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第十二話 ライオンとダンディーと時々、ハスキー犬

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 あの二丁目事件から数日後。
 松崎はアラームが鳴る前に目が覚めた。伸びをする事もままならず、背骨だけポキポキと鳴らす。
 深呼吸をすると白米にあう香ばしい匂いに口内が湿る。そしてそれよりも先に居座っているベタつきを流す為、寝室を出た。
 脱衣場の鑑には昨夜より髭が伸びた松崎の顔が写っている。
左手で水道のレバーを上げ、同じ左手で歯ブラシを取り濡らした後、再び立てかける。歯磨き粉のチューブに圧を加えると慣れない左手のせいで大量に噴出してしまった。
 細くため息を吐き、からい歯ブラシを口に突っ込んだところで、鏡の端に若い顔が写り込む。

「また無理して! 駄目ですよ、俺に頼って下さい!」

小池直樹。オッサン好きのゲイだ。

「ね? お父さん!」

──今、松崎の息子をしている。


              *

 
 事の顛末はあの二丁目事件だ。
松崎が小池を息子発言した後、事態は更なる急展開を見せた。

「嘘つけ」

井口が嘲笑う様に言う。

「直樹には両親がいないんだぜ? つくならもっとましな嘘つけよ」

小池のプライベートの姿が垣間見える。当の本人は井口に肩を抱かれ俯いたままだ。

「君は彼のプライベートを知るほど仲が良いのかい?」
「まあな」

 自慢げに鼻を鳴らす井口の薬指に視線を落とす。

「ならば尚更彼を離したまえ」

 そして小池の肩を抱く井口の手首を掴み、指輪を目線と同じ高さに合わせる。
 年月が経った指輪は生活感を出したくすみ方をしている。そしてその持ち主は更にくすんで見えた。

「妻がいるのではないか?」
「あんたには関係ないだろ」
「私にはね。しかし彼はどうだ? プライベートを明かせるほど心を許しているというのに、不倫の片棒を担がせる気か?」
「別に俺の為じゃない。こいつの為でもあるんだよ。今日は慰めるためにエッチするんだよ。な?」

小池は何も言わない。
その代わり井口はベラベラとしゃべり続ける。

「振られたんだとよ」

拳を握った小池に、松崎は責任を感じてしまう。それと同時に井口の腕を掴む手に力を込める。

「やはり君は信用ならんな。一度まででなく、二度も彼のプライベートを晒すなど」

 井口の腕を、汚い物を捨てるように投げ放つ。苦虫を噛み潰す表情の井口を尻目に、松崎は小池に歩み寄る。
小池は逃げはしないが、真正面からは向き合わない。松崎は怯えている彼の肩を自身に寄せた。
 恋人以下、しかし上司と部下以上の距離で、松崎は小池に囁いた。

「私は君を振ったわけではない」

小池の肩が跳ねるのが伝わる。

「少し時間が欲しい。君の事をじっくり考える時間がね」
「それって……」

ようやく小池は顔を上げた。そこに降り注ぐ人生が蓄積された柔らかい笑み。
空から降り注ぐ天使の梯子に似たそれに、未来はまだ自分で変えられるという希望を与えられる。
 しかし、その一方で、この状況になんの文句もつけてこない井口は地獄を迎えていた。

「何でここにいるんだよ」

怯えた声に、小池と松崎は、井口を見る。

先程まで威勢の良かった男が、ちょうど腰を抜かしてヘナヘナとアスファルトに掘られる予定だった尻を着けたところだった。
そしてその奥には……

「順子」

井口の妻がいた。それはもう鬼の形相だった。
松崎は嫌な予感がして咄嗟に小池を背中に隠したが、ひょっこりと直ぐに顔を出す。
 そして二丁目ではあまり聞かない高い声がヒステリックに喚きだした。男と不倫をしている事を嗅ぎつけた妻の怒りは混乱と狂気を纏い、辺り一帯の店からやじ馬を呼び寄せた。
 丁度、松崎が入店しようとしていたOZIからも人が出てきた。松崎、小池、井口夫婦を囲む形で人が群がり始める。
 人間コロッセオが形作られた時には、井口夫妻が一方的な格格闘技を開催していて、主催のメスライオンは暴れ狂っていた。不貞を働いたオスは蹲り謝罪すら挟む隙を与えられない程の攻撃を肉体と精神に与えられ万事休す。
そこへ止めに入ろうとした何人かも巻き込み、お祭り騒ぎ。汗とアルコール臭いカーニバルへと変わり、気が付くと松崎は小池を抱き締めていた。

「ぶ、部長、今のうちに……」
「そうだな」

身を屈めて逃げようとしたが、怒り狂ったメスライオンが小池の足を掴んだ。

「ちょっと貴方! まさか若さで主人をたぶらかしたんじゃないでしょうね?!」

夫の井口だけでなく、まだ未遂の小池にすら牙が向く。その怒気を含んだ言葉からはアルコールの臭いがする。
 松崎は瞬時に危険を察知した。
 そしてその予想は的中する。

「小池君‼」

慌てて小池を突き飛ばした松崎。小池の肩があった場所、まさにそこにゴルククラブが降り降ろされた。

——ヒュッ‼

間一髪小池の肩への直撃は免れた。しかし、その肩を押した松崎の右腕にバキッという嫌な音を立てた。

「ぐッ‼」

松崎は電気が走るような痛みに襲われ顔を顰めた。だが、アドレナリンのせいで痛覚は麻痺し始め、骨折したにも関わらず、反射的に小池に覆い被さり第二波から彼を庇った。
 次の衝撃は振り襲られることなく、代わりにハスキーな声が響き渡った。

「ちょっと! 何しているの!」

松崎の下で小池が「リツさん」と言うのが聞こえる。その瞬間、辺りは静かになり、何事も無かったかのように人々は散り散りになっていく。気が付けば井口もいなくなっており、順子も夫の名を叫びながらどこかへと消えていった。
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