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第十六話 目から棘ビーム
しおりを挟む夏が間近に迫った空は痛いほど青い。その下で歩く男は腕を痛め、その横をトボトボと歩く男は心が痛かった。
「何もそこまで気にする事はないだろ。生理現象だ」
「いや、それじゃ片付けられないでしょ」
松崎は本当にどうも思っていないと言った表情で、逆に小池の羞恥心を煽った。
「あんな部署で働いているのだ、自慰の一度や二度や五十度、見てしまった事はある」
「ざっと計算しても年に数回は誰かの自慰を見てるってことですね」
「それに君の気持ちを知っているのだから当然だ。それとも本当に洗濯機プレイだったのだろうか? だが心配する事はない。機械の音に興奮するという性癖だってあっても問題ではない。なかなか値の張ったドラム式洗濯機だった。きっと君を最高の快楽の淵に連れて行ってくれるだろう」
と熱弁する松崎に小池はジト目を向けた。
「それ本気で言ってますか?」
「……さしずめシーツの匂いかい」
「……ノーコメントで。ん? 足が悪いんですか?」
少しだけ隣を歩くスピードに違和感を覚えた。腰の動きがいつもより細かく上手く歩を進められていないように見える。
「新しい下着があってないとか?」
「うむ。そうかもしれない。ウエストの食い込みがきつい。かと言ってもうワンサイズ上のは良い色がなかった」
ウエストに左指を這わせながら松崎はスーパーの自動ドアの前に立つ。ドアの反応が遅くて少しだけ立ち止まった姿は姿勢が良い。籠を持つ小池は思わず臀部に視線を向けてしまう。
だが、周囲から見れば本当に親子にしか見えない。誰もオッサン好きのゲイと、女性用下着を着けたオッサンとは思わないだろう。
「一昨日カマゾンから届いていたやつですよね? どんなの履いているんですか?」
「洗濯をする時にみるだろ」
「今聞きたいです。あっ、言っておきますけど、下着では抜いてないですからね」
「別に抜いてもらっても構わんがね」
「え?」
聞き間違いか?
そして何故そんな事を言ったのか。それを問い詰めようと乳製品のコーナーへ行ってしまった松崎を小池は慌てて追った。
「あの! それってどう「松崎じゃないか!」
小池の問いは別の声に消されてしまった。
グワッと殺気を込めて振り向いた小池は、その瞳の色を急いで変える。
目の前には背の高いお洒落なダンディーがいた。白髪が少し混じった頭とシックな色の服の着こなし。だが手にしているカンカン帽が陽気な声と共にこの男の元気な性格を表している。
「椛島社長」
松崎と小池の務める会社の社長・椛島がそこにはいた。
小池は椛島と会うのは入社式以来だ。
「おや、君は?」
「うちの部署の小池直樹ですよ。あの例の企画のデザイナーです」
「ああ、彼が。しかしこんな非番に二人で何を?」
「今、手が不自由なので私の身の回りの世話をしてくれているのです」
「ほお。若いのに感心だな。しかし歳が離れすぎだろ? ひと声かけてくれれば俺が駆けつけたのに」
「何をおっしゃいますか、社長にそのような事頼めません」
「君と俺の仲だろう? なんなら今日から行こうか? 久しぶりに君とも飲みたいしね」
椛島は小池の事など見ていない。いないものとして松崎と話しているようだった。自分の名前は会話に出ているのに液晶画面の向こうの映像でも見ているようだ。違う次元の世界にとり残されている。
「またそのうちでも」
松崎が断ってくれて小池は心の底から安堵した。
「では買い物があるので」
「ああ、またね! ……小池君もね」
最後の最後に、椛島は権力者特有の相手を縛るような視線を小池に向けた。小池は小さく礼をし、松崎にくっついてその場をあとにした。まだ背中に視線を感じる。
(嫌な予感がする……)
それをひしひしと伝えてくる。
だが何事も無かったかのように買い物は勧められた。いつもは料理係の小池が籠に食材を入れていくのだが、今日は松崎も籠にチーズやサラミなどを入れてきた。
「飲むんですか?」
「お酒飲める?」
「飲めます」
黙々と作業をしていく松崎。小池は初めて松崎と飲酒ができると思っていたのに、胸のざわつきが酷く素直に喜べない。
帰宅後も松崎の行動はおかしかった。部屋の掃除の行き届き具合を確認し、客間の掃除まで始めた。今は小池の私物があるが量はさほどない。だが、それを一つに纏めさせた。
「これってどういう意味なんですか?」
わけが分からず小池は客間のベッドメイキングを始めた松崎を手伝いながら尋ねた。
「一旦終いにしよう」
「え?」
この生活が終わる?
でも何で?
脳裏に浮かぶのはカンカン帽を持った男の姿。しかしそれとこの生活の終わりの関係性が見えない。何かスーパーで至らぬ点があったか? そう不安が過る。
「今は上司と部下に戻ってくれ」
「……」
小池はまだその意味をきちんと理解できていない。
———ピンポーン
玄関のチャイムに松崎が肩を竦め溜息をついた。そして口に人差し指をあてる。
「今日だけ近親相姦プレイは中止だ」
そうしてインターフォンで誰かと会話をし、棒立ちになっている小池を置いて玄関へ行ってしまう。
とりあえず追い出されるわけではないと分かったが、相変わらず胸騒ぎは治まらない。
「はい」
扉を開ける音がして、松崎の呆れた声がする。
「やっぱり来たんですか……椛島社長」
小池の嫌な予感は的中する。
お酒は小池と二人で飲む為ではない。
つまみを選んでいたのも、こうなる事が分かっていたからだ。掃除もそれと同じ。
そしてきちんとした約束もとりつけず家にやってくるほどの仲の良さ……
「だって最近飲めてないしい」
小池は猫撫で声がする方を振り向いた。
「ほら松崎……いつもの……」
最後を強調して椛島が松崎に渡していたのは玄関に生けられている花と同じ物。
そちらの知識に疎い小池にはその花の名を知らない。だが、二人は知っている。感想を言い合い、匂いを堪能し、二人だけの世界が出来ている。小池は花の香りに阻まれ近づけない。
椛島をリビングに招き入れる。コーヒーを入れる小池に松崎が「濃いめね」と椛島の好みを伝えてくる。悔しさで沸騰しそうな気持を沈めて、お湯が沸いたケトルを持つ。
広いカウンターキッチン。そこに肘をつき椛島は二人を見比べている。
「本当に小池君いたんだ」
わざとらしい言い方にケトルを持つ手が滑りそうになった。
「松崎が人を入れるなんて珍しいね」
「そうですか?」
「ここにだってもう俺くらいしか来てないでしょ?」
「最近はランジェリーの企画で忙しかったので」
「忙しくない時は誰か来てるの?」
ドリップしていたお湯が跳ねる。
「いえ。誰も。今は小池君だけですよ」
久しぶりに呼ばれた苗字に、当然の事なのに落ち込んでしまう。
「ふーん。でも何で小池君に世話を任せているの?」
「仕事の指導も兼ねてです。今回の企画、小池君にとっては初めての仕事なので。次につなげてほしいので指導はしっかりと」
サラリと嘘をついた松崎だったが、椛島は納得していなかった。
「本当にそれだけ?」
「それ以外に何があるんですか?」
「それ以上に深い中なのかなって。二人の雰囲気ってどこか柔らかいけど危ない……薔薇の様に見えるから」
核心に近いところを突いてくる。
「薔薇みたいなのは小池君だけの気もするけどね? 棘付きだけど」
口角を上げる椛島の目は笑っていない。完璧に椛島は小池の想いに気が付いている。
そして小池も気が付いている。
「椛島社長も薔薇みたいですね」
この男も同じ……
——松崎を狙っている
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