めた。
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